『絵本・白峰アカネの冒険』21.狂気と正気のあわいにて
アカネは岩肌に封印される。そこにあったのは、アカネが予期していた恐怖ではなく、大きな安らぎだった。しかし、唐突に封印が解け、アカネは現実世界に押し戻される。そのアカネに、山肌に浮かび出た男の顔が話しかけてくるのだった。
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「あなたは、いったい、だれですか?」
異常な状況なのに、ひどく平凡な問いが口をついて出た。
「私は……」
「顔」が答えかけて、言いよどんだ。
「あなたは?」
「私には……わからない誰かだ」
「はぁ?」
アカネの半ば呆れ半ば非難する声を浴びても、岩肌に埋め込まれた「顔」は、能面のように無表情だった。
「だったら、誰になら、あなたの正体がわかるんです?」
アカネは嫌味を言っただけで答えなど期待していなかった。ところが、能面が答えを返してきた。
「私をここに封印した者は、私が何者だったのかを知っている」

「封印……ですって? あなたは、ここに封印されたのですか?」
「そうだ」
「封印される前のあなたは、人間だったのですか?」
「そうだ」
「それなら、なぜ、気が狂わずにいられるのです?」
「私が狂っていないと、どうして言い切れる?」
「こうして、私と話しているではないですか」
「会話らしきものが成り立っているからといって、狂っていないとは言い切れない」
理屈としては、「顔」の言うとおりだ。
しかし、封印された後にそれを解かれた人間は、完全に正気を失って会話らしきものすらできないと、アカネは巫女養成課程で教えられていた。そうした人々は、いちように「視線が定まらず、何かにおびえたように身体を震わせ続け、水や食物を取ることすら忘れて」いる。封印を解かれた人間を生きながらえさせるためには、無理やり水分と栄養を摂取させる必要があると、アカネは教えられていた。それに比べたら、この「顔」は、断然、正気の側にいるだろう。

「私が知る限りでは、封印を解かれたあとに正気でこちらの世界に戻ってきた人はいないのです」
「私は、まだ、そちらの世界に戻ったわけではない。戻ったら、私も狂ってしまうかもしれない」
なるほど、それも一理ある。封印されることでなく、封印を解かれることで気が狂う可能性も否定はできない。
と、ここにきて、アカネは、自分がとんでもなく大切なことを忘れていたことに気づいた。
ーーいったい、今の自分は、正気なのだろうか、それとも、狂っているのだろうか?
アカネは、いったん封印されたはずだった。封印されることで自他を区別する意識が消えてゆき、深い安らぎに浸り始めた。ところが、そこで封印が解け、こちらの世界に押し戻された。だったら、なぜ、私は、狂っていないのだろう? いや、本当は狂っていて、狂っていないという幻想にとらわれているだけかもしれない。狂気が著しく進むと、狂っているという自覚すら失われると聞いたことがある。



「君は、狂っていない」
「顔」が、まるでアカネの内心の不安を見抜いたかのように、なだめるような口調で言った。アカネにはありがたい言葉だったが、それに喜んで飛びつく気にはなれなかった。
「あなたは、あなた自身が狂っているかもしれないと言った。狂人のあなたが、なぜ、私は狂っていないと断言できるのです?」
「私は、封印されて狂った人間を何人も見てきたから、わかる。君はこちらにいる間、狂っていなかったし、そちらに戻っても、狂っていない」
「顔」の言葉が、またもアカネを驚かせた。
「あなたと私以外にも、ここで封印された人間がいるのですか?」
「そうだ。私と君の他に五人がここで封印された」
「その人たちは?」
「こちらにいる。だが、私は、彼らとは話すことができない。彼らは、黙って眠っているか、さもなければ意味のわからないことを大声で叫び続けているだけだ。彼らとともにいることは、とても、とても辛い」
「顔」が、これまでになく感情のこもった口調で言った。その能面も、心なしか歪んで見えた。

「では、どうして、あなたは、狂っていないのです? それから、私も?……私が、本当に正気だとしたらの話ですけど」
「君は、正気だ。私が請け合う」
本当に正気かどうかわからない相手から請け合ってもらっても心もとないと思ったが、それを、いま口にしても仕方ない。
「封印される前に頭を強く打ったことと関係していいるのだと思う」
「顔」が言った。
「頭ですか?」
そう言われると、リンの子分が巻き起こした風で飛ばされたとき、左の側頭部をしたたかに岩に打ち付けていた。あれが、どう影響したというのだろう?

「私は、封印されるまえに、左側頭部を強くなぐられた。君は、封印されるまえに岩肌に左側頭部をぶつけていた。これは、あくまで仮説だが、左側頭部への打撃で一時的に言語脳の機能が低下したから、正気を保てたのだ」
脳機能が低下したから正気を保てたとは、おかしなことを言うと思ったが、そのおかしな話に興味が湧いてきた。
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