正統派アンチワーク思想を批判する(その1)
ボブ・ブラック『労働廃絶論』そして、それを理論的に突き詰めたアンチワーク哲学は、アンチワーク思想の系譜から見ても異端である。そのことを以下の記事を読んで改めて思い知らされた。
上記は日本に加速主義を紹介した論者としておなじみの木澤佐登志氏によって書かれた記事である。ここでは、正統派のアンチワーク思想の系譜を綴りつつも、最後に番外編的に『労働廃絶論』が紹介されているが、木澤氏は、ラファルグやラッセル、マルクスといった正統派アンチワーク思想とブラック『労働廃絶論』が全く異なるものであることを指摘している。
『労働廃絶論』はここまで紹介してきた「反-労働」の系譜から大きく逸脱している。というのも、マルクスからラファルグ、ラッセルにケインズ、そしてアウトノミア運動まで、彼らが主張してきたのは多かれ少なかれ「労働時間の削減」であった。しかし、ブラックの『労働廃絶論』はそうではない。彼は、文字通りの意味における「労働の廃絶」を主張するのである。人々は、たとえ一分間であったとしても労働するべきではない、と。完全雇用ではなく、完全失業をこそ志向するべきである、と。
私たちの議論とブラックの労働廃絶論は対立関係にあると言えるだろう。とはいえ、この書物には私たちの中に眠る「何か」を触発させる豊穣かつラディカルなアイデアが含まれていることも確かだ。
とはいえ、ここまでハイコンテクストな理解をしている論者は珍しい。基本的に『労働廃絶論』あるいはアンチワーク哲学は、正統派アンチワーク思想と十把一絡げに扱われている。さらに言えば、正統派アンチワーク思想の信者たち(それはもはや人類の半数以上を占めている)も、あたかも『労働廃絶論』は自分たちの思想を象徴するものであるかのように感じている。とはいえ、それは『労働廃絶論』の難解さゆえに誤解されているにすぎず、実際には、木澤氏が指摘するように正統派と異端派が依拠しているパラダイムはまったく異なっている。
今回は、木澤氏の記事を参照しながら、正統派と異端派の違いを分析しつつも、異端派の立場から正統派への批判を行ってみたい。
※なお、私はここで正統派アンチワーク思想を攻撃するが、あくまで理論的な意味である。私は異端派であるが、正統派とも実践的には連携できると考えているし、連携したいと考えている。正統派に属する皆さんも、あくまで知的な戯れとして、この記事を温かい心で読んでいただけると幸いである。
正統派アンチワーク思想は常套手段として、手始めにマルクスを引用しながら疎外された労働への批判を行う。それはこんな具合である。
近代以前の労働は、生産手段を労働者自身が所有していて、労働の対価をそのまま受け取っていた。だから疎外されない自由な労働だった。しかし、近代資本主義以降における賃労働は最悪である。賃労働においては、生産手段は資本家に握られてしまう。だから労働者は資本家に支配され、疎外された労働を行わなければならなくなった、云々。
当該記事においても、同様の手口が使われている。
近代以前の労働は基本的に自給自足だった。自分が管理できる土地で、自分が管理できる道具(生産手段)を用いて労働を行い、そして自分が働いた分だけの「対価」をそのまま得る。こうした自給自足に基づく労働は、賃労働の登場によって劇的な変容を被る。私たちが行う就職活動はその象徴だ。そう、私たちは会社に雇われ、他人である上司の命令するままに労働を行わなくてはならない。その労働の対価として会社から支払われるのが賃金と呼ばれるものだ。
まずマルクスの見立てでは、近代以前の労働は基本的に「自由」な行為だったとされる。ところが、近代の賃労働においてはそうではない。というのも賃労働では、労働者はみずからの労働力を雇い主に売り渡してしまっており、会社のために働くように強制されているからである。自分が自由に管理できる土地やインフラも、自由に管理できる道具も機械もない。なぜなら、そうした生産手段は会社がすべて所有しているから。結果、労働者は意識的に労働しているにもかかわらず、その労働を自己の目的にしたがって自分の労働として行うことができない。ここに、賃労働に特有の「苦しみ」が生まれる。こうした、「自発的な強制」として課される労働、自由が否定された労働をマルクスは「疎外された労働」と呼んだのだった。
要するに「近代以降の労働は賃労働だからクソだ」というわけだ。この時点で若干、的外れな印象を抱くのは私だけではないだろう。まず真っ先に思いつく反論はこうである。「じゃあみんなフリーランスになれば解決するの?」だ。
たとえばフリーランスのカメラマンやライター、ITエンジニアなんかは、生産手段を所有しているし、自分の労働の対価をそっくりそのまま受け取ることができる。スケジュール管理も思いのままだ。業務委託かつフルコミッションの保険営業、個人タクシー、ウーバーイーツの配達員なんかも同様であろう。彼らは賃労働ではない形で労働している。しかし、バラ色ハッピーな日々を送っているわけではない。生活のためにはモンスタークライアントの理不尽な要求に屈せざるを得ず、酷ければ会社員以上に過酷な労働を強いられている。彼らの様子を見て、「生産手段を所有していて、疎外されていないから問題ではないな・・・」などとは口が裂けても言えないのである。
※なお、上記の意見にはランサーズやウーバー、DiDiなどのプラットフォームを資本に所有されているから疎外されている(だからフリーランスも苦しんでいる)のだという批判もあり得るだろう。しかし、もしそうならランサーズの手数料がゼロ円であったり、ランサーズをフリーランスの労働者組合が運営したりするならすべてが丸く収まるはずだが、明らかにそうはならない。ゆえにこの批判は簡単に退けられる。
一方で、ティール組織の実例からも明らかなように、労働力が賃労働として組織化されていようが、生産手段を会社や株主に所有されていようが、自由で、自発的で、裁量のある働き方を実現し、幸福に満ち溢れている職場は山のようにある。彼らは賃労働をしていても、疎外された労働を行っていない。
こうした事態を見ると、それが「賃労働かどうか?」あるいは「生産手段を所有しているかどうか?」などは、問題の本質ではないことがわかる。
では本質はなんなのか? それは「強制」にあるわけだが、詳細は後の議論にゆずろう。ともかくここでは一旦疎外論ののちに続く正統派の議論を辿ってみたい。
とはいえ、仮に疎外論を受け入れるのだとしても、続く正統派アンチワーク思想の展開もまたチンプンカンプンであると言わざるを得ない。象徴的な論者はラファルグであり、木澤氏の記事においても引用されている。
「資本主義文明が支配する国々の労働者階級は、いまや一種奇妙な狂気にとりつかれている。その狂気のもたらす個人的、社会的悲惨が、ここ二世紀来、あわれな人類を苦しめつづけてきた。その狂気とは、労働への愛、すなわち各人およびその子孫の活力を枯渇に追いこむ労働に対する命がけの情熱である。こうした精神の錯誤を食い止めることはおろか、司祭も、経済学者も、道徳家たちも、労働を最高に神聖なものとして祭り上げてきた。」(1)
当時、疎外された労働を担う労働者階級(プロレタリアート)ですら、労働を「神聖」なものとして捉えていた。ラファルグは、この「労働=神聖」思想(私たちの語彙で言えば「労働倫理」)に対する徹底的な批判を展開する。
要するに、労働を美徳として捉え、労働に勤しめば勤しむほどに救われるというプロテスタント的世界観がよくない、というわけだ。そして、正統派アンチワーク思想の旗手ラファルグは、怠ける権利を宣言することの重要性を訴え、一日三時間労働を主張する。
では、どうやって一日三時間労働を実現するのか? ラファルグが言うには、それはもうすでに機械によって実現可能である。しかし、労働倫理が労働時間の短縮を阻止していて、その結果、労働時間は短縮されていない。だからこそ、怠ける権利を訴える必要があるというわけだ。
この終わり方はどうも胡散臭い。根性論の臭いがする。要するにラファルグは「労働時間が減らないのは、お前たちが労働時間を削減しようとしないからだ」と言っているわけだ。
しかし、どうだろう? 実際のところラファルグの時代から現代にいたるまで、私たちは労働時間を減らしたいとずっと願ってきた。それでも減っていないではないか?
考えてもみて欲しい。「機械を活用して、効率的に働き、労働時間を削減しよう」と提案したときに、「ならん! 労働はそれ自体が素晴らしいのだ! 仮に機械化可能だったとしても、労働時間は減らしてはならない神聖なものなのだ!」と語気を荒げる労働至上主義者がどこに存在していると言うのだろうか? 私はそのような人物を、これまでの人生で一度たりとも見かけたことがないのである。大企業の役員から、中小企業経営者、下っ端の労働者からニートに至るまで、ごく一部の人間を覗けば「機械にできることは機械に任せといたらええんや。AIなんかもうまく活用して効率化して、みんなもっと休んだらええねん。日本人は働き過ぎや」と口をそろえている。私の体感的にはこのような意見には日本人の9割が同意するのではないかと感じている。
つまり、もうすでにラファルグの言う怠ける権利を万人が主張しているわけだ。しかし、一日三時間労働は達成されていない。ラファルグに則った正統派の論者はこれをどう説明するのだろうか? 「いや、まだまだ気合が足りていない! もっと労働に反対しよう!」とでも言うのだろうか? 恐らく多くの人は労働時間を減らすべきだと考えているし、技術的にも可能である。しかし、なぜかそうなっていないのだ。その説明を、正統派は一切提供できていないと言っていい。
そして、別の角度からもラファルグを引用する正統派の論は批判されなければならない。読者はそろそろお気づきなのではないか? 疎外論がすっかり忘れ去られているという事態に。
マルクスからラファルグに展開するお馴染みの正統派アンチワーク思想においては、労働の疎外が問題であると主張したのちに、労働時間を削減しようと訴えかけてくる。しかし、技術的にまったく現代よりも劣っている近代以前においても、疎外されない生産は可能であったことは正統派も認めている。だったら技術とは関係なく、疎外されない生産を目指せばいいのではないだろうか? 労働時間を削減しようと疎外は疎外なのだ。なら、そもそも疎外されないことを目指すべきではないだろうか? 言ってみれば正統派は「ウンコ味のカレーはまずい! 昔の人はカレー味のカレーを食っていた!」と主張したのちに「ウンコ味のカレーは一日に一食までにしよう!」と主張しているのである。ふつうにカレー味のカレーを食えばいいではないか?
とはいえ、その方向性に突き進もうとした正統派は袋小路に陥らざるを得ない。生産手段の共有によって疎外されない生産を目指した左翼の大失敗が脳裏をチラつくのである。毛沢東やスターリンと同類だと思われたくない人々は、疎外論をほっぽり出した。そして、世間的にウケのいい労働短縮論に鞍替えしたわけだ。
おそらく正統派は疎外論を真面目に受け止めてはいないというのが実情だろう。私は正統派アンチワーク思想の提唱者に質問してみたい。「疎外された労働を三時間やるのと、疎外されない生産を三時間半やるのとどちらがいい?」と。おそらく前者を選択するのではないだろうか?
正統派は、疎外が問題であると言って舌の根も乾かぬうちに、機械化による労働時間の削減を訴える。結局のところ正統派は、疎外されようが、疎外されまいが、生産は本質的に苦痛であり、短ければ短いほど望ましいと考えているわけだ(詳細は後述するが、この点が「生産は本質的に遊びである」と考える労働廃絶論やアンチワーク哲学との最大の相違点である)。
そうなるともう、正統派は機械化による加速主義を語らざるを得ない。加速主義と言うと、ラディカルで、革命的で、なにか時代をガラッと覆してくれそうな最先端の思想という印象があるが、実体は「技術を発展させて労働時間を削減しよう」という凡庸な一般論にすぎない。先述の通り、日本人の大半はこの意見に賛同するだろう。つまり、日本人の九割は事実上の加速主義者である。政治家や資本家であろうが、例外ではない。
だが、残念ながら加速主義者の願望とは裏腹に、AIやロボットが労働を一掃してくれそうな気配はない。最先端のロボットであろうが、ちんたらと料理を運ぶ程度が関の山であり、調味料を詰め替えたり、割れたグラスを片付けたり、ネギを刻んだりするためにはそれ専用のバカでかいロボットを何万人ものプログラマーが試行錯誤しながら発明しなければならないだろうし、それでも高校生バイトの働きに劣るだろう。私たちの労働には、名前のない細やかな業務が数百数千と存在している。それらは高校生バイトなら三か月もトレーニングすれば習得できるが、機械化するには数百台のロボットが必要になる。中華料理屋一つを運営するために百台のロボットを導入するようなバカげた社会が訪れるのは、果たして何百年後の話なのだろうか? それともシンギュラリティが訪れて、勝手にAIがロボットを設計してくれて、勝手に組み立ててくれるとでも言うのだろうか? 「現実をみろ」と言いたくなるのは私だけではあるまい。
そもそも、加速主義はブルシット・ジョブや過剰生産の問題を見逃している。すでに労働の大半は無意味なものと化しているし、必要量以上を生産している。それでも私たちは労働をやめられないのは、どう考えても技術的な問題ではない。あるいは(先述の通り)私たちが労働を神聖視しているからでもない。問題の本質は別にある。
では、いよいよ異端派の旗手「アンチワーク哲学」に登場してもらおう。アンチワーク哲学はどこに問題の本質があると考えているのだろうか?
アンチワーク哲学の主張はこうだ。
過剰生産も、ブルシット・ジョブも、消費を煽り立てる広告産業も、ドンペリを次々に空けてランボルギーニを乗り回したいという底抜けの欲望を抱く資本家の仕業ではない。少なくとも強欲な資本家はひとりではなにもできない。資本主義には、強欲な資本家の命令に付き従う労働者が必要なのである。
労働者は囲い込みによって共有地から締め出され自給自足の術を失い、食いっぱぐれないためには資本家に従う必要に迫られた。だから資本主義は労働者を一日に16時間も工場に閉じ込めることが可能だったのである(中世の農民を16時間労働させることはどんな強大な権力者であろうが不可能だったに違いない)。しかしそのメカニズムを理解できなかった哀れな資本家トーマス・ピールは、食いっぱぐれない方法が無数に存在するオーストラリアに連れて行った300人もの労働者を支配することができなかった。労働者たちは、現地民のコミュニティに出入りし、そこで生計を立てることが可能だった。わざわざピールに付き従う必要がどこにある?
『資本論』にも描かれたこのエピソードから、いとも簡単に一つの結論を導き出すことができる。資本主義を破壊するためには、あるいは、労働の害を取り除くためには、「食いっぱぐれない」という保証さえあれば十分である、と。永遠に食いっぱぐれない保障が与えられた労働者が目の前にいたとして、彼をどうすれば支配できるというのか? どうすれば彼にサービス残業を強い、パワハラをし、望まない転勤をさせることができるというのか? 私にはそのような方法はとても思いつかないのである。
同時に、彼にブルシット・ジョブに従事させることは不可能だろうし、過度な環境破壊やグローバルサウスの搾取、企業犯罪スレスレの詐欺行為をはじめ非道徳的な労働を実行させることも難しい。「生活のため」という理由以外で、こうした労働を実践する者が膨大に存在するとは常識的に考えづらい。こうした行為を労働者が一切拒否するなら、資本家になにができるだろうか?
そしてまた、「食いっぱぐれたくない」と願うのは資本家の方も同じであった。企業の経営者と話をしてみればよくわかるが、「生き残るため」とか「社員を食べさせるため」といった恐怖に突き動かされている経営者がほとんどである。結果、私たちはただ生きのびるためだけに、ブルシット・ジョブ(それは金持ちのお零れにあずかるための儀式である)と過剰生産によって消耗し、地球環境を破壊しつくしている。
食いっぱぐれたくないという恐怖が、人々を金の獲得競争へ向かわせる。現代の経済活動の大半は全体のパイを増やすことなく、パイを取り合う軍拡競争や、パイをたくさん持っている人からお零れを貰うための儀式になり果てている。こちらが電話営業を100本かければ相手は200本かける。こちらが広告費を1000万円つっこめば、相手は2000万円つっこむ。こちらがコンサル費に1億つっこめば、相手は2億つっこむ。金持ちに気に入られるためのビジネスマナー習得に100時間かけたなら、相手は200時間かける。こうした競争のために人々は満員電車に詰め込まれ、深夜にまずいコンビニ飯を掻っ込む羽目に陥っている。労働短縮に万人が同意しようが、技術がいくら発展しようが、労働時間が減らないのはまさしくこれである。
だからこそ解決策はシンプルである。金を刷って配る。ベーシックインカムだ。ベーシックインカムが金という権力を万人に配布することで、競争をする必要がなくなる。競争のために疎外されることに抗う権力を万人が手にすることになる。するともう私たちはやりたいと思うことだけやればいい。3時間労働ではなく、0時間労働である。
正統派の考えとは異なり、疎外されず自発的に行われる「労働」とはもはや労働ではなく、遊びである。生産と遊びを同じ言葉で表現する民族も珍しくなかったし、私たちが自発的な他者への貢献や生産を欲望することは、心理学者も脳科学者も口をそろえている(エドワード・L・デシやドナルド・W・パフ等)。また、そのモチベーションが他者や金銭によって強制された途端に、台なしになることも同様である。これらの主張を否定するのは、ほとんど科学の否定と言っていいだろう。
つまり金銭による強制を排除すれば、人々が自発的に、遊ぶように生産に取り組み始めるというアンチワーク哲学の主張は、論理的必然性のある結論なのである。災害ボランティア、ゴミ拾い、みんなでやる大掃除、文化祭の出店、コツコツ単純作業を繰り返す手芸、無償で成り立つオープンソースソフトウェアの開発・・・なんでもいいがこうした行為が自発的である限りにおいて遊びのような喜びに満ち溢れていることには多くの人は同意するだろう。無意味でブルシットな労働さえなければ、もっとこうした遊びに人々が取り組み始めることには疑いの余地はない。
異端派において、とくにアンチワーク哲学においては、労働は「他者より強制された不愉快な営み」であり、定義そのものが労働の問題点である。逆にそれ以外(強制されることと不愉快であること以外)の問題点は存在しないと言っていい。つまり、カタチ上賃労働であろうが強制されないという事態もあり得るし、逆にカタチ上賃労働でなくとも強制されることはあり得る。
そうした意味ではアンチワーク哲学とはプラグマティックなアナキズムである。賃労働であろうが疎外されようが、本人がよければそれでいいのだ。労働者のアソシエーションによって組織されたワーカーズコープで、時給1万円でガムを噛みながらだるそうにレジを打つ行為を正統派は称賛するだろうが、異端派からすれば撲滅が望ましい労働である。一方で、情熱に燃えるブルシットジョバーがサービス残業をしながら24時間ぶっ通しで誰も読まないプレゼン資料をキラキラに作りこむ行為を正統派は糾弾するが、異端派は肯定する。なぜなら、それは本人にとって遊びだからだ。その労働の在り方がどうあれ、本人が嫌ならそれは不愉快で強制されているし、本人が満足ならそれはそれでいい。これが異端派であり、アンチワーク哲学である。
逆に、正統派アンチワーク思想は、権威や権力を前提としている。「お前の労働は疎外されているからお前は不幸だ!」と、満足げに働くワーカホリックを怒鳴りつける指導的思想家を暗黙に想定しているのである。
※アンチワーク哲学はこうした問題をいとも簡単に回避する。なぜなら、「いや、俺は強制された労働をしたいんだ!」という人を怒鳴りつける必要がないからだ。彼は強制を望んでいるという意味で、強制されていない。つまり、もうその時点で労働をしていないため、労働廃絶というテーゼに矛盾しない。
さて、こうなったときに、労働、あるいは資本主義なるシステムになにか問題が残っているだろうか? 「搾取」なる問題はもはや過去のものである。労働が廃絶されれば、搾取問題が解決するのではなく、搾取という概念が消える。好きなことをやっている人を搾取することは不可能である。私は料理が好きだが、遠い銀河で私が料理している様を見て興奮する宇宙人がいて「ぐへへへ、この地球人を搾取してやったぞ」とほくそ笑んでいるのだとしても、私はなにも気にしない。同じように遊ぶように24時間ぶっ通しでチャーハンを提供し続ける人がいて、それを24時間ぶっ通しで食べ続ける人がいて「ぐへへへ、この料理人を搾取してやったぞ」とほくそ笑んでいたとしても、料理人は搾取されていないのである。もしそう思うのであればやらなければいいからだ。
このようにして、労働を廃絶することは比較的簡単である(少なくともシンギュラリティを訪れさせるよりは簡単である)が、残念ながら木澤氏の記事においてはブラックの『労働廃絶論』は非現実的なお花畑思想であると一蹴されている。
ブラックの主張は、前回私たちが検討してきた、ルソー的な自然状態、言い換えれば未開社会へのロマン主義的な回帰を寿ぐ、「疎外の克服」幻想のスキームにぴったりと収まる。だが、そもそも資本主義に汚染されていない原始の領域(=外部)はもはやどこにも存在しないのであって、「疎外の克服」など不可能なのではないか、という問題提起から加速主義は出発したのであった。
よくある「狩猟採集生活したいならいいけど、現代じゃ無理だよ・・・」という議論であるが、これは簡単に退けられる。資本主義の外部にある原始の領域など探り当てる必要はないのである。そもそもグレーバーも指摘するように資本主義の内部はコミュニズムによって運用されており、資本主義の内部にも、賃労働の中にも、疎外が克服された事例は無数に存在しているのである。近代以降のテクノロジー社会であろうが、金銭による強制の構造さえ破壊すれば、疎外が克服される。疎外されないままベルトコンベアの前でライン作業をすればいいし、データサイエンティストや、Vチューバー、深夜のコンビニでのレジ打ちや仮想通貨のレバレッジ取引をキッザニア感覚でやればいいのである(そして、そのとき賃労働がカタチ上残っているかどうかなど、いちいち気にする必要はないのである)。もちろん、やりたくなければやらなければいい。それで社会は十分に成り立つだろう。
そもそも労働=強制は人間のモチベーションや創造性を下げるという意味で生産性が低い。そのうえ、ブルシット・ジョブや過剰生産という無駄も生み出している。死ぬほど非効率な労働によってすら社会が成り立っているのであれば、効率的な遊びで社会を成り立たせることなど容易いだろう。
労働が消滅すれば、生産と遊びの区別は消え、すべてが遊びに包含されていく。誰かが一日中テレビゲームをしている傍ら、誰かが一日中農作業に勤しんでいても、誰も何も気にしない世界が訪れるのである。私たちは労働のプロパガンダによって、農作業が本質的に苦しいものであり、パチンコや風俗、ディズニーランドに行くこと、二郎系ラーメンを食べることは本質的に楽しいものであるというフィクションをお行儀よく信じている(このフィクションの歴史は、恐らく国家創設期と貨幣の誕生から始まったものであろうが、その説明は紙幅の関係で割愛)。こうした不可解なフィクションにすら付き従ってしまうほどお人よしの人類なのだ。誰一人として強制される必要がなくなったとき「みんなで好きなことをやりながら、人の役に立てば楽しいよね」という比較的妥当な文化的コードを普及させることなど、どれほど容易いことだろうか?
ともかく、ここまでが正統派と異端派の違いであった。しかし、私からすれば正統派の議論はもはや説得力がない一方で、異端派の正しさを裏付ける証拠は無数に積みあがっているように思われる。とはいえ、異端派の議論は、労働のプロパガンダに毒されきった私たちにはにわかには受け入れがたい。「トイレ掃除も、マリオカートをプレイすることも、どちらも本質的に遊びであり、欲望の対象である。人の役に立つことは喜ばしいことである」という説明はタブーのように扱われ、「人間は本質的に怠惰であり、ゴミであり、人の役に立とうとはしない」という耳障りのいい一般論に即座に打ち負ける。科学的な証拠は前者が正しいのだと裏付けているように思われるが、神学的な言明である後者の方が説得力があるように見える。だから『労働廃絶論』やアンチワーク哲学は異端なのである。
※また、アンチワーク哲学はニートや働きたくない界隈の人びとからも批判されがちであることは以前の記事でも指摘した。
とはいえ、異端派の議論は少しずつ受け入れられつつあるというのが、私の見立てである。『労働廃絶論』は重版になり、かつて出版した『働かない勇気』はkindleの哲学・思想書ランキングで一位を獲得した。賛同してくれる人も、影響力も、理解してくれる人も、日に日に増していると感じている。
異端派が異端でなくなる日が来る。それはもう数年以内に訪れるはずだ。私はその未来のためにこれからも筆をとり続けよう。
※続き
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