叫ぶ命の欠片たち-夜に読む短編集- 第2章 サナのいないお正月
叫ぶ命の欠片たち-夜に読む短編集-

第2話 サナのいないお正月
1
サナがお正月を知らずに死んだのは、私のせいだった。
きゃっきゃっという、舞い上がる羽根のように軽やかな笑い声が今でも聞こえる気がする。着させたい服があった。あの子に合いそうなふわふわな赤いリボンが付いた、ありとあらゆる可愛いを詰め込んだベビー服。女の子だと分かったとき、その日中に夫と西松屋に買いに行った。絶対似合うと言った夫は、目尻が下がり終始にやついていて、既にパパの顔だった。
「子どもははるひに似て絶対可愛いよね」
と夫に言われ、私は頬を緩めながら鼻歌混じりにカートを押した。
サナという名前を二人で付けた。サナが笑うと、家の中に一輪の花がパッと咲いたようだった。柔らかな肌は何時間でも触っていられた。むちむちとした足を握ると、力いっぱい蹴って嫌がる姿が癖になり、何度もやってしまいには泣き出された。それを見ていた夫は私を叱りながらも、私が見ていなさそうなときに同じことをサナにやっていた。
夫は、私のことを来世も離さない、どんな姿に生まれ変わったとしても必ず見つけてみせる、という台詞を真剣な瞳で語る人だった。そして私も夫も、サナのためなら何でも出来ると話していた。輝きの鈍い六等星の星屑たちの下、何回生まれ変わっても私たちはサナを迎えに行ってみせると宣誓した。産まれてきてくれてすぐに、私は見返りのない愛というものが存在することを知った。
なのに、私は娘を立派な大人に育て上げることも愚か、お正月も迎えさせてあげることすら出来なかった。今でも、身体中の血が抜けていくようなあの日の感覚が、生々しく蘇ってくる。
2
廊下の床の冷たさと踏んだ時のきしみ音、静まったダイニングで虚しく炊飯器の炊きあがりのお知らせが鳴り響いていた。でも炊き上がったご飯を食べることはなかった。何日も何日も保温のまま放置し、最後はそのまま釜をひっくり返してゴミ箱に詰め込んだ。ミルクを作るためにお湯も沸かしていた。でもやかんのお湯はそのまま水へと変わった。
ミルクを飲ませてあげようと思っていた。先ほどもあの子はミルクをあまり飲まなかった。だから次はちゃんと飲ませなきゃと思っていた。
やかんを火にかけ、私はダイニングの椅子に腰掛け、テーブルの上で頬杖をつく。あの子はリビングで大人しく横になってくれている。新生児育児は、想像をはるかに超えた忙しさと疲労が次々押し寄せ、息をつく暇もなかった。どんないいお母さんでも一度は子供を殺したくなると聞いたことがあるけど、あの子は完璧すぎる子どもだった。夜泣きで眠れないことも滅多にないし、あやせば笑ってくれる。成長曲線を大きく外れることもなかった。
だから、少しだけ気を抜いていたと言われても反論は出来ない。昨日はあの子が喜びそうなおもちゃをネットで探していた。夜更かししてしまった。睡眠時間二時間。もう少し、寝ていたいのが本音だった。
やかんの鳴る音で、はっとした。
少しだけ、うたた寝をしてしまったようだった。テーブルに手をついて立ち上がり、やかんを消しに行く。リビングからは何の音もしない。それがおかしいと気付いたのは、母親の勘というものだったのかもしれない。
見に行くと、我が子は目をつむっていた。でも寝ているのではないと一目見て分かった。顔に生気がない。口元に手をやる。呼吸が感じられない。名前を呼ぶ。サナ、サナ! 反応はない。全く微動だにせず、既に息をしていない我が子がそこにいた。
新生児が突然死することがある、と知識にはあった。でもまさか自分の娘が死ぬなんて、微塵も思ったことはなかった。もちろん事故に遭わないように、誤飲しないように、細心の注意は払っていた。
でも、どうにもならないこともこの世にはあったのだ。
3
「はるひは悪くないよ。何にも悪くない」
夫はそう言い続けてくれた。でも夫がお義母さんへの電話で泣いているのを見てしまった。
「俺がそのときいれば……」
そう言っているのを聞いて、私のせいだと思った。
サナに謝りたい。守ってあげられなくてごめんねと。サナは私たちを選んで産まれて来てくれた。なのに、私が母親になったせいで、サナの命は途絶えてしまった。どんなに謝っても、ごめんねと呟いても、サナにはきっと届かない。サナは、言葉を覚える前に死んでしまったから。
私がもし自ら命を経ったとしても、きっとサナのとこへはいけない。サナは天国で笑っているのに、私だけ地獄にいる気がした。
サナが死んだのは十二月三十一日。一睡も出来ぬまま迎えた一月一日。お正月だった。何にもめでたくなんてない。生きていた中で一番辛いお正月だった。お餅も煮物も食べなかった。
何もかも終わってしまえばいいと世界を呪い、自分の命が終わってしまえばいいと自分を呪い、時には空元気で私を笑わせようとする夫すらも呪った。ただただ苦しいだけの一年だった。朝露にキラキラ反射する紫陽花を美しいと思うことも、夏の終わりの鈴虫の声が心地よいと思うこともなく、心を削りながらどうにか生き長らえていた。
夫も酷く塞ぎ込んでいたが、仕事もあるので私の前では気丈に振る舞っていた。けれど時々、寝言で「サナ……」と呟いていた。赤い目をして起きてくるときとあった。
まだ半分以上残っている粉ミルクも、新品同様のベビー服も、捨てられなかった。捨てようと両手に抱きしめては、涙が止まらなくなった。サナが産まれてきてくれたとき、今まで生きてきた中で味わった、辛さ悲しさ苦しみは今報われたと思ったんだ。私はこの子のために生きるんだと思った。でも、もうサナはいない。ごめんなさいごめんなさいと声に出していた。
夫はほんの少しずつ、立ち直っていっている様子だった。引きこもりがちになった私を外に出させようと、「近くに美味しいイタリア料理屋、出来たんだって。行かない?」と声をかけてくれたりした。明るい声を無理に出しているって分かったから、「うん。行きたい」と頷き、二人で食べに行った。
でもその時何を食べたのか、どんな味だったのか、夫とどんな話をお店でしていたのか、全く覚えていない。
粉ミルクのパッケージを見つめ、大人が飲むことは出来ないかな……とぼんやり考え、一人で苦笑した。
どこかで、心の整理をしないといけないと分かっていた。サナのものを整理することが、心の整理にも繋がる。分かっているからこそ、娘のものはいつまで経っても捨てられなかった。
年末になり、スーパーにお正月のものが並び始める。私はどれも手に取ることが出来なかった。伊達巻も、かまぼこも、目に入るとすぐに視線を逸らした。
クリスマスが来ても、ケーキが食卓に並ぶことはなかった。本当はケーキが好きだったのに、お正月が近いことを意識してしまうのが嫌で、ケーキのチラシをもらうとすぐにゴミ箱にねじ込んだ。
でも、いつまでこうしてればいいのかという不安はどんどん高まっていった。死ぬまでクリスマスも大晦日もお正月もない家庭なんて、夫は楽しくないだろう。私だって――「あけましておめでとう」って夫と言いたい。二人で手を繋いで初詣に出かけたり、おせち料理をつまみながらお酒を飲んで夫と夜更かしたりしたい。私が変わらないと、私だけでなく、夫も前へ進めないんだ。いつか、変わらないといけない――。心の整理をするタイミングは、あの日しかないと思った。
4
一回忌の大晦日、今日こそサナのものを処分しようと覚悟を決めた。
粉ミルクをゴミ袋に入れ、ベビー服もゴミ袋に畳んで詰め込んで……。
しかし、もうすぐ全てのベビー服をゴミ袋に詰め終わるというところで、心が折れてしまった。
ダイニングに膝をつき、お正月に初めて着させる予定だったベビー服を抱きしめてぼろぼろと泣いた。サナがいたら、今年はこの服を着せて、三人で初詣に行くつもりだった。
でも、サナはもういない。
帰ってくることは、二度とない。
そう考えたら、涙が止まらなくなった。下半身が芯から冷えていくのを感じた。
夫が音もなく、横に座った。肩に手を置き、ポンポンと心地よいテンポで優しく叩く。温かくて大きな手が、悲しいほどに愛おしい。
「明日、何食べたい? どうせだし、お寿司でも買ってこようか」
「お寿司なんていらない。サナに会いたい。もう一度やり直したい。そしたら絶対死なせない。うたた寝なんてしない。何かおかしかったらすぐ気付いて、救急車呼んで……」
抑えきれなかった後悔が、悲しみの洪水となって溢れ出す。
「どうして、何で、サナが死ななきゃいけなかったの。私が母親失格だから? 私のせいだよね? 私さえいなければサナは死ななかったのかな?」
「違う」
夫は、苦しそうに眉根を寄せながら声を絞り出す。私の肩を押さえながら、言葉を紡いだ。
「はるひがいなければ、サナは産まれてこなかった。産まれなかった方がいいとか、そんなことは絶対ないから。サナが産まれてきたとき、はるひ、ありがとうってすごく思った。サナが悪いんじゃないよ。もし死んでしまったことに親の責任があるとしたら、それは俺にだって責任がある。はるひは母親で、俺は父親だから。だから、だからこそ二人で生きていきたいんだよ。二人でサナを思い出しながら、二人で生き続けたい」
重く、静かな声だった。でも夫はすごく苦しそうだった。涙がほとほとと零れてくる。二人で、生きていく。私はどこかで一人な気がしていた。一人で、サナを失った罪と悲しみを背負って生きていかなければいけないと思っていた。
「二人で、生きていけるの?」
私の声は掠れ、震えていた。でも、ちゃんと確認しなければいけないと思った。夫はこんな私と一緒に生きていってくれるのか。夫の顔を覗き込む。夫はまっすぐ私を見て、目を逸らさずに言った。
「俺ははるひを守り続けるって決めて結婚した。……でも、守られていたのは俺の方だったのかもしれないね。サナの世話するの任せてばかりでごめんね。サナを産んでくれてありがとう。サナを守ってくれてありがとう。はるひは俺のこともサナのことも守ってきてくれたよ。だから、これからは俺がはるひを守らせてほしい。全力で支えるから」
夫の目は潤んでいた。私の手を両手で包み、私の顔を覗き込んでくる。
「だから、一緒に生きてください」
濁りのない声で夫が言った。これが私の愛する夫なんだ。強いときも弱いときもある、サナを失ったことを悲しみ、でも弱っている私を守ると言ってくれる、かけがいのない人が私にはいるんだ。
私は、いつまでもここにいてはいけない。一歩だけでも、足を踏み出す勇気を持たなきゃいけない。そうしないと、サナが『泣いたママの顔ばかりで悲しいよ』って心配して生まれ変われないかもしれない。
サナのため、そして、夫のために、私も頑張らなきゃいけないんだ。
「……明日、お刺身だけでも買ってこようかね」
私が呟いた言葉に、夫は一瞬何か考えたような表情になり、やがて綿毛のような優しい笑顔を浮かべた。夫の笑った顔を、私は守っていきたいと思った。それがパパとママを愛してくれたサナのために、唯一出来ることだから――。
私も、少しだけ笑ってみた。胸の奥で凝り固まって、ぐちゃぐちゃに縮こまっていた心が、少しだけ緩んだのを感じた。
初日の出、サナのいるところからも見えるかな――。
両手に抱えた白く、優しく、柔らかなベビー服が、私の手をわずかに温める。
ダイニングの出窓から、空を見る。
深まる夜空に浮かぶ星たちが、サナの瞳に再び映ることがありますように。もし、私たちにまた命が授かったら、サナの魂が、もう一度パパとママを選んでくれますように――。
夜空の中で一番明るい星が、きらりと光った。
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