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なぜ「損した時」だけ怒りが湧くのか? 「得した時」は黙っているのにね


​「1円でも損したくない」あなたの心、疲れていませんか?


​レジの行列が思ったより長く、数分待たされただけで舌打ちしそうになる。


自分が買った直後に、その商品の値段が下がっているのを見て、一日中悔しい気持ちを引きずる。


SNSで他人が楽しそうに旅行している投稿を見て、なぜか自分が「損」をしているような気分になる。


​私たちの日常は、「損」をしたくないという強迫観念にも似た感情で、溢れかえってはいないでしょうか。


そして、その感情が行き過ぎた時、私たちの心は他者への不寛容という刃を剥き出しにします。


​近年、「カスタマーハラスメント(カスハラ)」という言葉をよく耳にします。


支払った対価に対して、少しでも見合わないと感じた「損」を許せず、店員さんに過剰な要求や暴言を浴びせる。


その根底には、「お金を払っているのだから、完璧なサービスを受けて当然だ」「自分は常に正しく、優先されるべき存在だ」という、無意識の傲慢さが隠れているのかもしれません。


​「得」をするのは当たり前で、少しでも「損」をするのは断じて許せない。


この、あまりにもアンバランスな心の天秤が、社会の息苦しさを生み、何より私たち自身の心を、常にイライラと不満で満たし、疲れさせているのではないでしょうか。


​そんな「損得」の呪縛から心を解き放つヒントを、ある晴れた日の午後に出会った、一人の少年とお坊さんの温かい会話から探ってみましょう。




​さとるくんが見つけた「損」と「得」の不思議な関係


​縁側でのんびりとお茶を飲んでいる和尚さんに、小学生のさとるくんが話しかけました。


​「和尚さん、この前ね、お母さんとデパートに行ったんだ。そしたら、お店でめちゃくちゃ怒鳴っているおじさんがいてね。すごく怖かったし、怒られているお店の人も可哀想だったよ」


​「ほう。そうかそうか。大変じゃったのう」


​「うん。お母さんが言うには、お店の人が何かちょっと間違えちゃったみたいなんだけど、おじさんは『時間を損したじゃないか!』って、ものすごく怒ってて…。最近は、そうやってちょっとお金を損したとか、時間を損したとかで、すぐに怒る人が多いんだって」


​和尚さんは、湯呑をゆっくりと置き、さとるくんの目を見て言いました。


「そうなんじゃよ。最近は『カスハラ』と呼ばれておるのう。お客さんだから偉い、お金を払っているから何を言ってもいい、という考えは、寂しいことじゃ。どんな立場になったとしても、自分だけが特別に偉いなんてことは、決してないからのう」


​和尚さんの言葉に、さとるくんは何かを思い出したように、ポンと手を打ちました。


「あ、それって、僕の弟と一緒かもしれない!」

「ほう、弟くんが?」


​「うん。この前、弟がお兄ちゃんと僕とお菓子を分けてたんだけど、自分のお菓子が一つだけ少ないって、ものすごく大きな声で怒ってたんだ。『僕だけ損した!ずるい!』って。でもね…」


​さとるくんは、少し声を潜めて和尚さんに耳打ちします。


「…その前の日に、お母さんからこっそりお菓子をもらって、自分だけ得してた時は、一人で黙ってニコニコしてたんだ。僕はそのことを知ってるんだけどね」


​そう言うと、さとるくんは少し首を傾げて、和尚さんに尋ねました。


「ねえ、和尚さん。僕、思うんだけど、損をすることも、得をすることも、どっちも当たり前に起こることなんじゃないのかな?」


​和尚さんの目が、キラリと輝きました。


​「だってね」と、さとるくんは続けます。「弟みたいに、損をしたら『あり得ない!』ってすごく怒るけど、得をしたときに『こんなに得するなんてあり得ない!』って大騒ぎして、みんなにお菓子を分けてくれる人はいないよね。得する方は、当たり前みたいに黙ってる。それって、なんだか変じゃない?」


​「…さとるくん。それは、ものすごく大事な気づきじゃ」


和尚さんは、さとるくんの頭を優しく撫でました。


​「さとるくんの言う通り、どちらもあり得ることなんじゃ。いや、どちらも『当たり前』ではない、ありがたいご縁なのかもしれんのう。得する方だけを当たり前に受け止めて、損する時だけ『あり得ない』と腹を立てるのは、少し虫のいい話じゃな」


​「うん」


​「物事はな、片方のことだけがずーっと続くことは、あまりないんじゃ。たとえ悲しいことが続いたとしても、きっといつか、同じくらい嬉しいことがやってくる。同じように、得ばかりする者もおらん。必ずどこかで損もするものじゃ。自分だけが特別なんてことは、ないんじゃよ」


​和尚さんは、空を指さして言いました。


「損を避けよう、避けようと生きることは、後で大きな損をまとめて受け取るようなもんじゃ。だからな、さとるくん。たとえ損をしたとしても、『まあ、いいか。そんなこともあるさ』と思える、大きくて、まぁるい心でいることじゃ。それが一番、心が疲れない生き方なんじゃよ」


​さとるくんは、和尚さんの話を聞いて、なんだか心がポカポカと温かくなるのを感じました。




​ブッダが教える、損得のシーソーから降りる方法

さとるくんが気づき、和尚さんが教えてくれた「損も得も、どちらもあり得ること」という考え方は、仏教の智慧の核心に触れるものです。


​仏教では、この世界のすべての物事は常に移り変わっていく「無常(むじょう)」であると説きます。


良い状態(得)も、悪い状態(損)も、決して永続することはありません。まるで波が寄せては返すように、私たちの人生にも「得の波」と「損の波」が、絶えず訪れるのです。この道理を理解すれば、「得」に有頂天になって執着することも、「損」に絶望して怒りに我を忘れることもなくなります。


​この、どちらの極端にも揺さぶられない、穏やかで安定した心のあり方を「中道(ちゅうどう)」と言います。損得という激しいシーソーゲームに一喜一憂するのではなく、そのシーソーから静かに降りて、真ん中から眺めているような心の状態です。


​仏教の経典の一つ『法句経(ダンマパダ)』に、こんな一節があります。


『​勝つ者は怨みを招き、敗れる者は苦しんで臥(ふ)す。勝ち敗けをすてて、心の安らかなる者は、安らかに臥す。』


​「得=勝ち」「損=負け」と置き換えてみてください。損得という勝ち負けの世界にいる限り、私たちは常に怨みや苦しみから逃れられません。


しかし、その土俵そのものから降りてしまえば、心に本当の安らぎが訪れると、ブッダは教えているのです。


​和尚さんの言った「損したとしても別にいいか」という気持ち。


それは、仏教でいうところの、見返りを求めずに与える「布施(ふせ)」の心や、理不尽なことを受け流す「忍辱(にんにく)」の精神に通じる、非常に尊い心の働きです。


​「損をした」と感じた時こそ、私たちの心は試されています。


そこで怒りに身を任せるのか、それとも「まあ、いいか。これも一つの経験だ」と受け流し、自分の心の平穏を守るのか。


真に賢い生き方とは、後者であることは言うまでもないでしょう。





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