なぜ人は音楽で泣くのか——聴こえない身体から見た、声の床
ずっと不思議だったこと
なんで人って、音楽を聞いたときに泣くんだろう。
正直、これはずっと思っていた。
私は歌詞を聴き取れなかった。
テレビのBGMも、場面の感情を案内するものとしては入ってこなかった。
だから、音楽で人が泣くということが、ずっと不思議だった。
悲しい歌詞だから泣く。
思い出の曲だから泣く。
歌がうまいから泣く。
そう説明されれば、頭ではわかる。
でも、私の身体には、その説明がそのまま入ってこなかった。
頭では理解できても、私の身体は、その理由のどこにも着地できなかった。
その場にいるのに、同じ床には立っていない
歌詞が聴き取れない。
BGMが場面の空気を変えていることも、あとから気づく。
みんなが同じタイミングで泣いたり、笑ったり、息を止めたりしているのを見て、自分だけ少し外側にいる感じがあった。
その場にいるのに、同じ床には立っていない。
そんな感覚だった。
音楽が嫌いだったわけではない。
ただ、みんなが自然に乗っているものに、自分の身体は同じようには乗れていなかった。
そのことだけが、ずっと残っていた。
音楽によって開く場所
ある映像を見た。
ホイットニー・ヒューストンの曲を、クリスティーナ・アギレラが歌っていた。
それを見ているテイラー・スウィフトやアリアナ・グランデの反応も映っていた。
その反応を見たとき、何かが違うと思った。
ただ「歌がうまい」と感じているだけではない。
ただ「懐かしい」と思っているだけでもない。
ただ「感動している」という言葉でも足りない。
もちろん、その人たちが実際に何を感じていたのかは、私にはわからない。
人の内面を、映像だけで決めることはできない。
でも、そのとき、自分の中で何かが動いた。
人は、音楽そのものに泣いているのではないのかもしれない。
音楽によって開いた場所に、身体が連れていかれている。
そう見えた。
BGMの外側に立つ
音楽は、意味より先に身体を動かす。
歌詞の意味がわかる前に、声が揺れる。
テンポが変わる。
音が厚くなる。
急に静かになる。
同じ旋律が戻ってくる。
息の残り方が変わる。
その瞬間に、身体の保持が少しほどけることがある。
泣くというのは、悲しいから起きるだけではないのだと思う。
身体が、それ以上こらえなくていいと判断する瞬間がある。
音楽は、感情を説明しているのではない。
感情が出てくる条件を、先に敷いている。
テレビのBGMも、たぶん同じだ。
BGMは、ただ後ろで流れている音ではない。
ここは悲しい場面です。
ここは緊張する場面です。
ここは笑っていい場面です。
ここは安心していい場面です。
ここは泣いていい場面です。
そうやって、視聴者の身体を先に配置している。
映像だけではなく、音によって、感情の立ち位置が決められている。
だから多くの人が、同じタイミングで息を止めたり、笑ったり、泣いたりする。
でも、そのBGMが身体に入ってこないと、別の見え方になる。
映像は見えている。
人の表情も見えている。
場面の展開も理解できる。
それでも、なぜ周囲の人がそのタイミングで同じ感情へ入るのか、わからないことがある。
それは、感情がないからではない。
音による床案内が抜けているからだと思う。
音がなくても伝わった舞台
でも、音がすべてだと言いたいわけではない。
むしろ、音がなくても伝わった記憶がある。
スラバの舞台を見たとき、音が細かく聴き取れなくても、何が起きているのかは身体に届いていた。
言葉で説明されているわけではない。
意味が順番に渡されているわけでもない。
それでも、場が変わったことはわかる。
誰かが立つ。
少し遅れる。
紙が舞う。
沈黙が落ちる。
人が笑う。
また静かになる。
そのひとつひとつが、音の説明より先に、身体へ届いていた。
たぶん、最初に揃うのは耳ではない。
場の温度。
人の距離。
動きの遅れ。
沈黙の長さ。
身体が待たされる時間。
そういうものが先に揃って、あとから音がそこに乗ることがある。
だから私は、音楽やBGMを「聞こえる音」としてだけ見ているわけではない。
音があるときも、音がないときも、身体がどこで同じ場に入るのかを見ていた。
声の記憶と、いま歌っている身体
人が音楽で泣くとき、泣いている対象はひとつではないでしょう。
曲に泣いていることもある。
歌詞に泣いていることもある。
声に泣いていることもある。
思い出に泣いていることもある。
もう戻らない時間に泣いていることもある。
その曲を聞いていた当時の自分に泣いていることもある。
つまり、人は音楽そのものに泣いているというより、音楽が一時的に敷き直した床の上で泣いているのだと思う。
ある曲を聞くと、昔の部屋が戻る。
ある声を聞くと、失った人が戻る。
あるイントロを聞くと、当時の季節が戻る。
あるサビを聞くと、もう戻れない自分の身体が戻る。
正確には、戻るわけではない。
でも、身体が一瞬そこに立ってしまう。
そのとき涙が出る。
ホイットニー・ヒューストンの曲を、別の歌手が歌う。
そこには、ただのカバーとは違うものがある。
原曲の声の記憶がある。
その曲を知っている人たちの期待がある。
もう本人はそこにいないという不在がある。
そして、いま歌っている身体がある。
その場では、昔の声と、いま目の前にある声が重なる。
同じではない。
でも、まったく別でもない。
歌う側の身体にも、重さがかかる。
ただ上手く歌えばいいわけではない。
原曲に寄せすぎても崩れる。
自分のものにしすぎても崩れる。
その曲に残っている声と、いま歌っている身体のあいだに、ずれが生まれる。
歌う身体は、そのずれの上に立っている。
そこに、人は反応しているのかもしれない。
私は音楽がわからなかったのではない
私は、音楽の床に自然には乗れなかった。
歌詞は聴き取れない。
BGMによる場面の感情誘導も、周囲と同じようには入ってこない。
私は、音がまったくない場所にいるわけではない。
両耳感音性聴覚障がい、等級でいえば6級という名前はついている。
けれど、ここで書きたいのは等級の説明ではない。
歌詞やBGMが、周囲と同じ速度、同じ粒度では身体に入ってこない。
そのずれの中で、私は音楽そのものよりも、音楽によって人の身体がどこへ運ばれているのかを見ていた。
だから、音楽が人に何をしているのかが、ずっとわからなかった。
でも、それは音楽の欠落ではなく、外側から見る場所でもあったのだと思う。
これは、聴こえなかった自分があとから音楽を「分かるようになった」という話ではない。
どの位置から場全体を見ていたのか、という話である。
音楽の床に乗っている人は、床があることに気づきにくい。
自然に泣く。
自然に盛り上がる。
自然に息を止める。
自然に拍手する。
でも、そこから一歩外にいる身体には、別のものが見える。
なぜ、みんな同じタイミングで反応するのか。
なぜ、この場面で泣くのか。
なぜ、この声で空気が変わるのか。
なぜ、この曲が始まっただけで身体が動くのか。
私は音楽がわからなかったのではない。
音楽によって、周囲の身体がどこへ運ばれているのかを、外側から見ていた。
同じ床に乗れないことは、感情がないことではない
同じタイミングで泣けないことがある。
同じタイミングで笑えないことがある。
同じ空気に、すぐには入れないことがある。
それは、その人に感情がないということではない。
ただ、同じ床に身体が乗っていないだけかもしれない。
音楽で泣ける人は、自分が何に動かされたのかを、あとから少しだけ見ることができる。
音楽で泣けない人は、自分が動かされなかった理由を、感情の不足だけにしなくていい。
泣くことも、泣けないことも、どちらも身体の反応である。
大事なのは、どちらが正しいかではない。
その人の身体が、どこに立っていたのかを見ることだと思う。
涙は、床に身体が乗ってしまった痕跡である
だからこれは、音楽だけの話ではない。
人の身体は、いつも同じ場所に立っているわけではない。
ある音で、過去に戻る。
ある声で、誰かを思い出す。
ある沈黙で、急に身体が固まる。
ある拍手で、もう一度その場に戻ってくる。
音楽は、その移動を見えるようにする。
私はたぶん、音楽そのものよりも、その移動を見ていた。
音楽は、聴くためだけにあるのではない。
音楽は、人の身体がどこで震え、どこでほどけ、どこで同じ場に戻るかを決める床でもある。
人は音楽に泣いているのではない。
音楽が一時的に敷き直した床の上で、もう戻らない声や時間に触れてしまう。
そのとき、身体の保持がほどける。
涙は、その床に身体が乗ってしまった痕跡なのだと思う。
音は、耳だけに届くものではない。
音が遠い身体にも、振動として届くものがある。
床が震える。
空気が揺れる。
胸に低音が残る。
客席の拍手が、音ではなく動きとして広がる。
音がない世界でも、舞台が身体に届くことはある。
次は、その床について考えたい。
