「自分が、自分ではなくなってしまう怖さ」を目の当たりにして思うこと。
いつも華やかなリップを塗っていたのに、その口元から、色が消えていた。
きれいに整えられていた髪は乱れ、目つきも、声色も、少しずつ変わっていた。
その姿を見たとき、「家でくらすこと」が、いつも正解とは限らないのかもしれない、と思ってしまった
「自分が自分でいられる」というのは、一体どういうことなのだろうか。そんなことを考えるきっかけがあった。
介護現場で働いていた時のこと。ひときわ仲良くしてくれていた、ケアマネさんがいた。(Aさんとしよう)。
Aさんはとにかく熱い。利用者さんのためならなんだってするようなタイプだ。
そんなAさんとの仕事が、私はすきだった。
なんというか「自分はだれかのために頑張れているな」とまっすぐに思えるのだ。
MBAを学んでいる今でこそ、経営的な視点で言えば非効率で、組織的には眉をひそめてしまうのだろうが。
現場にいた目線にもどると、結局のところ、こういう人がいないと、救えない場面ばかりなのも事実である。
そんなAさんと、とある女性の利用者さん宅で会議をした帰り道。
その女性は80代で一人暮らし。つい最近、愛妻家のご主人を突然亡くし、気持ちが沈み込み、生活の様子も変わっていた。
おしどり夫婦で有名だった二人は、どこにいくにも手をつないでいた。デイケアに来ても、常に同じテーブルで過ごす。そんな二人をみるのが、私もAさんも、ほっこりしててすきだった。
それが、突然の別れを境に、奥さんの様子が日々どんどん変わってしまっていたのだ。
そんな様子だから、すこし介護サービスを整えよう、というわけだ。
理学療法士のわたしと、ケアマネのAさん。
お互いの専門性を出し合って終えた会議では、ひとまず通所日を増やしお風呂はそこで、宅食サービスを入れデイサービスがない日でも、一食くらいはちゃんとしたものが食べられるように、と整えた。その帰り道。
「認知症の方が、一人でくらせるのって、一体いつまでなんでしょうね」
という話になった。
Aさんは、もう何人も認知症の方を担当している。一人暮らしの高齢者が増え続ける昨今。
そんな中でも「何かあったら相談して」と伝え続けた結果、今では「旅行にも行けない」と話すほど、鳴り止まないスマホを抱えている。
認知症の方からの連絡はとくに、「なにかあったら」ではなくても、バンバンくる。それにも対応するのが、Aさんなのだ。
もちろん、業務時間外なので、そこまでする必要はそもそもない。職場環境的にどうなのだろうとか、Aさんのことを考えると心配のあまり色々思うこともある。
しかし、そんなことを考える以上に、一人一人と向き合いたくて仕事をしているAさん。なんだかすごい。私にはできない「なにか」がきっと彼女を奮い立たせているのだな、と思っていた。
そんなAさんでも、「自宅で生きる」ことから「施設に入ることを考えようか」と利用者に打ち明ける一つの基準があるという。
それが、冒頭の「自分が自分でいられるかどうか」なのだという。
認知症が進むと、いつもの自分を構成していたものが、少しずつ崩れてしまうことがある。その場面に何度も寄り添ってみると気づく。
本人も「自分」を見失ってしまうことがある。
生活の主体が歪み、家にいることの意味が少しずつ薄れてしまう感覚を受ける。
安心で落ち着ける我が家が、混乱と不安で埋め尽くされていくことがあるのだ。
そういう姿を見ると、やっぱり「誰かがそばにいてあげたほうがいい」と思う気持ちが強くなる。
住み慣れた、家族との思い出がある、自由な自宅で暮らす、というのが成り立たなくなったとき
住み慣れた、家族との思い出、自由、が全てひっくり返ってしまったとき
もう自宅で暮らし続けることを、無条件に「よいこと」とできないのかもしれないな、と思うのだという。
リハビリの目線だと、どうしても「自宅でがんばってほしい」と思ってしまう自分が、どこかにいる。
それは自分の祖母を見ていて、祖母なりのルーティンで暮らす姿が1番祖母らしいなと思うからだ。
「施設」での勤務経験から、「自宅」の選択肢を無くしてほしくないということもある。
住み慣れた家が、その人をその人らしくしてくれる場所であるうちは、できるだけ守りたい。
けれど、その家が不安や混乱を深める場所になってしまったとき、「家にいること」ではなく、「その人が自分でいられること」を守る選択を考えなければならないのかもしれない。
「自分が自分でいられる」ってたしかに、なにより大事なのかなと思ったのだ。
では、今の自分が「自分でいられる」時間とは一体どんな時間なのだろうか。そんな考えに行きつく。
わたしの場合、思いを言葉にしている時間が、いちばん自分でいられる気がする。
誰かの前では理学療法士で、誰かの前では妻で、誰かの前では友人で、誰かの前では「ちゃんとしている人」でいようとする
それぞれ嘘ではないし、どれも自分ではある。
けれど、気づくと、どこにも本体がいないような感覚になることがある。
だから、どんなに疲れていても、noteで自分の言葉を書きたくなるのかもしれない。
書いているうちに、ばらばらに動いていた自分が、すこしだけつながるような感覚があるのだ。
Aさんとの帰り道の言葉を、書かずにいられなかった理由も、たぶんそういうことだ。
「自分が自分でいられる時間」とはそういうものなのかもしれないし、もっと他にあるのかもしれない。
もうそうなると、簡単に結論なんて出ないのだが。
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