石破茂と小泉進次郎の「武士的キリスト教」 その密かなつながり
「熊本バンド」と「横浜バンド」
昨日の続きで、河上徹太郎の内村鑑三論の「武士的基督教」が出てくるところを、改めて引用しておきたい。
この話、面白いことに、石破茂と小泉進次郎につながるからです。
学者肌の石破氏を、鉄火肌の家系の小泉氏が継承する、と言っているのは、一見違和感ありますが、祖先をたどれば、ある根拠があります。
以下、河上徹太郎「内村鑑三」の該当部分。文中「彼」とは内村鑑三です。
海老名弾正の思い出を読むと、それも大正十五年になってからのことだが、
「海老名君、君と俺が死んでしまったら武士的基督教は無くなるよ。」
と彼がいったと書いているが、晩年までこの自覚を持ち続けたことは、彼の信仰の特異性よりはその強さを証するものと私には思えるのである。
だから或る時内村が海老名にこういったという。
「お前ら(熊本の連中を意味する)の基督教はナショナリズムだ、植村(正久、横浜の連中をいう)のはエクレシアニスチズム(教会主義)だ、俺(札幌を意味する)などはスピリチュアリズム(精神主義若しくは信仰主義)だ。」
(河上徹太郎「内村鑑三」『わが象徴派的人生』文藝春秋、1972、p198 丸ガッコ内も河上)

まあ、内村鑑三も海老名弾正も知らんがな、という人が大半だと思うので、いきなりこんな話をしても、伝わらないとは思うけど。
上の引用で、内村鑑三が言ったという、
「お前ら(熊本の連中を意味する)の基督教はナショナリズムだ」
という、その「熊本の連中」が、石破茂の先祖なわけ。
そして、
「植村(正久、横浜の連中をいう)のはエクレシアニスチズム(教会主義)だ」
という、その「横浜の連中」と、小泉進次郎の先祖はかかわりがあるんです。
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明治初期、日本でのキリスト教(プロテスタント)普及の震源地になったのは、札幌、横浜、熊本でした。それぞれ、札幌バンド、横浜バンド、熊本バンドと言います。このあたりは、私も学校で教わった気がする。
バンドは英語(band)で、ここでは「同志」という意味です。
それぞれの特質を、上の引用に続けて、河上徹太郎はこう書いています。
(この)三つのバンドが明治初年のキリスト教の三大地盤であったのだが、この(内村の)言葉はそれなりにその中での三派の気風を表している。熊本は土地柄から国粋的だが、やがて京都の新島襄の同志社へ流れ込んだ。横浜は早くから外人の手で教会が組織されていたが、植村は三人のうち最も武士的力行の徒である。そして内村は開拓地的ピューリタンだ。
(河上徹太郎 同上)
それぞれ、幕末・明治初期に日本に来たアメリカ人教師から、キリスト教の(文字どおり)洗礼を受けたのでした。
以下が、それぞれのバンド出身の代表的人物です。
札幌バンド(ウィリアム・クラーク指導)
内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾
横浜バンド(ジェームズ・ハミルトン・バラら指導)
植村正久、島田三郎、押川方義、井深梶之助、本多庸一、熊野雄七、山本秀煌、奥野昌綱、矢野元隆
熊本バンド(L・L・ジェーンズ指導)
宮川経輝、金森通倫、横井時雄、海老名弾正、徳富蘇峰、小崎弘道、吉田作弥
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石破茂は、この熊本バンドの金森通倫の子孫(ひ孫)です。
それについては、以前書いたことがあります。
石破さんがクリスチャンなのは有名ですが、彼の曽祖父は金森通倫といって、新島襄の仲間だった明治期の有名なクリスチャンで、かつ金森は熊本の人で、維新後に熊本に来た南北戦争の元北軍将校ジェーンズの影響で改宗した、熊本バンドの構成員でした。つまり、石破茂さんは南北戦争関連人物。
石破さんがクリスチャンなのは有名ですが、彼の曽祖父は金森通倫といって、新島襄の仲間だった明治期の有名なクリスチャンで、かつ金森は熊本の人で、維新後に熊本に来た南北戦争の元北軍将校ジェーンズの影響で改宗した、熊本バンドの構成員でした。つまり、石破茂さんは南北戦争関連人物。
— OGAWA Kandai (@grossherzigkeit) September 27, 2024
また、石破茂は、金森通倫を通じて、徳富蘇峰(&弟の徳富蘆花)の遠い親戚であり、同時に横井小楠(儒学者)、佐々木信綱(国学者、歌人)の親戚でもあります。

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小泉進次郎の祖先は、横浜バンドとかかわりがありますが、血縁ではありません。
小泉進次郎の曽祖父、つまり小泉純一郎の祖父、「いれずみ大臣」と呼ばれた小泉又次郎は、横浜バンドの代表者、島田三郎に師事しています。
wiki「小泉又次郎」で、以下のとおり触れられています。
(小泉又次郎は)壮士の群に入りピストルを懐にしては暴れ回り、三浦政界を馳駆する。
1887年(明治20年)、立憲改進党に入党する。当時、神奈川県内では自由党に比べて改進党の党員は少なかった。又次郎はここで島田三郎と出会い、その影響を受け師事していった。
この「島田三郎」という人は、政治史的にも、思想史的にも重要人物で、調べ物をしているとよく出てきます。
日本の初期キリスト教徒であるとともに、労働運動の思想が入ってきた後は、日本の労働組合の初期の活動家でもありました。だから、日本の初期キリスト教的社会主義的政治家の一人。
ジャーナリストでもあり、早稲田大学創設にかかわった人でもある。早稲田の「反官学」で、「マスコミに強い」校風を作った人とも言われます。
その島田三郎の影響を、小泉又次郎がどのように、どの程度受けたのか、いまの私には知識不足でよくわかりません。今後の宿題ですね。
ただ、島田三郎は、非常に平等主義というか、平民主義的であったこと。
そして、島田三郎が師事した植村正久は、河上徹太郎がいうように「最も武士的力行の徒」であったらしいこと。(徳富蘇峰も植村を「福沢諭吉に匹敵する人物なのに性格が激しすぎる」と評した)
このあたりのイメージが、平民出身であり、「学問もした事がなく、柔道撃剣の心得また覚束ないが、どう云うものか喧嘩が早くて腕ッ節が強い」(wiki)と評された小泉又次郎と重なります。
もっとも、又次郎なり、小泉家が、キリスト教徒になった形跡はありません。

ちなみに、小泉進次郎の祖父、つまり小泉純一郎の父の小泉純也は、この又次郎の女婿として小泉家に入るわけですが(旧姓は鮫島)、純也も鹿児島・加世田の貧しい漁師の生まれで、家柄はありません。又次郎の娘とできちゃったから又次郎の後継になったわけで。
純也が又次郎の娘とできちゃったのも、純也がハンサムで、又次郎の娘・芳江が面食いだったからです。
又次郎の養女だった近藤壽子は「本当に大変だったんです。なにしろ駆け落ち同然の結婚でしたからね。芳江さんはハンサム好みで、ハンサムな男性を見るとイチコロなんです。又次郎さんはもっと立派なところから婿を欲しいと思っていたんでしょう、すごく反対して怒ってました。」と述べている。
(wiki「小泉純也」)

まあねえ、だから小泉家は、もともと家柄や学歴(頭のよさ)が売り物ではない。
「ハンサム」と、あとは勢いで勝負、の家系なんだなあ。
「保守」の源流としてのキリスト教ナショナリズム
話がそれましたが、こういう風に、石破茂と小泉進次郎が、ともに3代前に、日本の初期キリスト教徒たちと接点があることが、私には面白い。
その接点ができた頃、明治20年より前は、まだ日本に社会主義が入ってきていません。
社会主義という思想を日本に最初に広めたのは、上記の熊本バンド出身、徳富蘇峰が発行していた雑誌「国民之友」で、明治20年のことと言われます。
しかし、アナーキズムやマルクス主義含めた左翼思想が活発化したのは、日露戦争あたりからで、明治30年代後半です。
明治20年ごろは、自由民権運動とともに、キリスト教が、のちの社会主義のような、体制への抵抗の思想でもありました。
河上徹太郎は、内村鑑三にとって、外国勢力は聖書における「エジプト」であり、日本は聖書における「イスラエル」だった、と書いています。(同上p198)
とくに日露戦争時、外国勢力として内村鑑三の念頭にあったのは、戦争の影の主役たるアメリカです。アメリカは、ロシアを抑えるため、日本に戦争をけしかけましたが、終戦後はポーツマス条約で日本を縛りました。
つまり内村は、旧約聖書でモーゼが古代エジプトの圧政からユダヤ人を解放に導いたように、日本民族をアメリカのような外国勢力から解放しなければならない、という志を秘めていたんですね。(その後に、神人一体の究極の救いが来る)
内村鑑三は、それ以前、明治19年(1886年)にアメリカに留学している時から、日本はアメリカに負けない「神の国」であると考えていたことは、日記にも残っています。
神は二十世紀間鍛錬によりて得られたる我が国民性が米欧思想によりて置き換えらるることを欲し給わざるなり。基督教の美点は神が各国民に与え給いしすべての特性を聖(きよ)め得るにあり。福(さいわい)なる、奨励的なる思想なる哉、日本国もまた神の国なりとは。
(大意:神が2000年間、日本を米欧のようにしなかったのは、神の意思であり、キリスト教的に日本も神の国だ)
(同p187)
こうした内村の思想からも、このころのキリスト教徒の一部が、ナショナリズムに向かったのはよくわかる。
そして、ここに、今につながる日本の保守思想の隠れた基盤の一つがあると思います。
*
しかし、その後、社会主義思想が日本に入ってきて、「解放」の意味が変わってきます。
とくに、外国勢力からの解放より、支配階級からの解放が必要だ、という、マルクス主義という思想が入ってきたのが大きい。
それによって、日本の「抵抗の思想」が変化します。
社会主義が入ってきた当初は、上記の島田三郎や、同じく早稲田にかかわりある同志社出身の安部磯雄のようなキリスト教徒が、労働運動や社会主義運動を主導していました。
1901年(明治34年)、日本最初の社会主義政党、社会民主党が結成されますが、その創立者、片山潜、安部磯雄、木下尚江、幸徳秋水、河上清、西川光二郎の6名のうち、幸徳を除く5名はキリスト教徒でした。
内村鑑三も、幸徳秋水に接近して、日露戦争の時はともに非戦論を唱えました。
ちなみに、島田三郎も、安部磯雄も、右翼に襲われて危うく殺されそうになっています(島田襲撃事件1920年、安部襲撃事件1938年)。幸徳秋水は、ご存じのとおり大逆事件で絞首刑となりました(1911年)。
しかし、1924年(大正13年)の第一次日本フェビアン協会解散あたりを画期として、キリスト教的社会主義と、無神論的社会主義は、決定的に分離します。
最初に引用した内村鑑三の発言、「このままでは武士的基督教が滅びる」というのが、この分裂の直後(大正15年)だったことが、意味深なんです。
ここで、体制を攻める側であったキリスト教的ナショナリズム、内村のいう「武士的キリスト教」が、体制を守る側(保守)に回ってしまう。
そして、攻める側は、アナーキズムやマルクス主義のような過激な思想に交代する。
堺利彦らに流れる、この無神論的社会主義(マルクス・エンゲルス的に言えば「科学的社会主義」)が、今の日本の左翼やリベラルの源流となります。
今も、日本の左右の対立、保守とリベラルの対立の根本は、
「外国勢力からの日本の独立を優先するか、支配階級からの非支配階級の解放を優先するか」
に帰着するわけで、その対立は、上記の明治から大正までの歴史に根ざしてるんじゃないかなー、というのが、いま私が思いついた近代日本思想史です。
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今の自民党が「保守」かどうかわからなくなっているのは、上記の対立軸を、自民党員自身が意識しなくなった、自覚しなくなったからではないでしょうか。
「外国勢力からの日本の独立」が、日本の「保守」の優先課題であり、悲願のはずなのに、それを忘れている。
それは、自民党以外のアメリカべったりの保守政党も同じですが・・。
その悲願は、決して戦後に始まったわけではなく、明治から始まっていることを、内村鑑三の逸話は思い出させてくれます。
それなのに、内村らの初期キリスト教徒と先祖で接点をもつ石破氏や小泉氏まで、それを忘れているのは、けしからんのであります。
(「武士的キリスト教」の掘り下げはまたいずれ・・)
(ヘッダー画像は「女性自身」より)
<参考>
