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「婚姻廃止論者」の挫折 北海道大准教授がやむなく「改姓」した事情

法哲学者、松村(森)悠一郎(北海道大学准教授)が有斐閣の「書斎の窓」に書いた文章が、静かな話題を呼んでいる。


松村(森)悠一郎「男性法学者、姓を変えてみる」書斎の窓698号(2025年3月号)、おもしろい。「リベラル」な男性法哲学者が結婚に際して姓を変えた(だけの)体験談かと誤解して、読むのを後回しにしていたが、良い意味で予想を裏切ってくれた。
(興津 征雄 2025/4/15 22:37)


森悠一郎氏は、東大法学部の井上達夫門下だ。

私は、井上門下の人たちのリストを作ったことがあったから、名前は知っていた。

松村(森)悠一郎氏 稲森財団HPより
https://www.inamori-f.or.jp/recipient/mori-yuichiro/


でも、彼が最近「松村」に姓を変えたことは知らなかった。「書斎の窓」の文章は、その改姓の事情を語ったものだ。


それは、普通の結婚や養子縁組などによるものではない。

彼はすでに結婚しているが、「婚姻廃止論者」であるため、そもそも婚姻届を出していない。だから、事実婚で、夫婦別姓である。


同棲を始めたのは八年前、披露宴を挙げたのは七年前であるが、婚姻届は出さず、いわゆる内縁ないし事実婚の関係であった。法律婚をしなかったのは主として私自身の哲学的立場によるものである(中略)私は筋金入りの婚姻廃止論者である。異性婚であれ、同性婚であれ、複婚であれ、何らかの親密関係に公的承認を与えることは独身者への不正な差別に当たると考えるからである。

(有斐閣「書斎の窓」2025.3 p45)


まず、ここにグッと来た。

自分の哲学的信念と実人生を一致させている。言行一致、知行合一。偉いではないか。


私がこれにグッと来るのは、個人的経験もある。これは、前に書いたことがあるかもしれない。


私は以前、「事実婚」の法的保護を訴える民法(家族法)学者に取材したことがある。

その学者は、事実婚と法律婚で差別が生じるのは、本質的に不当だと力説していた。

しかし、この学者は結婚しており、法律婚だった。

そこで私は尋ねた。

「先生がそういう主張であるなら、なぜ法律婚を選んだのですか?」

するとその学者は、一瞬絶句した後、こう答えたのである。

「自分が事実婚を選択しようなんて、考えたこともない」


考えた末に、やはり法律婚を選んだ、というならいい。

でも、「考えたこともない」というのは、おかしいのではないか、と思ったのだ。


この学者先生は、いい人だったが、政治的には左派だった。

これは、左翼にありがちな態度だと思った。

人には「差別はいけない」と説教するが、自分も差別しているかもしれない、とは思い至らない。

普通は、自分の罪深さを自覚して、人に説教しないものである。

自分は例外的な善人で、あくまで「上から指導する立場」であり、自分の人生は論評対象外だと思っている。


そういうところが、現代の学者が尊敬されない理由だ、ということも、前に書いたことがある(「「善の研究」を読もう(3)」)。

昔の、たとえば儒者なんかは、自分の教えているとおりの生き方をして見せるまでが仕事だった。だから尊敬された。


その点で、この松村(森)悠一郎氏は偉いではないか、と感心した。

もっとも、これを一般人が真似するのは、愚かだと思う。(松村氏も、他人にそうすべきとは言っていない)

学者や教授は、自分の学問が嘘でないことを証明するためにそれくらい徹底すべきだが、われわれのような普通人は、理屈や理論にとらわれずに自然に生きるのが正しい。

(ちなみに、私自身は、女に相手にされなかったので、結婚そのものに悩まずに済んだ)


この松村(森)悠一郎氏は、井上達夫門下らしいとも感じた。

あのグループは、日本でいちばん、理屈っぽい人たち、理屈にこだわる人たち、理屈モンスターたちだ。

松村(森)氏の「知行合一」も、その学統から来ているのかもしれない。



松村(森)氏の改姓事情に話を戻そう。

彼も妻も法律婚否定論者だから、いずれも改姓の機会はないはずだった。

だが、サバティカルでハーバード大学で在外研究するため、奨学金を取る必要があった。円安で、いまアメリカは物価が高いからね。

しかし、妻をともなって在外研究する場合は、法律婚をしていることが、奨学金を得る条件になっていた。


そこで、仕方なく、在外研究の期間中だけ「法律婚」をして、帰国後に「協議離婚」することを妻と決めた。

でも日本では、ご承知のとおり、民法750条により、法律婚の場合は夫婦の一方が姓を変えなければならない。

彼らは「公正」のため、コイントスによって、どちらの姓に変えるかを決めることにした。


我々夫婦は三回勝負ーー一〇〇円玉を投げて表面(桜花)が多く出たら妻の姓(松村)、裏面(一〇〇)が多く出たら私の姓(森)に統一するーーで決着をつけることにした。(中略)三回目は息子が投げた。一〇〇円硬貨が宙を舞った。(中略)運命の女神が自らに試練を課したことをすぐに悟ったーー硬貨は桜花を上にしてそこに横たわっていたのである。
(同上、p46)


この文章がちょっと面白いのは、一時的な改姓に同意し、自分が改姓する可能性に納得していたにもかかわらず、現実にそうなると、打撃を受けた、という部分だ。


役所の戸籍課窓口に着いたとき、率直に言って私は意気消沈していた。公平なコイントスの結果なのだから、それに従うのは当然であるーー頭ではそう納得していたものの、いざ自分がその立場に置かれてみると、これからの自分はどうなってしまうのであろうと不安な気持ちでいっぱいであった。

夫婦同氏制を違憲と主張する憲法上の根拠は複数存在し得るが(中略)私自身の経験に即して言えば、それを「アイデンティティの喪失」と表現するかは別として、少なくとも自分がそれまで大切にしてきたものを踏みにじられるような、忸怩たる思いを抱いたのは事実である(中略)そこには確かにこれまでの慣れ親しんできた自らの姓を、わが国の不条理な婚姻法ゆえに変えることを余儀なくされることへのやるせなさがあった。(中略)


まあ、このあたり、現下の「選択的夫婦別姓」論議で、推進派に媚びている感じで、あんまよくない。

もしかして、この若い学者は、リベラル界隈でチヤホヤされたい、とか思っているのかもしれない。

偉いと思ったが、偉くないかもしれない。


私は「選択的夫婦別姓」問題は、どうでもいい。

そんなのどうでもいいから、とっとと片付けて憲法改正しろと思ってます。


でも、野党と自民党リベラル派が推す「選択的夫婦別姓」がとおってしまうと、辻元清美が喜ぶ。

私は、辻元清美のニマニマ笑う顔を見たくない。

あいつは安倍晋三を「殺した」一派だと思っている。安倍の国葬にも反対していた。

辻元が推しているから、という立派な理由で、私は「選択的夫婦別姓」に反対だ。


まあ、それはともかく、松村(森)氏は、最後にこう述べている。



しかし、それ以上に私にとって「アイデンティティ」の葛藤をもたらしたのは、法律婚という選択それ自体であった。(中略)私は婚姻廃止論者としての自身の法哲学を、自らの実践において妥協させたのである。
(p47)


というわけで、今は一時的妥協により松村悠一郎だが、いずれ森悠一郎に戻るだろう。



<参考>


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