本という「たわごと」
昨日から今朝にかけて、週刊文春の「寄付のお願い」がX(ツイッター)の話題になっていた。
正直めちゃくちゃ驚いた。 週刊文春電子版、寄付のお願い。 電子版と紙は別ってわけじゃないだろうし兵隊に払う金もないほど困ってるようには見えない。と思って販売部数の出てるおそーす探したんですが、2022年1-6月 22万8939部/10年前2012年の50.9%減という……(Mako Nakamura)
正直めちゃくちゃ驚いた。
— 𝙈𝙖𝙠𝙤 𝙉𝙖𝙠𝙖𝙢𝙪𝙧𝙖 (@Mak0Nakamura) September 23, 2023
週刊文春電子版、寄付のお願い。
電子版と紙は別ってわけじゃないだろうし兵隊に払う金もないほど困ってるようには見えない。と思って販売部数の出てるおそーす探したんですが、2022年1-6月 22万8939部/10年前2012年の50.9%減という…… pic.twitter.com/sN8VUaUzvt
ひとり勝ちだと思っていた文春ですら財政難(本田和正)
ひとり勝ちだと思っていた文春ですら財政難
— 本田□和正 (@hondakazumasa) September 23, 2023
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寄付なんかしたらもっと私達の生活を脅かしてくるやん。廃刊。廃刊。(ルビー)
寄付なんかしたらもっと私達の生活を脅かしてくるやん。廃刊。廃刊。
— ルビー (@mymytune1805) September 23, 2023
しかし『週刊文春』が寄付をねだらざるをえなくなっているとなると、10年後には紙の雑誌なんて全滅しかねんな。週刊誌は主要読者層が生物学的にほぼ死ぬし。(栗原裕一郎)
しかし『週刊文春』が寄付をねだらざるをえなくなっているとなると、10年後には紙の雑誌なんて全滅しかねんな。週刊誌は主要読者層が生物学的にほぼ死ぬし。
— 栗原裕一郎 (@y_kurihara) September 23, 2023
文春の「寄付のお願い」そのものは6月だし、いまさらの話ではあるが、改めてABC部数を見ていると、栗原がいう「10年後」はもっと早く来るだろうと感じる。
週刊文春の部数は現在約20万部。それは、私の現役時代では、だいたい週刊朝日の部数だった。週刊朝日は最終的に5万部を割り込み、休刊している。
つねに週刊朝日の半分の部数だったサンデー毎日は、数字があまりにみじめだからだろう、ABCから離脱して部数を公表しなくなった。毎日新聞が値上げするとき、新聞を購読するとサンデーのデジタル版が見られる、という新聞の付録(というか、かつての日曜版)のような存在にしたらしい。休刊して、「毎日は落ち目」という印象をこれ以上世間に与えたくないのだろうが、利益を生み出していない、実質的な休刊状態だろう。
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以上、雑誌の話でした。
きょう私がしたかったのは、本(書籍)の話。
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誰が言ったか忘れたが、
「SNSのせいで、素人のたわごとが、立派な言説のように流通するようになった」
みたいなことを言う人がいた。
それに反論しておきたかったのである。
それを言うなら、
「本のせいで、ありとあらゆるたわごとが立派な言説のように流通している」
というのが先にあると思うのである。
私は出版の仕事をやったからよーく知っている。
どんなたわごとでも、本に書いてあると、信じる人がいる。
本という形になっているだけで、ありがたがる人がいる。
編集とは、たわごとを立派に見せる仕事だということもできる。
なんなら、あなたのたわごともを、私が本にすれば「立派な言説」になる。
(その作業に、最低100万円はいただく。私はその道のプロだから。)
ただし、あなたの「立派な言説」は、市場では売れず、喜寿の祝いか、あなたの葬式のときの引き出物として配るしかない。ほとんどは読まれずに捨てられる。
本や雑誌は売れなくなっているが、前に書いたように、漫画だけは売れている。
デジタルの漫画が伸びている。紙の漫画もまだ売れている。
漫画は、本にして「立派に見せる」必要がないコンテンツだから、デジタルにもなるし、アニメにもなる。
「本」ではなく、コンテンツとして生き残るものだけが生き残る、ということだ。
魔法が解けて・・
従来、出版業というのは、たわごとを立派な言説に見せる「本」という装置で成り立っていた。
そのイリュージョン、その魔法の仕掛けは、実はせこいものなのだが、目くらましは社会が勝手にやってくれた。
それどころか、このせこい「手品」を盛り上げてくれた。
本を読みなさい。本はためになる。読書は立派な行為だ。読書で頭がよくなる。読書で偉くなる。
そう義務教育で叩き込んでくれたのだ。われわれの業界から見れば、タダで(実際にはみんなの税金で)出版業の宣伝をしてくれていた。いまでもしてくれている。
でも、本を読まなくても立派な人は立派だし、本を読まないから偉くなる人だっている。
本を一切読まなくても、よい人生を送ることができる。立派な、信頼される人にもなれる。
私は、本を読んでいるからいい人とは思わないし、友人にしたいとも思わない。あなたはどうだろう。
読書は重要ではないし、害悪も大きい。
本を読むと思想が偏向する。左翼になる。右翼になる。なまいきになる。変な宗教にはまる。家出をしたり親不孝になったりする。自分の頭で考えなくなる。時間が無駄になる。目が悪くなる。読んだあと部屋で邪魔になる。読書が習慣になると、確実にカネを失う。
コスパの悪さ
当たり前だが、本が立派なわけではない。立派な思想がたまたま本に表されると、それが立派な本になるだけだ。
中身と器が取り違えられ、器が信仰されるフェティシズムが生まれる。それが、本という幻想を生み出している倒錯だ。
こいうことは、昔からよく言われてきた。
ショーペンハウアーの「読書論」にもあったはずだ。新刊に名著なし、と。立派な思想がそうそう生まれるわけはなく、読むに値する古典は少数だ。そこらへんの本はほとんど無価値である、と。
そこらへんの本に、仮にそこそこの価値があるとしても、現代では、同じものがたぶんネットでタダで手に入る。カネを払う必要はない。
そこらへんの本にカネを払う人は、たいがい少しボラれている。
この機会に言えば、本の「コスパ」があまり話題にならないのはおかしい。
メディアで書評をする人は、本をたいがいタダで手に入れている。だからコスト感覚がなく、あたかもプライスレスの「文化財」のように論評する。でも、それは商品であり、本はとくに、新刊は値引き販売されない特殊な商品だ。「定価」にたいしてどれほどの中身があるか、評価してくれないと困る。
本はすでにコスパが悪い商品である。私が学生のころは、1食抜けば文庫が1冊買える感覚だった。いまは文庫でも1日絶食しないと買えない。新刊単行本だと数日絶食しないと買えない。それだけの価値があるのか。そういう基準で書評を書いてもらわないと困る。
私も引退したし、出版業界はもう滅びていい。
古巣から石を投げられようと、どうせもうすぐ死ぬからいいもん。
その私でも、思想や知識の流通のため、本に代わる新しいメディアがあったほうがいいと思う。
そこで、「読書の秋」にぶつけて、本の次のメディアについて考えていきたい。
(つづく)
<つづき>
