本に必要な長さ ~本という「たわごと」2
X(ツイッター)などで、
「こんど新刊が出るので読んでください」
と言う人がいると(東浩紀が最近そんなことを言っていた)、
「いや、言いたいことがあるなら、いまXで書いてくれ」
と言いたくなる。
140字で書いてくれ、と。
もっと長けりゃ、2000字まで書ける有料アカウントで書くか、連投してくれ、と。
SNSでは書けないことが、本なら書けるというのだろうか。
どういうこと?と思う。
課金が問題なら、noteなどで有料販売すればいい。
なぜ、わざわざ「本」にするのだろうか。
ここにも、本という幻想への依存が見える。
ここでは、とくに本に必要な「長さ」について考えたい。
現役時代、ずーっと疑問に思ってきたことだ。なぜ本にはこの「長さ」が必要なのだろうか、と。
SNSではダメだ、「本」でなくては、という考えがある。
そこにも、言いたいことを言うためには、本の長さが必要だ、という思い込みがある。
でも、それは本当だろうか。
無理に本にする
現役時代はぶっちゃけ、この中身なら、60ページでいいな、というのを、200ページ以上にしたことは、よくあった。
そのくらいの長さがないと「本」にならないからだ。
本の紙は、大きな紙から32ページ単位で切り取っていくので、224ページが1つの基準だった。紙の無駄が出ないから合理的なのだ。
200ページ以下の本も多いが、100ページ以下となると、パンフレットのようになり、書物の堅牢性もなくなり、今日商品として流通しにくいだろう。
しかし、そんな物理的な理由で、なぜページ数が決められなければならないのか。
本の原価でいちばん大きなウエイトを占めるのが紙代だ。だから、ページ数が結局、価格を決める(あとは、発行部数で決まる)。
本に、中身以上の価格がついていると私が思うのは、ムダなページが多すぎるからである。
ほとんどが「上げ底」品
ある1つの思想を表現するのに、本来どのくらいのページが必要なのか。そして、どのくらいのページがあれば十分なのか。
それに関して、いつも私が参照すべきだと思うのは、「老子」だ。
思想家の老子は、本来、本を書かなかった。
老子が引っ越しで街を出るとき、関所の役人に、「あなたの考えを書き残してほしい」と言われ、その場でさらさらと書いた。それが「老子」という書物だ。
と言われているが、もちそんそんな伝説をそのまま信じている人は現在いないだろう。
たぶん、これは「老子」の短さの言い訳として作られた話だ。
老子は、原典は約5000字で、邦訳でもたぶん50ページに満たない。
だが、ある思想家の主著として、それで必要十分なのである。(老子は実在せず、ある「教団」の考えだという言われているが、そんなの関係ねえ)
「本」というのは、本来そういうでき方でいいのではないか、と思う。
哲学者や思想家を名乗る人物が、空港の入管で、
「あなたが思想家であることをこの場で証明してほしい」
と言われ、その場でさらさらと書くーーそれを出版すればいいと思うのである。
それ以上の長さが必要だというなら、時間があり余っている研究者用に、別に出せばよい。おれは読まんがね。
「老子」の長さを、本のフォーマットの基本とすべし、というのが、私の長年の持論だ。
64ページでいい。それなら、紙が高騰しているいまでも、500円で出せるはずだ。
しかし、ほとんどの本は、コンビニの「ステルス値上げ品」さながらに、水増し、上げ底されている。
(つづく)
<参考>
