情報生活デザイン #10: もしSNSが「わたし」の幸せを優先してくれたら? その2
今日は、ちょっと勇気を出して、ぶっ飛んだことを言います。
もし、本当に本当に SNS が「わたし」の幸せを優先してくれたら、
世界平和だって実現できるんじゃないか、と。
あ、逃げる前にちょっとだけ待って!
騙されたと思って、読んでください!
なるべく手短にご説明しますので!
(1) 冷戦終結、EU、OSS、Wikipedia
私が子どもだったころ。
もちろん、ロッキード事件とか、世界の飢餓とか、ネガティブなニュースもありました。
それでも、全体としては「人類は過去から学び、賢くなっていくんだ」
という素朴な期待感があったように思います。
日本経済も成長していたからですかね?
ガンダムとか、ウォークマンとか、バンドとか、お笑いとか、
個人の楽しみも無限に広がっていくように感じてました。
そのあと、
ベルリンの壁の崩壊と冷戦の終結、
そしてEUの設立を目の当たりにしたときは、
ジョン・レノンの『イマジン』のように、
いつか国境さえもなくなるんじゃないかと、
わりと本気で想像していました。
人類は学び、世界はより良くなっていく。
社会人になり、
OSS (オープンソース) や Wikipedia が成功していくのを見たのも、
私にとっては「大きな事件」でした。
会社のような指示系統もなく、金銭的動機もない所で、
互いに顔も知らない人々が協力して、
世界中の人が使うプロダクト品質のモノを作れるなんて!
人間は、金のためだけに働いているわけではないんだな、
人間には、世界をより良くすることに貢献したい気持ちがあるんだな、と。
そういう「人間の根源的な欲求」に直感的に気づいた人々が、
実際に自ら動いてやって見せたわけです。
人類は学び、世界はより良くなっていく。
(2) SNS
そして SNS が登場しました。
SNSがもたらした恩恵は計り知れません。
誰もが簡単に
人とつながれる。
誰もが簡単に
自分の作品を創って
世界に届けることもできる。
あまりにも当たり前になってしまい、
SNSが無かった世界を思い出すのも難しいぐらいです。
ただ、「人類は学び、世界はより良くなっていく」という感覚は
失われているように感じます。
当初は、オープンソースやWikipediaが示したように、
SNSには、世界中の人々が知恵を出し合い、協調するための新しい場になるという期待がありました。
しかし、いつからか、その場の空気は大きく変わってしまいました。
理由は3つあると思います。
一つは、建設的な対話の消失です。
異なる意見は議論のきっかけになるのではなく、しばしば感情的な罵り合いや攻撃の対象になります。
かつてであればコミュニティの中で「恥」とされたはずの「野次馬根性」が、ここでは当たり前の光景になっています。
二つ目は、自分と似た意見ばかりが目に入る「エコーチェンバー」の深化です。
多様な考えに触れる機会は失われ、まるで自分の考えが世界の総意であるかのような錯覚に陥りやすくなっています。
そして三つ目は、その結果として「穏当で良心的な人々」が沈黙してしまうことです。
過激な声ばかりが響く広場では、多くの人が発言をためらい、社会の大多数を占めるはずの穏健な意見は可視化されません。
こうして、私たちは「つながっているはずなのに、分断されている」という、奇妙な現実に直面しています。
(3) 分断を乗り越えるヒント
考えてみれば、
世界中の人々が自由につながることができるのは、
人類にとって初めての経験です。
そんな環境において、顔も知らないし、背景も価値観も異なる不特定多数の人同士が、有意義なコンセンサス (共通理解・合意) にいたるのが困難なのは、むしろ当たり前です。
少なくとも、人類に備わった本能だけで上手く扱えるものではなく、何らかの新しい仕組みが必要なのだと思います。
では、どういう仕組みが必要なのか?
そのためのヒントは、私たちがすでに持っている「科学」「OSS」「Wikipedia」という成功事例の中にあると考えています。
◆ 科学、OSS、Wikipedia の仕組み
これら3つの成功事例に共通しているのは、参加者の善意だけに頼るのではなく、建設的なアウトプットを保証するためのガバナンス (統制) の仕組みが組み込まれている点です。
科学の世界では、「査読」という仕組みがあります。
新しい論文は、その分野の専門家たちによって、多くの場合、著者名を伏せた状態 (ダブルブラインド査読) か、査読者名を伏せた状態 (シングルブラインド査読) で厳しく吟味されます。
これは、著者の権威や個人的な関係性といったバイアスを排し、内容の客観性と信頼性を担保するための仕組みです。OSSの開発では、誰でも改善案を出すことはできますが、それを採用するかどうかは、長年の貢献によってコミュニティから信頼された「メンテナー」が判断します。
これは実力主義 (メリットクラシー) に基づく階層構造であり、誰でも参加できるオープンさを保ちつつ、プロジェクトの品質と方向性を維持するための仕組みと言えます。Wikipediaでは、「中立的な観点」と「出典の明記」が絶対的なルールであり、全ての編集履歴はIPアドレスかアカウント名に紐づけて記録されます。
また、コミュニティから信頼を得て選出された「管理者」が、荒らし行為のブロックなどを行い、場の秩序を保ちます。
一見、誰もが匿名で参加できるように見えますが、全ての貢献は追跡可能であり、仮名の下で時間をかけて信頼が築かれていく仕組みになっています。
しかし、なぜ人々は、これほど手間のかかるルールに従うのでしょうか?
◆ 科学、OSS、Wikipedia の仕組みはなぜ機能するか?
科学者も、OSSの開発者も、Wikipediaの編集者も、その多くは直接的な金銭のために活動しているわけではありません。
彼らがそれぞれのコミュニティにおける共通の目的を共有しているのです。
科学のコミュニティの目的は、「世界の真理を探究すること」
OSSのコミュニティの目的は、「より役に立つソフトウェアを作ること」
Wikipediaのコミュニティの目的は、「中立的で信頼できる百科事典を作ること」
この「より良い成果を生み出す」という目的を共有できているからこそ、個人の意見や感情の対立は、目的達成のための「乗り越えるべき課題」となり、建設的な議論へと昇華されるのです。
(4) 理想のSNSのイメージ
世界の分断問題を解決するには、『目的を共有するコミュニティ』と『建設的な議論が促進される仕組み』が必要です。
具体的には、どうするのか?
以下は私のイメージです。
[a] 目的を共有するコミュニティ
まず、より多くの人が共有できる「目的」を掲げるところから、
真剣に取り組む必要があるのだと思っています。
「世界平和」ではダメな人もいるかもしれません。
例えば、自然科学における「世界の真理の追求」が、共有しやすい目的であったことを考えると、
「世界平和」より、「人間の真理の追究」の方が良いかもしれません。
いい名前が思いつきませんが、仮に「人間学」としましょう。
「人間学」コミュニティを「自然科学」コミュニティに匹敵するぐらい、
大きなコミュニティに育てる。
喧嘩や紛争において、どっちが悪いかを議論するのではなく、
それぞれの当事者がどのような状況で、どのように考え、どういう行動を起こしたのかを理解する。
ジャッジするのではなく、とにかく理解する。
ジャッジすると意見が分かれてしまいますが、
理解が目的であれば、建設的な議論ができる。
[b] 建設的な議論が促進される仕組み
そして、その目的を支えるための仕組みが必要です。
一つは、事実と、それぞれの「物語」を共有する仕組みです。
客観的なデータや出来事 (事実) と、当事者がそれをどう体験し、どう感じたか (物語) の両方にアクセスできるようにすることで、多角的で深い理解を可能にします。
二つ目は、「静かな多数派」の声を可視化する仕組みです。
扇情的な意見や断定的な物言いが注目を集めるのではなく、思慮深い分析や、異なる物語への共感を示した意見が、きちんと評価され、人々の目に触れるように設計します。
(5) 実現に向けて
荒唐無稽な夢物語に聞こえるかもしれません。
ただ、これまで「人類は学び、世界はより良くなっていく」という瞬間を何度も目の当たりにしてきた私にとっては、
今回の挑戦も、それほどあり得ないことには思えないのです。
OSS や Wikipedia の方がよっぽどビジネス的に無理だと思ってました (笑)。
もちろん、放っておいても、理想の世界はやってこない。
それはよーくわかりました。
広告経済は強力です。
みんなアテンションが欲しくて欲しくてたまらない (笑)。
でも、それじゃマズイって、みんな気づいたわけです。
そして、我々は過去から学ぶことができる!
ですよね?
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