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「自分」の人生の「重要人物」って誰?②

前回①を読んでもらった方がいいんだけども。

一言で内容を振り返ると、「ここにきて、急な価値観の変化、現る」って感じだ。

▼前回①はこちら

――なんだけど……少し時間を置いて、もっかい考えてみた。

でも、やっぱ「これが「私」の人生でのベストではないかもしれない。けど、今の「私」にとってはベターだ」っていうのが、正解みたい。

少なくとも、「今」の私にとっては。

▼「私」について

――なので。

「マジ過大評価乙なwwww」って感じで、書いてる今現在も恥ずかしくてたまらないし。

「なんて、なんて……お前は、愚かな、人間なんだ!」って、もう一人の「私」の独り言が胸に突き刺さる。

でもまぁ、しょうがないわな。
これが「私」なんだよ。

でも、それを盾に「だからしょうがないじゃん!」って開き直ることはできないんだな、これが。

「くだらんプライド捨てれてないんだろ?」って気が、そりゃあ自分でもしてはいるけど。

だけど、「自分」が主役の人生で、主役を張るためには。

「開き直る」ってのは、違うよなって思うのよね。

なんだろ、「そういうわけだから。あなたはちゃんと、許してよね」っていう圧のように感じるっていうか。

逆に「私」の方も、他人から「うん、いいよ」って許可をもらわないといけない……ような気もしてくるし。

――というわけで今回は。

・前回の続き
・また新たに考えたこと
・(ついでに)まさかの気づき

などを、ここに書き残す。

――もうちょっとだけ……この愚かなニンゲンの懺悔に、どうかお付き合いください……。(全世界に向けて……)


そもそもの話、「余計なお世話」

前回①でも告白したように、「私」ってやつは「根っからの善人」――では、まっったくない。

というか、性悪なのだ。

そもそも「人間」て生き物についてはさ。
「私」がここへ行き着く遥か昔から、性善説と性悪説とがあったわけじゃん。

性善説(せいぜんせつ)と性悪説(せいあくせつ)は、「人はみな生まれつき善の性質をもつ」とする説と「悪の性質をもつ」とする説。

Wikipediaより引用

「私」はどっちだと思う?って聞かれたら、「性悪説」と答えてきた。

そんで「私」自身、今こうして恥を忍んで告白していることからも分かるように……少なくとも「私」は、性悪説で説明ついちゃう種類の人間である。

でもね、ほんと思ってたの。

「本性を見極める方法っていうのも昔からあるように、気が抜けた時、もしくは肝心な時に出るのが性」

「そして、人間は言い訳が得意なもの。だけど、それを指摘されたら、それっぽい感じにした理由として他人に言う。忙しさとか立場とか」

「でも、場面によって変わるようなら、それはもう性じゃないでしょ」

……。


いや誰が言うてんねんて話〜〜ッ!

でもね、この考えは変わってないんだよ、マジな話。

つまり、「私」ってロクデナシなんですわ……という、みっともない告白をしている。

全世界に向けて。今まさに。

「その人」の本性を見極めるには?

・酒を飲ませて酔った時を見ろ
・その人の友達を見ろ
・親への態度を見ろ
・車の運転を見ろ

何かしらで過去に仕入れた情報たち


などなど、私が聞いたことあるってやつを並べただけでも、これだけある。

――で、どれも本当だと思う。

ただ、「人間」て生き物、ほんとに複雑にできてるじゃん。

だから、同じ種類の生き物同士のはずなのに、よ?

(動物にも言えることだろうけどさ)

「これが人間……ってヤツですわ」って言い切れるようなものって、ぶっちゃけなくない?

それぞれ性格も違うし、家庭環境も違う。
価値観も違うし、感じ方や捉え方も違う。

……「人間」てなんだよ????(?)

でも、本性を見極める方法と呼ばれるもので見える部分は、やっぱりその人の「本当」だと思う。

――というか、その「一部」だよねって。

だって、みーーーーんな持ってる「常識」とか「普通」ってさ、ホンッットに「共通認識」か?……って思わないです??

「なんなのコイツ、話通じない……」
「この人、なんでこんなことすんの?」
「そんなの常識的におかしい!」

そういうふうに感じた、思った人に出会ったこと、一回くらいはないです?(ない?)

でもさ、「自分」にとっては「話通じないしワケ分からんことする上に常識的におかしい」と思う人間であっても……良いところあったりもするじゃん。

もし「自分」がそうは思えなくとも、「自分」以外の誰かにとっての「その人」は、「親友」だったり「パートナー」だったり、「尊敬する人」だったりするかもじゃん。

それは「自分」には知りえないところで、かもしれないけどさ。

でも多分、じゃあその「知りえないところ」に連れてかれたとして、よ。

それでも、心の底から「そっか、この人っていい人なんだな!」とはならない……と、思うんだよ。

いや、その場面、その時その瞬間には、そう思うかもしれないんだけど。

でも、後でまたちょっと「モヤ……」とか「イラッ!」とか「その人」にしたらさ。

「ていうか前からそうだよね〜」とか、訳知り顔で愚痴りたくなっちゃうと思うのよ。(ならない?)

だって、それがもう「過ぎたこと」であったとしても。

その時(過去に)「自分」が感じた嫌な気持ちそのものは、別に「なかったこと」にはならなくない?

――だからさ、「余計なお世話」を焼かなきゃええのよな、と思って。

この「余計なお世話」ってのはさ、「頼まれてもいないことを、自ら進んでやる」ってことなんだけどさ。

これをやって、相手にイライラしたり。
「やってあげたのに……」って思ったり。

「自分だって苦しいのよ〜!」とか思うなら、初めっからやらなくていいんだよ。

……どうなるかは知らんけど。(!?)

「私」自身、ここ数日間でやっと「これがベターかもしれない」って気づいたわけだから。

そういう生き方をしてみた時。
「実際どうなるんだ?」ってのは分かんない。
今はまだね。

だから、「人生まるごとで考えたらベストではないかも」って、言ったの。

でも、「今の」私にとっては、そういう方向にシフトした方が、「自分」のドラマの主役張れそうな気がするなってだけで。

――要するに。

頼まれてもないこと自分で勝手に引き受けといて、後になって「苦しい〜ッ!」とかなるなら、それは「自分」がすることじゃなかったわけでさ。

その役割を、心からの善意でやれる人がやる方が、「自分」にとっても、「誰か」にとっても幸せじゃない?って。

もちろん、「自分が好きでやってるから、別に相手がどういう反応してきても気にならない。まして、相手に腹立ったりなんかしないよ!」という人もいると思う。

もうね、それはある種の「才能」だと思う。
「根っからの善人」なんだよ。

本当に、心から尊敬する。

(この辺は前回①でめちゃくちゃ話したと思うから、ここでさらに書くことはしないけど)

でもさ、「私」がそれやろうとしたら、マジで死んじゃうと思うのよ。向いてなさすぎる。元より、「根っからの善人」じゃないから。

でも、「そうなりたいな〜」なんて憧れだけは、一丁前に持っていた。なんなら、今も残ってはいると思う。

でもさ。そのせいで、まっさらな「善意」の気持ちを持ってできもしないことを、無理くりに引き受けてたわけなんだよ。

……や、「引き受けてた」わけでもない。

勝手に。頼まれてもないのに。
「余計なお世話」を焼いてたに過ぎないわけである。

そんで、勝手に!

「苦しい〜ッ!」とか言ってたわけである。
頼まれてもないことを、勝手に!自分から!やっといて。

……え、マジで改めて「書く」と、え、恥ずかしすぎる……。

頼んでもないのに勝手にやり始めといて、「相手」にイライラしたり、勝手に失望したり。

その「相手」からしたら「余計なお世話」以外のなんだってのよ!って話よね……。

ほんでさ、「自分」にとっても「余計なこと」なんだよ、それは。

(少なくとも「私」の場合、って話ではあるけど)

だって「自分」から進んで、勝手に「余計なこと」し始めたばっかりに!

「誰か」に対してマイナス感情持ったりするのって、もったいないじゃん。

自分が余計なことさえしなけりゃ、「苦しい〜ッ!」なんて思わずに済んだろうし。

相手に対して「モヤ……」とか「イラッ」なんて気持ち、抱かずに済んだんじゃないの?って思ったらさ。

……うーん……「もったいない」って気が、するよね。

もちろん、「根っからの善人」もいるんだと思う。私のママがそうだったように。

(いや分からんけども実際のとこは)

でも、それで思い詰めちゃって、しかも「誰かに相談することさえできない!」みたいなことにまでなっちゃったらさ。

多分、それはものすごいつらいし、悲しいし、さみしい。ほんで、苦しいことだと思う。

――だけど、何度も聞かされてうんざりかもしれないが、「私」は「根っからの善人」じゃない。

だからこその憧れもあるんだけど、だからって、向いてないのに無理くりに「なろう!」って頑張っても、不幸になるだけなんじゃないかと思う。

それは「自分」もだけど、結果的に「誰か」もそうしてしまうんじゃないかなって。

「私」は恵まれたことに、相談できる人もいるし、支えてくれる人も甘えさせてくれる人もいる。

だから、なんか、「それっぽいこと」ができてただけなのだ。

でも、じゃあ「己の内にすべてを秘めて、人に尽くせるんか?」って考えてみる。

……やっぱどう考えてもできない。

ムカつくもんはムカつく。
嫌いなもんは嫌い。

だから、「そういうものは全部、どこにも出さない!」なんてことを頑張ってしまったら、「私」は死んでしまう。

だから、そもそも「自分」含め、「誰か」にとっても結果的に「余計なお世話」になるようなこと――つまり、「頼まれてもないのに勝手に自分でなんかやる」なんてこと。

少なくとも「私」は、やっちゃいけないのだ。

だから、「自分」の人生の「重要人物」は誰か?――って考えると同時に、「誰か」にとっての「私」も、どういう役割の「登場人物」なのか?

これを、真面目に考え直さなければならない。

「私」は客Aではないが、「重要人物」でもない

人間、30年くらい生きていれば。

それこそ「フルネームは忘れたな、そういや……」という人も現れるくらいには、たくさんの出会い――と、別れも経験してきているはずだ。

「私」は、これまでの人生の中で関わってきた人たち、全員の名前は、もう思い出せない。

懐かしく、恋しいとすら思う「思い出」は、たくさんある。その中には、「これにはとびっきりの思い入れがある!」と思うものだってある。

でも、その思い入れがある記憶の中の「登場人物」でさえ、フルネームで覚えているのは、ほんの数人だ。

当時呼んでたあだ名だったり、名前は思い出せる。なのに「名字は?」って聞かれると、思い出せないのだ。

ほんで前回、「自分」の人生をドラマとした時、そのドラマにはたくさんの「登場人物」たちがいる。

――という話をしたけども。

客Aとか、通行人Bとかはともかく。

名前が付いた「登場人物」だってもちろんいるが、物語を動かしたり、重要な鍵となる「重要人物」となると……多分、片手で足りちゃうんだろう、と思ったのだ。

たとえばさ。

もちろん、主役は「自分」でしょ?
だから、最も重要な登場人物も、やっぱり「自分」なんだよ。

「私」の場合だったら、確実な「重要人物」と言うと、「自分のパパ」と(もうこの世の人ではないけど)「ママ」でしょ?

そんで、夫・「のりんこくん」。

あと、ヘルニアがどういうものかまで理解してなくとも、「ママ、痛いの痛いの、とんでけー!……病院行く?」とか優しい言葉をかけてくれる――のに!

「ったく、話の通じないママだな!」と自分が(多分)思えば、容赦なく腰を重点的に攻撃してくる、「うちのお嬢さん」。

……ここまでで、もうすでに4人。
主役である「私」を含めたら、もう片手が埋まる。

――まぁ、言うて「ママ」はもういないので。

実際に今後も(しばらくは、でも確実に)登場するであろうキャストの中で、「重要」と言えるほどに関わりを持つ人物は……それでも、あとたったの一人で、片手が埋まっちゃうわけである。

そういうふうに考えたらさ。

「私」って「誰か」の人生において、「重要人物」の枠に入ってんのかな?って思う。

ちなみに、これは卑屈な気持ちから出た疑問ではない。

「自分」自身の過去、そして「今」を振り返りつつ考えてみたら、なんか、腑に落ちたんだよね。

初めは「なんとなく」で口に出したことだったけど、ちゃんと、真面目に考えてみたらさ。

「誰か」にとっては、「私」は「客A」だし、「通行人B」だ。でも、他の「誰か」にとっては、名前の付いた登場人物でもある。

たださ。

限られた枠数(キャパはそれぞれだろうけど、仮に「主役」を除いて4枠として)に対して、「自分」が物語を動かしたり、鍵を握ってるような重要人物か?って考えたらさ。

関わりのある(あった)全員のその枠に、「私、入ってるわね!」とは思えないんだよね。

いやだってさ、5枠しかないとしたらよ?

親とか、きょうだいなりパートナーなり子どもなりペットなり推しなりを加えたら、もう残りは1,2枠しかないと思うのよ。

……埋めてますか「私」?って思うじゃん。
それはさすがに。

それに、今「私」自身に変化が現れたように、ある日「何か」が変わるって、誰にでもあるじゃない?

そしたら、今まで「重要人物」だった人がそうじゃなくなったり。

逆に「名前は付いてたけど……」っていう、しかも今までの「自分」からしたら超!意外な人物が、「重要人物」になったりする。

こういうの、十分にありえることだよねって。

ほんでさ、「私」が主役の人生なんだよ、これは。

そう思ったら、変化が起きている「今」だからこそ、色んなものを一度整理しないといけないなって。

――だから、こういうマガジンも始めたんですけど。

(突然の宣伝。でも興味があったら、ぜひ開いてみてね!)

▼「双極性障害でもできる!自己実現」


「自分」のドラマの「重要人物」は誰?

昨今、「多様性」とか「自己肯定感」とか「自分軸」とか。まぁなんか、色んな価値観に触れることが多いけども。

今生きてるこの人生は、「自分」が主役のドラマだから。「私」の人生も、もちろん「あなた」の人生も。

「何」が、主役の「自分」にとって大切か。
「何」が、「大切と思ってたけど、実はそうじゃないかも」とか。

答えは人間の数だけ存在するはずだ。
そんで、それは「それぞれ」で違う。

みんな違う「個性」を持った、「個」人だって考え方そのものは、まったく変わってないので。

だから、別に「これが正解」って共通認識はないと思う――というか、なくていいのよ。

ほんで、気にしなくてもいい。
もう「俺のこの人生で証明するぜ」でいいのよ。

ZEEBRAさんの『Street Dreams』を!
皆さん、ぜひともお聴きなってください。

▼『Street Dreams』について熱く語ったやつ

だから、もし今これを読んでる「あなた」が、現状に満足できてなかったり、なんかモヤモヤしてるのであれば。

ちょっと、「自分」のこれまでの「ドラマ」を振り返って、「主役」である「自分」の心の声を、よーく聞いてみてほしい。

できたら、「次回予告がどんなドラマだったら、自分は楽しめるかな」って考えられたら。

もしかしたら、ワクワクできるかもしれないから。


▼「私」ってこんな人

多分、中学生くらいだったと思うけど。

⇒【余談】「人は考える葦である」

この言葉に出会った。

何で読んだか?聞いたか?
それはもう覚えてもいないんだけど。

知ってる人は知ってるだろうし、知らない人は知らないかもしれない。(それはそう)

ブレーズ・パスカル(哲学者)の『パンセ』にあるフレーズだ。

私ほんと、もう「衝撃!」って言葉そのもの!ってほどの衝撃を受けて。

それからずっと、「人は考える葦である」を元にした価値観で生きてきた。

――これについては、多分だけど、今後も変わらないと思う。

だから「私」ってニンゲンは、考えることで自分の首を絞めまくってる自覚はあるんだけど、考えることをやめることができない。

というか、したくないからしない、のだ。

――なんて言ってるけど、一昨日までこの言葉がパスカルのだってこと、忘れてた。

(しかも、調べよう!とかも特にしてなかった)

まじウケる(笑)

(ウケてはないけど、マジに笑いはしてしまった。これが私の座右の銘です!みたいな感じに生きてきたのに、誰の言葉か覚えてなかったんかい!)

ちなみにだけど、「私」ね……『PSYCHO-PASS』は槙島聖護推しです!!!!

『PSYCHO-PASS』観たことある人だったら、「うわめっちゃ分かる〜!それっぽい!」ってなりそう。

ほんでさ、「私」シビュラシステム導入されたら、秒で……潜在犯、なのでは……?と不安にも思ってる。

そういう内容を書こうとした形跡がnoteの下書きにあって、その作成日が「2020/01/02」でビックリした。

何にビックリしたって、もう「現実化しそう」とかじゃなく、「現実化する」日がすぐそこまできてそうなことだ。(というか、もうなってる?)

今のAI技術の進歩、「すごい!」とか超えて「怖い」とすら感じてる。

「人間」としてこの世に身を置かせていただいている以上、やっぱり自分の頭で考えることが大切だ、と思うから。

気づいたら、しょっちゅう「自己責任」という言葉を見かけるようになった。

「圧が強い言葉だよな」「これ、不安に思う人おらんのかな」とは思うものの、まぁ究極は「せやな……」と感じるところもある。

だからこそ、考えるのをやめられないのだ。

でもさ〜!「ものを考えるから人間なんだ」って思うけど、ニンゲンだから「めんどっち〜なぁ〜!」ってなったりもするのよね。

そういうことの繰り返し、その積み重ねが「人生」なんだろうけど。

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世の「普通」に抗う表現者>松本ゴッホちゃん(3歳) 私という「個」を応援してくださると嬉しいです。このnoteで行っていきたいあなたの「進化」のお手伝いにて、恩返しできればと思います。