誰かのカメラにおさまること
街中で、棒を持ってカメラを構えてしゃべっている人を見ると、なんとなく嫌な感じになって避けてしまう。
建物や風景に混ざる人、街ですれ違う知らない人々。
偶然誰かに会うことはあるかもしれないけれど、すれ違うひとは全て関係の無い他人だ。
他人に気を遣われないが、他人を気遣わない。
都会の街角にはそうした匿名性がある。
そうした匿名性を一瞬で打ち破ってしまうのが、カメラだ。
例えば、横断歩道の反対から、フルサイズのカメラで写真を撮る。
撮った写真をパソコンに取り込んでひたすら拡大していけば、顔や表情まで詳しくわかる。
何時何分何秒、その交差点にいた証だ。
その瞬間だけしか存在しない、すれ違うだけの人々が、具体性を持ってそこに存在してしまう。
ただの通行人として誰かのアルバムに収まるだけ。
昔の写真が持っていた匿名性ももはやそこにはない。
他人の動画や写真に写り込むことの意味が、昔とは変わってしまった。
写真はSNSに直ちに投稿されるし、リアルタイムで配信される動画の隅に映り込んでしまえば、自分は今ここにいる、と宣伝するようなものだ。
自意識過剰だろうか?
でも、いまここにいることを広く知らしめたい人がいるように、いまここにいる事を知らせない自由を欲している人もいる。そもそも、それを得る自由が欲しくて、都会の街を歩くのではなかろうか。
だから、知らない人がカメラを構えているところに出くわすと、ちょっと身構えてしまうのだ。
とはいえ自分も写真を撮る身としては、誰も通らなくなるまでカメラを構えて待ち受けるわけにもいかない。
せめて顔や表情がわかるような写真は避けて、街の風景として成立するような写真を撮るしかない。
街中で、シャッターを切る。
露骨にならないように。
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