葦原の黄昏、天津の暁 16
第十五章:幽世の誓約(大国主命)
嵐は、去った。
夜が明け、東の空が、まるで何もかもを洗い流すかのように、白んでいく。大国主は、夜通し、王宮の最も高い物見台に、ただ一人、立ち尽くしていた。
眼下に広がるのは、彼が、生涯をかけて築き上げてきた、美しき出雲の国…の、無残な骸であった。
義父である大神スサノオの、荒ぶる神威をその身に降ろし、解き放った、狂乱の嵐。その爪痕は、ヤマトの軍勢だけでなく、この国の田畑を、森を、そして、民の家々をも、等しく、無慈悲に引き裂いていた。風は、今も、どこからか、人の、嘆き悲しむ声を運んでくる。
あれは、我が民の声だ。
私が、守るべきはずの。
大国主は、遥か、戦場の中心を見つめた。
そこに、三つの、小さな骸が、夜露に濡れて、静かに横たわっている。
我が子、ヤツカ。
森の娘、ささや姫。
そして、ミナカタの息子、建彦。
若く、輝かしい、三つの命。その全てが、昨日、この大地から、永遠に失われた。
何のために。
この国を守るため。
その国を、今、この私が、この手で、破壊している。
なんと、愚かなことか。
タケミナカタの道は、誇り高き、滅びの道であった。
コトシロヌシの道は、魂を殺し、ただ生き永らえる、屈辱の道であった。
そして、我が道は。愛する者を失った悲しみに狂い、敵も味方もなく、ただ破壊を撒き散らす、獣の道であった。
息子よ。ヤツカ。お前が、その命を賭して、示そうとした道は、この、いずれでもなかったはずだ。
大国主の、血の涙で腫れ上がった瞳から、ふ、と、力が抜けた。
怒りも、悲しみも、憎しみも、全てが、燃え尽きた。
後に残されたのは、ただ、どこまでも続く、広大で、そして、どうしようもなく空虚な、静寂だけであった。
彼は、物見台を下りると、傍らに控えていた、生き残りの老臣に、ただ、静かに命じた。
「…ヤマトの、生き残った将を、ここへ。…話が、ある」
やがて、大殿堂に、三人のヤマトの将が、通された。
その外で待つのは、穏健派のタケハヅチ。そして、その左右に、深手を負い、もはや神威の光も失せたタケミカヅチと、その身にまとう影さえも、嵐によって引き裂かれたかのように、薄くなったフツヌシが、緊張した面持ちで控えている。
彼らは、大国主が、最後の力を振り絞り、刺し違えようとしているのだと、警戒しているのだろう。
だが、玉座に現れた大国主の姿を見て、三人は、息を呑んだ。
そこにいたのは、荒ぶる神の器ではない。
ただ、全てのものを失い、そして、全てのものから解き放たれた、一人の、静かな、父親の姿であった。
「…座られよ」
大国主の声は、凪いだ海のように、穏やかであった。
「まず、詫びねばなるまい。我が狂気が、貴殿らの、多くの兵の命を奪った。…すまぬ」
その、あまりにも、意外な言葉に、三人は、ただ、戸惑うばかりであった。
大国主は、静かに、続けた。
「この戦、我らの負けだ。貴殿らの鉄と、その秩序は、我らの剣と、その誇りを、完全に打ち砕いた」
彼は、そこで一度、言葉を切り、そして、告げた。
この物語の、本当の、終わりを。
「国を、譲ろう」
「…なんと」
タケハヅチが、声を漏らす。
「貴殿らに、この国の全てを、譲る。この目に見え、手で触れることのできる世界、『現世(うつしよ)』の、全てを。田畑も、港も、鉄も、そして、この国の民も。貴殿らの法で、好きに治めるがよい」
タケミカヅチが、信じられぬというように、目を見開く。
「…正気か。我らを、謀っておるのでは…」
「もはや、私には、興味がないのだ」
大国主の瞳は、目の前の将たちではなく、その向こうにある、遥か、遠い世界を見つめていた。
「この、現世という場所は、あまりにも、悲しみに満ちておる。国を争い、人を殺め、そして、我が子さえも、守れぬ世界。すなわち、『顕露(あらわにごと)』の全て。そのような世界に、もはや、何の未練もない」
彼は、ゆっくりと、立ち上がった。
「だが、国には、もう一つの世界がある。目には見えず、手で触れることもできぬ、神々の住まう世界、祖霊の眠る世界、『幽世(かくりよ)』。…我が子が、今、向かった、その世界だ」
大国主の声に、初めて、強い、意志の光が宿った。
「その、幽世のまつりごと、すなわち、『幽事(かみごと)』。それだけは、この私が、引き受ける。私は、現世の王の名を捨て、幽世の主となろう。この戦で死んだ、全ての者たちの魂を鎮め、そして、二度と、このような悲劇が、この国に生まれぬよう、常世(とこよ)の闇から、見守り続ける」
彼は、ヤマトの将たちに、最後の、そして、唯一の、要求を告げた。
「その代わり、この地に、社を一つ、建ててほしい。それは、我が隠居のための宮殿ではない。この戦で死んだ、ヤマトも、出雲も、全ての者たちの魂を祀り、そして、幽世の主である私が、現世と交わる、唯一の、証の社だ。その社を、天に届くほどに、壮麗に造営し、未来永劫、ヤマトの力で、これを守護すると、天の神々に、誓ってほしい」
その言葉は、もはや、交渉ではなかった。
戦の勝敗も、国の支配も、全てを超越した、一人の父親の、魂の、最後の願いであった。
タケミカヅチも、フツヌシも、そして、タケハヅチも。
目の前の、偉大なる王が、その身に宿した、神の狂気と、そして、その狂気をさえも超える、父の、あまりにも深く、昏い、悲しみを見て、もはや、誰一人として、反論の言葉を、口にすることはできなかった。
やがて、タケハヅチが、ゆっくりと、その場に膝をつき、深々と、頭を垂れた。
「…その、あまりにも、気高きご決意。…ヤマトの国、謹んで、その誓約、お受けいたします」
その言葉を、大国主は、ただ、静かに聞いていた。
彼は、ゆっくりと、将たちに背を向けると、一人、大殿堂を、歩み去っていった。
彼が向かう先は、もう、玉座ではない。
ただ、我が子が、その命を散らした、遥か、西の丘だけであった。
彼の、現世における王としての、最後の、一日が、今、静かに、終わろうとしていた。
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