葦原の黄昏、天津の暁 14
第十三章:散華(ヤツカ)
ヤマトの軍勢が、静かに、道を開けた。
それは、まるで、潮が引いていくかのようであった。兵士たちの壁が左右に割れ、その中央から、二つの、人ならざる影が、ゆっくりと、こちらへと歩みを進めてくる。
一人は、その身に、青白い雷光をまとっている。空は晴れているというのに、彼が歩を進めるたびに、バリ、バリ、と、大気が裂ける音がした。
もう一人は、まるで、歩く影そのもののようであった。その姿は、輪郭さえも曖昧で、ただ、そこにある、という絶対的な存在感だけが、肌を刺すように伝わってくる。
タケミカヅチ。そして、フツヌシ。
二柱の、本物の、武神。
ヤツカは、その神威の、あまりの濃密さに、呼吸さえも忘れ、ただ、立ち尽くすことしかできなかった。背後では、生き残った出雲の兵たちが、恐怖に喉を鳴らす音だけが、聞こえる。
「…ヤツカ様」
隣で、建彦が、低い声で呟いた。その声には、もはや、いつものような荒々しさはない。ただ、静かな、覚悟の色だけが滲んでいた。
「…なんだ」
「俺の父は、猪武者でした。ですが、誇り高い、出雲の武人でもありました」
建彦は、ヤツカの方を、一度も振り返らない。その目は、ただ、真っ直ぐに、迫り来る二柱の神を、見据えていた。
「…あなたに会って、剣の強さだけが、全てではないと、知りました。ですが、俺には、これしかない」
彼は、ふ、と、初めて、穏やかに笑った。
「ヤツカ様。あなたは、出雲の、最後の希望だ。…どうか、生きてくだされ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、建彦は、獣のような雄叫びを上げ、一人、二柱の神へと、向かっていった。
「建彦ッ! やめろ!」
ヤツカの絶叫は、届かない。
建彦の突撃は、勇敢で、そして、あまりにも、無謀であった。
影の如きフツヌシが、ただ、す、と半身をずらす。建彦の、渾身の斬撃が、空を切った。その、がら空きになった胴に、雷光をまとったタケミカヅチの剣が、まるで児戯に等しいとでもいうように、静かに、そして、正確に、振り下ろされた。
ザンッ、という、鈍い音。
建彦の巨体が、まるで糸の切れた人形のように、崩れ落ちた。その命の光が、ヤツカの目の前で、あっけなく、消え失せた。
「…あ…ああ……」
熱い。何かが、ヤツカの腹の底から、喉を灼きながら、せり上がってくる。悲しみではない。怒り。己の無力さへの、そして、友の命を、虫けらのように奪った、神への、絶対的な怒りであった。
「オオオオオォォォッ!」
ヤツカは、絶叫していた。彼の身体から、制御を失った神威が、奔流となって溢れ出す。大地が応え、足元から、巨大な岩の壁が、ヤマトの神々との間に、突き出した。
「ささや!」
「…うん!」
ヤツカの背後で、ささや姫が、両手を広げる。彼女の呼びかけに応え、森の木々が一斉にざわめき、無数の蔓や枝が、生き物のように伸びて、岩の壁を、さらに補強していく。
二人は、背中合わせになった。ヤツカの背に伝わる、ささや姫の、か細い身体の、温もりと、震え。
守る。この子だけは、私が、絶対に。
だが、彼らの、必死の抵抗は、あまりにも、脆かった。
フツヌシの、影の剣が、閃いた。音もなく、岩の壁に、巨大な亀裂が走る。続けざまに、タケミカヅチの、雷の剣が、轟音と共に、その亀裂を打ち砕いた。
土煙と、木片が、嵐のように吹き荒れる。
「――きゃあっ!」
その、煙の向こうから、ささや姫の、短い悲鳴が聞こえた。
煙が晴れた時、ヤツカが見たのは、その細い肩を、フツヌシの影の刃にかすめられ、地に膝をついている、ささや姫の姿であった。
その、白い衣に、じわりと滲む、赤い、血の色。
プツン、と、ヤツカの中で、何かが、切れた。
父のことも、国のことも、民のことも、全てが、思考から消え失せた。
彼は、ただ、本能のままに、傷ついたささや姫の前に、その身を投げ出し、彼女を、抱きしめるように、庇った。
「…ヤツカ…」
「…大丈夫だ、ささや。大丈夫。私が、守るから」
その顔が、すぐ近くにある。緑色の瞳が、恐怖と、そして、ヤツカを案じる、深い愛情に、濡れていた。三輪山の、木漏れ日の匂いがした。
ヤツカは、彼女を、この腕の中に、永遠に閉じ込めてしまいたいと、そう、思った。
その、背中に、まず、氷のような、冷たい衝撃。
フツヌシの、影の剣が、ヤツカの身体を、いとも容易く、貫いていた。
力が、抜けていく。
続いて、胸に、全てを焼き尽くすかのような、白い、熱の衝撃。
タケミカヅチの、雷の剣が、彼の心臓を、正確に、貫いていた。
…ああ…。
遠のいていく意識の中、ヤツカの世界から、音が、消えた。
戦の音も、神々の声も、聞こえない。
ただ、腕の中に、ささや姫の、温もりだけを感じる。彼女の、か細い呼吸の音だけが、聞こえる。
懐で、彼女がくれた、樫の実が、熱い。
脳裏に、浮かぶのは、三輪山の、あの、穏やかな光景。
小川のほとりで、無邪気に笑う、彼女の顔。
すまぬ、ささや…約束、守れなかった…。
彼は、最後の力を振り絞り、彼女の、小さな身体を、より強く、抱きしめた。
腕の中で、彼女の、か細い呼吸が、ふ、と、途切れたのを感じた。
そして、ヤツカの、意識もまた、深い、昏い、静寂の底へと、沈んでいった。
戦場の只中、二人の、小さな骸が、まるで、寄り添って眠るかのように、静かに、横たわっていた。
その、あまりにも、むごく、そして、あまりにも美しい光景を、遥か、出雲の王宮の壇上から、見ていた者がいた。
その、絶望の全てを、凝縮したかのような、一つの、地響きにも似た、咆哮が、やがて、天と地の、全てを、揺るがすことになる。
父の、慟哭が、今、始まった。
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