葦原の黄昏、天津の暁 15
第十四章:父の慟哭(大国主命)
時が、止まった。
王宮の物見台から、遥か彼方の戦場を見つめていた大国主の瞳が、ただ、凍り付いた。
見えたのだ。
人々の怒声も、剣戟の音も、何もかもが遠くに聞こえる、絶対的な静寂の中、ただ、その光景だけが、焼きごてのように、彼の網膜に刻み付けられた。
血気盛んな若武者、建彦が、雷光の一閃の前に、崩れ落ちるのが見えた。
そして。
我が子、ヤツカが。
森の娘、ささや姫を、庇うように抱きしめた、その背中を。
一本の、影の刃が、何の抵抗もなく、貫き。
その胸を、一本の、光の刃が、容赦なく、貫いた。
二人の、小さな影が、まるで、寄り添って眠るかのように、ゆっくりと、大地へと、崩れ落ちていくのが。
「…………あ」
大国主の唇から、乾いた、空気の塊のような音が、漏れた。
心臓が、握り潰されたかのように、軋む。息が、できない。
嘘だ。
幻だ。
あの子は、私の、ヤツカは。三輪山から、あれほど、逞しくなって、帰ってきたではないか。あの、はにかんだような笑顔を、つい、先日、見たばかりではないか。
違う。
死んでなど、いない。
いるはずが、ない。
だが、彼の、王としての、神としての、あまりにも明晰な視力は、その残酷な現実を、否定させてはくれなかった。
動かない。
ピクリとも。
二つの骸は、もはや、ただの、動かぬ、肉の塊であった。
「………………………あ」
喉の奥から、再び、音が漏れた。
だが、それは、先ほどとは、全く質の違う音であった。
それは、悲しみではなかった。
それは、絶望ではなかった。
それは、彼の、数十年という人生の中で、自ら、最も固く、最も深く、魂の奥底に封じ込めてきた、一つの、荒ぶる魂が、今、その錠を、内側から、力づくで、引きちぎる音であった。
義父神、スサノオ。
根の国を支配し、八岐大蛇を斬り伏せた、破壊と再生の、荒神。
そのスサノオより受け継いだ力が、今、愛する者の死という、たった一つの鍵によって、完全に、解き放たれた。
「ア……アアア……」
彼の口から漏れ出したのは、もはや、人の声ではなかった。
それは、地の底から響き渡る、地鳴りのような、獣の咆哮。
大国主の、慈愛に満ちていたはずの瞳から、光が消えた。そして、その代わりに、全てを無に帰す、昏く、そして、冷たい、神威の光が、燃え盛った。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!!」
慟哭は、天を衝く、巨大な破壊の奔流となった。
彼が、天に手をかざす。それまで、青く澄み渡っていたはずの空が、瞬間、墨を流したように、真っ黒に染まった。太陽は、その光を失い、世界は、真冬の夜よりも、暗い闇に閉ざされた。
風が、哭いた。
王宮の屋根を吹き飛ばし、巨大な木々を根こそぎにしながら、戦場へと、猛り狂う暴風が、吹き荒れる。
ヤマトの兵たちが、悲鳴を上げる。だが、それは、まだ、序曲に過ぎなかった。
大国主の瞳から、血の涙が、流れ落ちた。
その涙に呼応し、天から、黒い雷(いかづち)が、無数に、迸った。それは、タケミカヅチが操る、天の聖なる雷光ではない。根の国から放たれる、呪詛と怨念そのものである、破壊の雷。その一撃一撃が、ヤマトの陣を、大地ごと、抉り取っていく。
殺…ス…。
コロシテヤル…。
一匹、残ラズ…!
神の力に我を忘れた大国主の口から、もはや、意味をなさない、ただ、純粋な破壊衝動だけが、漏れ出ていた。
彼は、大地を踏みしめた。すると、大地が、裂けた。巨大な亀裂が、戦場を縦横無尽に走り、数多のヤマト兵を、悲鳴と共に、地の底へと飲み込んでいく。
だが、その狂乱の只中で、彼は、気づいていなかった。
その嵐が、ヤマトの兵だけでなく、生き残った出雲の民をも、無差別に打ち据えていることに。
その地震が、彼が愛した、この出雲の国、そのものの土台を、根底から、破壊し尽くしていることに。
その、世界の終わりのような光景の、その中心に。
一人の女が、荒れ狂う暴風に、その身を打たれながらも、一歩、また一歩と、進み出ていた。
スセリビメ。
「――あなたッ!!」
彼女の、悲痛な叫び声が、嵐の轟音の中、奇跡のように、大国主の耳に届いた。
「目を覚ましてくださいまし! 我が君!」
スセリビメは、ついに、暴走する夫の元へとたどり着くと、その、神威によって触れることさえ熱い、腕に、必死で、しがみついた。
「おやめください! 貴方が壊しているのは、ヤマトの軍勢だけではありませぬ! この出雲の国! 我らが愛した、この大地! そして…ヤツカが、その命を賭して、守ろうとした、全てを! 貴方様ご自身の手で、壊しているのですよ!」
彼女の瞳から、大粒の涙が、流れ落ちる。
…あれが、本当に、ヤツカの望んだことだと、そう、お思いですか…!
ヤツカ。
その、息子の名が、神の狂気に支配された大国主の魂に、初めて、楔のように、打ち込まれた。
彼の、昏い光しか映さなかった瞳に、一瞬、人の親としての、激しい動揺が走る。
嵐が、わずかに、その勢いを弱めた。
彼は、ゆっくりと、自らの足元を見た。そこには、ヤマトの兵の骸と共に、出雲の民の、見慣れた衣をまとった骸もまた、転がっていた。
そして、顔を上げる。見えるのは、破壊し尽くされた、自らの、愛する故郷の、無残な姿。
「…あ…あ…」
神の咆哮が、止んだ。
代わりに、彼の口から漏れ出たのは、ただ、一人の、全てを失った男の、どうしようもない、嗚咽だけであった。
荒れ狂っていた嵐は、主を失い、急速に、その力を失っていく。
そして、後に残されたのは、あまりにも、広大で、そして、あまりにも、救いのない、破壊の爪痕だけであった。
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