二十歳の約束 ~愛を、皿に盛る仕事~ 6
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第5章 戦わずして勝つ
1
季節は巡り、東京の空は鉛色の雲に覆われていた。
十二月の乾いた北風が、オフィスの窓ガラスをガタガタと鳴らす。その不穏な音は、室内に充満する焦燥感を煽るBGMのようだった。
営業部長の権藤が、デスクに叩きつけた「それ」は、毒々しいほどの光を放っていた。
「見ろ! これが現実だ!」
そこに転がっているのは、業界最大手の外資系『ロイヤル・フーズ』が発売した新商品、『ロイヤル・プレミアム・ライフ』だ。
パッケージは、和紙風のプリントが施されたビニール製。書体も、色使いも、『二十歳』を露骨に模倣している。だが、そこには金色の文字で大きく煽り文句が踊っていた。
『美味しく健康。最高級の和の味わいを、あなたへ』
『価格破壊! 1kg 1,980円』
「丸パクリだ。しかも安い。さらに全国のスーパー、ドラッグストア、ホームセンター、すべての棚を押さえてきやがった」
権藤は唾を飛ばして喚いた。
「テレビCMもバンバン流れてる。『二十歳』の半値近い値段で、スーパーで手軽に買えるんだ。D2Cなんて面倒なことをしてるウチの客は、根こそぎ奪われるぞ!」
麻耶は無言で、そのパッケージを手に取った。
軽い。
素材の重みではなく、大量生産品特有の、中身の詰まっていない軽薄な手触り。
裏面を見る。原材料のトップには「肉類(チキンミール)」、そして「動物性油脂」「調味料(アミノ酸等)」の文字。かつお節パウダーは、成分表の最後の方に申し訳程度に記載されているだけだ。
「……まがい物ね」
麻耶は静かに呟き、商品をデスクに戻した。
「値下げだ! 今すぐ半額にして店頭に並べろ!」
権藤の怒号が飛ぶ。麻耶はそれを拒絶する。
「しません。私たちのブランドを守るためです」
「ブランドだ? 格好いいこと言ってんじゃねえぞ!」
権藤がバンと机を叩き、麻耶に詰め寄った。その充血した目には、いつもの保身だけではない、奇妙な熱が宿っていた。
「高村。お前はここを『墓場』だと思ってるかもしれんがな、俺たちは三十年、ここで食ってきたんだ。一キロ三百円の『ニャンパック』じゃなきゃ猫を飼えない、年金暮らしの婆さんもいるんだよ。そういう客の生活を守るのも、メーカーの意地だろうが!」
麻耶は息を呑んだ。
彼には彼なりの、安売りを支えてきた自負がある。薄利多売で、貧しい食卓を支えてきたという、泥臭い正義が。
一瞬、麻耶の論理が揺らいだ。
私のやっていることは、選ばれた富裕層だけの道楽なのか?
だが、麻耶は視線を逸らさなかった。
「……おっしゃる通りです、部長。あなたの仕事は、多くの人を支えてきました」
麻耶は静かに、しかし断固として告げた。
「ですが、私は『二十歳』を選びます。誰にでも届く三百円ではなく、たった一人を救う二千五百円を。……それが、私の選んだ戦い方ですから」
権藤はギリと歯軋りし、やがてふいっと顔を背けた。
「……勝手にしろ。ただし、コケたら俺は知らんからな」
それは、初めて二人の間に「相互理解」にも似た火花が散った瞬間だった。
2
静寂の戦いが始まった。
テレビでは連日、有名女優を起用した『ロイヤル・プレミアム』のCMが流れている。
一方、『二十歳』のオフィスは、深海の底のような静けさに包まれていた。
一週間後。
モニターにかじりついていた航平が、ふと声を上げた。
「……風向き、変わりましたよ」
麻耶が駆け寄る。「どうなったの?」
「最初は『似てる』『安い方でいいじゃん』って声もありました。でも、潮目が変わったのは、この投稿からです」
航平が指差した画面には、一人のユーザーがアップした画像があった。
『二十歳』と『ロイヤル・プレミアム』。二つのパッケージの裏面、原材料表示を並べて撮影した写真だ。
そこには、短い一文だけが添えられていた。
『値段の差は、愛の差。私は裏切れない』
その画像は、残酷なまでの「事実」を可視化していた。
片や、産地まで明記された「カツオ・昆布・鶏肉」だけのシンプルなリスト。
片や、添加物と由来不明の粉末が羅列されたリスト。
コメント欄が、熱を帯びていく。
『うわ、並べるとエグいな。大手の方は添加物だらけじゃん』
『パッケージは似せられても、中身は嘘つけないね』
『浮気してロイヤルを買ってみたけど、うちの猫、匂い嗅いで砂かける仕草したわ(笑)。猫は正直』
「ネガティブ・キャンペーンを仕掛けたわけじゃありません」
航平の声が震えている。
「ユーザーが勝手に怒ってるんです。『私たちの二十歳を、安っぽいコピー商品と一緒にするな』って。……課長、これ」
航平は顔を上げ、麻耶を見た。
「ブランド・ディフェンスです。ファンが自発的に、企業を守る騎士になってくれてる」
麻耶の胸に、熱い塊が込み上げた。
孤独ではなかった。
会議室で戦い、工場で汗を流し、一通一通の手紙に込めた想いは、決して一方通行ではなかったのだ。
3
さらに一ヶ月後。
巨人は、自らの重みで膝を屈することになった。
定例会議の席で、航平が報告する声は弾んでいた。
「競合の『ロイヤル・プレミアム』、店頭から返品の山だそうです。完全に自滅しました」
ホワイトボードに、航平が得意げに図解する。
「敗因は二つ。一つは、SNSでの『品質比較』によるブランドイメージの失墜。そしてもう一つは、皮肉なことに『イノベーターのジレンマ』です」
「ジレンマ?」と権藤が眉をひそめる。
「ええ。彼らは『健康に良い新商品』を大々的に宣伝しすぎました。その結果、消費者はこう思ったんです。『じゃあ、今まで売ってた主力商品は体に悪かったの?』と」
カニバリゼーションと、理論の地縛化。
新商品が売れれば売れるほど、利益率の高い既存商品のネガティブ・キャンペーンになってしまう。
大手は自己矛盾に陥り、社内は大混乱。結果、新商品の広告を縮小せざるを得なくなったのだ。
「敵は勝手に転びました。そして……」
航平はグラフのページをめくった。
「『やっぱり大手のフードは信用できない』と悟った層が、情報の透明な『二十歳』に雪崩れ込んできています。会員数、先月比で二五〇パーセント増。……Jカーブ、来ましたよ」
わっと、オフィスに歓声が上がった。
若手社員たちがハイタッチを交わし、電話番のスタッフが嬉し涙を拭っている。
権藤でさえ、バツが悪そうに鼻をこすりながらも、「……三百円のニャンパックと二千五百円の二十歳、どっちも間違いじゃなかったかもな」と口元を緩めていた。
麻耶はその喧騒を、どこか遠くの出来事のように感じていた。
戦わずして勝つ。
孫子の兵法にある究極の勝利。
だがそれは、策を弄したからではない。ただ愚直に、顧客との約束を守り抜いた結果だった。
(勝った……のね)
全身の力が抜けていくようだった。
長く、苦しい冬が終わろうとしていた。
お祝いの空気が冷めた頃、オフィスに残っていたのは二人だけだった。
若手社員たちは先に帰り、権藤も珍しく早々に席を立った。乾からは「うるさい、さっさと帰れ」という趣旨のメッセージが届いていた。
麻耶は翌日の取材対応の原稿を書いていた。航平は隣のデスクでアクセス解析のデータを眺めていたが、やがてぽつりと言った。
「……俺、昔、猫飼ってたんですよ」
麻耶は手を止めた。
「知らなかったわ」
「小学生の頃です。捨て猫拾って。名前、チビ。そのまんまな名前ですけど」
航平はモニターを見たまま、どこか遠い声で話した。
「うち、あんま裕福じゃなかったから。餌は一番安いやつしか買えなくて。チビ、十一歳の時に死んだんです。腎臓、ってお医者さんに言われて」
麻耶は静かに聞いていた。
「子供だったから、そういうもんかと思ってたんですけど。あとで調べたら、穀物の多い安いフードを長く食べた猫は腎臓をやられやすいって書いてあって。……俺のせいじゃないってわかってても、なんか、ずっと」
航平は言葉を切った。
「だから、課長がアキコさんのインタビューの話をしてくれた時、鳥肌が立ったんです。俺が言葉にできなかったもの、全部そこにあった気がして」
麻耶は、目の前の青年を見た。
いつもパーカーのフードを崩し、スマートフォンを手放さない。軽口を叩き、会議では空気を読まずに発言する。「ゆとり社員」の代表格だと思っていた。
だが今、その横顔には、麻耶が見たことのないものがあった。
「……チビ、二十歳まで生きられなかったのね」
航平は少しの間、黙っていた。
「そうっすね」
それだけ言って、彼はモニターに目を戻した。それ以上は何も言わなかった。
麻耶も、何も言わなかった。
ただ、室内のヒーターが低く唸り、二人分の画面の光だけが、冬のオフィスを静かに照らしていた。
4
会議の後、麻耶は一人、工場へと足を運んだ。
外の寒気が嘘のように、工場内は蒸気と熱気に満ちていた。
釜からは相変わらず、芳醇な出汁の香りが立ち昇り、コンベアの上を製品の袋が次々と流れていく。そのリズミカルな機械音は、工場の心臓の鼓動そのものだった。
ラインの奥で、乾が若手作業員に何やら怒鳴っている。
麻耶の姿に気づくと、彼は油のついた軍手を外し、のっそりと近づいてきた。
「……聞いたぞ。大手が逃げ出したんだってな」
「ええ。私たちの勝ちです、乾さん」
麻耶が微笑むと、乾はフンと鼻を鳴らし、釜の方へ視線をやった。
「勝ち負けなんざ、どうでもいい。俺はただ、注文が増えすぎて寝る暇がねえってだけだ。……ったく、嬉しい悲鳴ってやつか」
「品質は落とせませんよ。お客様は、あなたの作るこの香りを信じているんですから」
「わーってるよ。俺を誰だと思ってやがる」
乾は無愛想に言いながらも、その目尻は深く下がっていた。
麻耶は工場の天窓を見上げた。
厚く垂れ込めていた雲が切れ、そこから一筋、冬の透明な陽光が差し込んでいた。
光の粒が、工場内の湯気に乱反射し、キラキラとダイヤモンドダストのように舞っている。
その光景は、どんな宝石よりも美しかった。
人と、猫と、技術と、想い。
それらが混じり合い、結晶となって、誰かの元へ届く。
マーケティングとは、数字を操ることではない。この光の連鎖を作ることなのだ。
「……さあ、仕事に戻りましょう」
麻耶は踵を返し、光の中を歩き出した。
その足取りは、ここに来た日よりもずっと軽く、そして力強かった。
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