葦原の黄昏、天津の暁 3
第二章:父と兄たち(ヤツカ)
三輪山を下りてより、十日が過ぎた。
ヤツカの目に映る風景は、日に日に、その様相を変えていった。神域の、畏怖すべきほどに清浄な自然は、次第に、人の営みの気配が色濃く混じる世界へと変わっていく。道をゆけば、粗末な麻の衣をまとった農夫たちが、訝しげに、しかし恭しくこちらに頭を下げる。夕暮れ時には、谷あいの小さな集落の、いくつもの竪穴住居から、夕餉の支度をする煙が立ち上り、そこには、魚を焼く香ばしい匂いや、子供たちの屈託のない笑い声が満ちていた。
それは、ヤツカが守るべき「国」の、ありのままの姿であった。
そして、ついに彼は、生まれ故郷である出雲の中心、父の王宮へと帰り着いた。
最後の峠を越えた瞬間、ヤツカの肺を、懐かしい潮の香りが満たした。三輪山の、甘い土と木の匂いとは違う、力強く、そして、どこか物悲しい、海の匂い。眼下には、弓なりに広がる海岸線と、その内側に広がる豊かな平野。そして、その中心に、まるで大地から生えた森のように、数多の屋根が連なる王宮の姿があった。
都に近づくにつれ、道の両脇には、いくつもの鍛冶場が現れる。空気を震わせる、甲高い槌音。ヤマトの脅威を前に、国が、武具の備えを急いでいるのだということが、肌で感じられた。
通された大殿堂は、ヤツカの幼い頃の記憶にあるよりも、遥かに広く、そして、薄暗く感じられた。天井を支える、磨き抜かれた巨大な檜柱は、三輪山の巨木にも劣らぬほどの太さで、荘厳な影を落としている。床板の隙間からは、遥か下の地面と、そこに満ちる涼やかな風を感じることができた。広間の最も奥、一段高い場所に設けられた玉座に、静かに座す、一人の男。
父上だ。
ヤツカが、その場で膝をつき、声を絞り出す。
「…父上。ただ今、戻りました」
玉座の主――偉大なる王・大国主は、ゆっくりと立ち上がると、壇を下り、無言のまま、ヤツカの前に立った。そして、その大きな掌で、息子の頭を、そっと撫でた。最後に触れた十年前よりも、その手には、深く、多くの皺が刻まれているように感じられた。その手から伝わってくる、懐かしい温もりと、王だけが背負う、途方もないほどの疲労の気配に、ヤツカは、思わず目頭が熱くなるのを堪えた。
「…息災であったか。ヤツカよ」
「は…はい」
「そうか。…大きゅう、なったな」
ただ、それだけの言葉。だが、その短い会話に、十年の歳月と、父子の間の、言葉にはできぬ万感の想いが、凝縮されていた。
その夜、ヤツカの帰還を祝し、そして、国の行く末を議するために、緊急の評定が開かれた。
大殿堂の中央、大きな炉の火が、集まった豪族たちの顔を、不安げに照らし出している。ヤツカは、父のすぐ隣に座すことを許された。そして、その正面に座る、二人の男の姿に、息を呑んだ。
彼が、まだ物心もつかぬ頃に別れた、異母兄たち。
一人は、タケミナカタ。まるで熊を人の形にしたかのような、岩の如き巨躯。その身にまとう武具の立てる音だけで、場の空気を圧している。
もう一人は、コトシロヌシ。兄とは対照的に、水鳥のように、しなやかで、静かな佇まい。その切れ長の目は、怜悧な光を宿し、じっとヤツカを観察している。
「おお、ヤツカか! 小さき頃の面影があるのう!」
タケミナカタが、腹の底から響くような大声で笑い、ヤツカの肩を、手加減なく叩いた。そのあまりの力に、ヤツカの身体がぐらりと揺れる。
「兄上。ご挨拶が、手荒すぎます」
コトシロヌシが、涼やかな声で、それを諌めた。彼は、ヤツカに向かって、優雅に一礼する。 「ご無事で何よりです、弟君。師である大物主神も、お変わりなく?」
その丁寧な物腰の中に、ヤツカは、値踏みするような、冷たい視線を感じ取っていた。
やがて、評定が始まった。議題は、ただ一つ。ヤマトへの対応である。
「ヤマトの狙いは、明らか! この出雲の豊かな鉄と、港! 断じて奴らの好きにはさせぬ!」
タケミナカタが、拳を握りしめ、吼える。
「兄上。力だけで、国は守れませぬ」コトシロヌシが、静かに応じる。「私の情報によれば、ヤマトは、すでに吉備の国をも、その支配下に置きつつあるとか。彼らの武力、そして国力は、我らの想像を遥かに超えているやもしれませぬぞ」
「ならば、屈せよと申すか!」
「滅びるよりは、と」
再び、炎と水のような、激しい議論が始まった。ヤツカは、その間で、ただ黙っていることしかできなかった。三輪山で学んだ神々の理(ことわり)は、この、人の欲望と恐怖が渦巻く場では、あまりにも無力に思えた。
その時、それまで黙って息子たちの議論を聞いていた大国主が、重々しく口を開いた。
「…いずれの言い分も、一理ある。だが、今の我らには、最も重要なものが欠けておる」
王の言葉に、広間は、水を打ったように静まり返る。
「それは、『情報』よ。ミナカタは、敵を『獣』と見て、ただ力で打つことしか考えぬ。コトシロは、敵を『嵐』と見て、ただ頭を垂れることしか考えぬ。だが、ヤマトの真の姿は、獣か、嵐か、あるいは、全く別のものなのか。それを、我らは、まだ誰も知らぬ」
大国主は、その深く、力強い瞳で、末の息子であるヤツカを見据えた。
「――ヤツカよ」
「…はっ」
「お前に行ってもらう」
「…え?」
「お前は、この国の外で育った。その瞳には、我らのような、内なる曇りがない。お前の、その清浄な目で、ヤマトの影が、今、どこまで伸びているのか、その目で、確かめてまいれ。吉備へ、播磨へ、丹波へ。諸国を巡り、ヤマトが、何を為し、民が、何を思い、国が、どう変わろうとしているのか。その全てを、この私に伝えるのだ」
それは、あまりにも唐突な、そして、あまりにも重い、王命であった。
タケミナカタとコトシロヌシの、驚きと、嫉妬と、そして侮りが入り混じった、複雑な視線が、ヤツカの背中に突き刺さる。
父は、この私に、国の命運を左右する、密偵の役目を果たせと、そう言うのか。
神の山で、ただ、自然の理だけを見つめてきた、この私に。
だが、ヤツカは、父の瞳の奥にある、深い信頼と、そして、他に誰も頼れぬという、王の孤独の色を見て取っていた。
彼は、己の心臓の音が、やけに大きく響くのを聞きながら、ゆっくりと、その場で深く、頭を垂れた。
「…御意」
ヤツカの、少年としての時間は、終わった。
そして、王の子としての、あまりにも過酷な、試練の旅が、今、始まろうとしていた。
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