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葦原の黄昏、天津の暁 4

第三章:旅の仲間(ヤツカ)

 夜が明け、ヤツカが旅立ちの支度を整えていると、父である大国主から呼び出しがあった。
 大殿堂へ赴くと、そこには父と、そして、燃えるような気配を放つ長兄・タケミナカタが待っていた。炉の火はすでに落とされ、巨大な広間には、柱の隙間から差し込む、朝の冷たく、青白い光だけが満ちている。その光が、父と兄の影を、床板の上に長く、黒々と伸ばしていた。
 「ヤツカよ」大国主が、静かに切り出した。「おぬし一人で、旅をさせるわけにはいかぬ。護衛として、そして、おぬしの武の目代として、伴を一人、つけることにした」
 「…武の、目代?」
 ヤツカの問いに答えたのは、タケミナカタであった。彼は、満足げに口の端を吊り上げると、背後に控えていた若者を、一歩前に進み出させた。
 「我が息子、建彦(タケヒコ)だ。出雲では、俺に次ぐ剣の腕を持つ。こやつがいれば、いかなる危険もあろうはずがない」
 ヤツカの前に立った若者――建彦は、まさしく父の若き日の姿を写し取ったかのように、猛々しい気迫をその身にみなぎらせていた。ヤツカより頭一つは高く、厚い胸板は、日々の鍛錬の賜物であろう。その鋭い眼光は、品定めをするかのように、ヤツカの全身を射抜いていた。
 「建彦である! ヤツカ様の剣となり、盾となり、この身命を賭してお仕えいたす!」
 腹の底から響くような声で、建彦はそう言って、深く頭を下げた。だが、その言葉とは裏腹に、彼の瞳の奥には、「神の山で育った、ひ弱な若君のお守り役など」という、わずかな侮りの色が浮かんでいるのを、ヤツカは見逃さなかった。
これは、父の配慮であると同時に、長兄の、監視でもあった。

 旅立ちの朝は、ことのほか、晴れ渡っていた。
王宮の門前で、ヤツカは、家族との別れの杯を交わした。
 「…案ずるな。お前の後ろには、この父が、そして出雲の神々がついておる」
 父、大国主は、ただ、それだけを言った。
 母、スセリビメは、何も言わず、ただ、息子の手を、強く、強く握りしめた。その手から伝わる、母の祈りの熱さに、ヤツカは、再び涙がこみ上げてくるのを、必死に堪えた。
 二人の若者は、そうして、出雲の都を後にした。

 初めのうち、ヤツカは、一歩一歩、故郷の土の感触を、確かめるように歩いた。都を離れ、なだらかな丘陵地帯にかかると、道の両脇には、黄金色に実った稲穂の海が、どこまでも広がっていた。風が渡るたびに、さわさわと、心地よい音が立つ。時折、あぜ道で働く農夫たちが、二人の姿に気づき、泥のついた手で、深々と頭を下げた。その顔に浮かぶ、素朴な笑顔。三輪山にはなかった、人の営みの、温かい匂い。
 この人々のために、行くのだ。
 ヤツカは、改めて、胸に誓った。
 だが、道は、次第にその様相を変えていった。
人の手でよく踏み固められた街道は、いつしか、岩がちな、細い山道へと変わる。建彦は、まるで獣のように、軽々と岩から岩へと跳躍していくが、ヤツカの足は、すぐに鉛のような重さを感じ始めた。息が切れ、肩で、荒い呼吸を繰り返す。
 「…ヤツカ様。歩みが、遅い」
 先を行く建彦が、苛立ちを隠さぬ声で、振り返った。
 「…すまぬ」
 「謝る必要はない。だが、その調子では、日が暮れるまでに、次の宿場には着けぬぞ」
 建彦の言葉には、棘があった。ヤツカは、唇を噛み、何も言い返せずに、ただ、痛む足を前に進めた。

 その日の夕暮れ、二人は、国境に近い、深い森で野営の準備をしていた。
 そこは、人の手が入ることを、永きにわたって拒んできたかのような、古き森であった。天を突くほどの樟(くす)や楢(なら)の巨木が、その枝葉を天蓋のように広げ、空を覆い隠している。地面は、ふかふかとした苔の絨毯に覆われ、湿った土と、朽ちた葉の匂いが、濃密に立ち込めていた。
 建彦は、手際よく火を起こすと、腰の剣を抜き、傍らの砥石で、一心不乱に刃を研ぎ始めた。シュッ、シュッ、と、石と鉄が擦れる、乾いた音が、鳥の声も絶えた夜の森に響き渡る。
 ヤツカは、その様子を、ただ黙って見ていた。揺れる炎が、建彦の真剣な横顔と、その手の中にある、人を殺めるための道具を、赤黒く照らし出している。森の木々が、まるで巨大な影法師のように、二人の周りを取り囲んでいた。
 「…建彦」
 「…何だ」
 「お前は、戦がしたいのか」
 建彦は、手を止め、ふん、と鼻で笑った。「戦がしたいのではない。国を、守りたいのだ。そのためには、戦う以外の道はない。…ヤツカ様には、分からぬか。この剣の重みも、血の匂いも」
その言葉は、ヤツカの胸に、小さな棘のように突き刺さった。
 ヤツカは、何も答えず、懐から、そっと樫の実を取り出した。ささや姫の温もりが、まだ、そこにかすかに残っているようだった。
 分かるはずがない。
 ヤツカは、心の内で呟いた。
 私に分かるのは、この樫の実が持つ、小さな命の重みだけだ。
 夜空には、木々の隙間から、満天の星が、またたいていた。それは、三輪山で見た星空と、何一つ変わらぬ、美しく、そして、どこまでも無関心な光であった。
 正反対の心を持つ、二人の若者。彼らの前には、どこまでも続く、暗い道と、そして、ヤマトという巨大な影だけが、大きく横たわっていた。
彼らの、本当の旅は、まだ、始まったばかりであった。

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金森努@マーケティング・研修講師/コンサルタント ありがとうございます! これからも頑張ります。