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葦原の黄昏、天津の暁 5

第二部:葦原の章
第四章:鉄の国、吉備(ヤツカ)

 出雲の険しい山々を越えると、世界は、まるで帳を開いたかのように、その様相を一変させた。息苦しいほどの木々の匂いは、どこまでも吹き渡る、開かれた風の匂いへと変わる。眼下に広がるのは、広大で、豊かな平野。それが、西国にその名を轟かせる、大いなる国、吉備であった。
 ヤツカがまず息を呑んだのは、平野のあちこちに、まるで神々が戯れに置いたかのように鎮座する、巨大な丘の存在であった。
 「…あれが、吉備の王の墓か」
 建彦(タケヒコ)が、感嘆とも畏怖ともつかぬ声で呟く。
 出雲の王墓とは全く違う、前方後円墳と呼ばれる、独特の鍵穴の形をしたその墳丘墓は、人の手で築かれたとは思えぬほどの威容を誇っていた。三輪山は、神が作りたもうた山。だが、これは、人が、神に代わって、大地を造り変えた証。ヤツカは、その、あまりにも強大な人の意志の力に、畏れに近い感情を抱いた。

 二人が、その中心の都邑(とゆう)に足を踏み入れると、まず鼻をついたのは、むせ返るほどの、鉄の焼ける匂いであった。道の両脇には、数多の鍛冶場が軒を連ね、昼も夜も、槌(つち)が鉄を打つ、甲高い音が鳴り響いている。その音は、まるで、この国の力強い心臓の鼓動のようであった。露店には、黒々とした光を放つ鋤や鍬の刃先、鋭い小刀、そして、頑丈な武具が、所狭しと並べられていた。その活気は、出雲の都を遥かに凌駕していた。
ヤツカが、その熱気に圧倒されていると、不意に、市場の喧騒が、まるで潮が引くように、さっと静まった。道の真ん中を、一人の男が、馬に乗って、ゆっくりと進んでくる。
 馬だ。
 出雲では、まだ王族や一部の武人しか目にすることのない、その雄大な生き物。その男がまとうのは、小さな鉄の札(こざね)を色鮮やかな紐で綴り合わせた、見慣れぬ形式の「掛甲(けいこう)」であった。その腰には、柄頭(つかがしら)に金の見事な装飾が施された、長大な直剣が佩かれている。ヤマトの使者。その男が馬首を巡らすたびに、市場の民衆は、まるで強い風に吹かれた草のように、さっと道を譲り、深く頭を垂れた。その瞳に浮かぶのは、敬意というよりも、明らかに恐怖の色であった。
 「…ふん。自国の主でもない男に、みっともなく媚びへつらいおって」
 建彦が、吐き捨てるように言った。

 やがて、二人は、吉備の国を治める大豪族の「居館(きょかん)」へと通された。
 その館は、ヤツカの想像を絶するものであった。幅が四十メートルはあろうかという、巨大な堀が、まるで大蛇のように屋敷全体を取り囲んでいる。堀の内側には、石で固められた高い土塁と、先端を鋭く尖らせた、巨大な丸太の柵が、幾重にも巡されていた。それは、もはや人の住まいではなく、一個の、堅牢な城砦であった。
 通された大殿堂は、出雲のそれよりも、さらに広く、そして豪華であった。床には、大陸から渡ってきたという、美しい文様の敷物が敷かれ、柱には、金銅の飾りが取り付けられている。
 「――遠路、ようこそおいでなされた。出雲の御子君(みこぎみ)」
 広間の奥、一段高い玉座から、巨漢の主が、朗々と声を響かせた。吉備の王。その男は、かつてヤマトと覇を競ったという、誇り高き王族の末裔にふさわしい、堂々たる風格を備えていた。
宴が、開かれた。目の前には、豊かな海の幸、山の幸が並べられる。だが、その華やかさとは裏腹に、ヤツカは、王の瞳の奥に、深い疲労と、諦観の色が浮かんでいるのを感じ取っていた。
酒が進むにつれ、王は、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
 「…ヤマトとの誼(よしみ)は、我が国に、多くの富をもたらしてくれた。見よ、あの壁に飾られた剣を。あれも、ヤマトの大王(オオキミ)からの、友情の証じゃ」
 王が指さした壁には、ヤツカが市場で見たものと同じ、豪華な金装飾の直剣が、誇らしげに飾られていた。
 「だが…」王は、杯の中の酒を、一気に呷(あお)った。「友情には、代償が要る。彼らは、我らに最新の鉄の品々を与える代わりに、我らが古より受け継いできた、鉄の作り方の秘伝を差し出せ、と申す。そして、彼らの戦のために、我らの若者たちを兵として差し出せ、と…。かつては、我らの牙も、天の太陽にさえ届こうかというほど、鋭かった。じゃが、その牙は、とうに折られてしもうたわ…」
 王の目が、遠い昔を見つめた。
 「我が祖父の、またその父の代のこと。ヤマトの大王が、我が一族の、花と謳われた女に心を寄せ、力づくで后として召し上げた。それを恨んだ我が祖先は、海の向こうの新羅と手を結び、ヤマトに弓を引いた…。じゃが、その戦は、ヤマトの圧倒的な兵の前に、ただ、我ら吉備の国の、夥しい血が流れただけで終わった。牙は、その時に折られたのよ。以来、我らは、牙を隠して生きることを、学んだのじゃ…」

 その夜、宿された館の一室で、建彦は、怒りに任せて壁を殴りつけていた。
 「臆病者め! 妻を奪われた恨みを忘れ、敵に媚びへつらうとは! 情けなや!」
 建彦の怒声が、がらんとした部屋に響く。だが、ヤツカの耳には、それは、どこか遠い世界の音のように聞こえていた。彼の胸を満していたのは、怒りではなかった。吉備の王が背負う、あまりにも重い歴史と現実に対する、深い同情と、そして、ヤマトという国の、底知れぬ恐ろしさであった。

 彼は、そっと部屋を抜け出すと、館の庭の、大きな楠(くすのき)の根元に膝をついた。そして、両の掌を、ひんやりとした大地に、強く押し当てた。
 父上…兄上…この国の、本当の姿を、お伝えせねば。
 意識を集中させる。彼の魂は、大地を駆け、風に乗り、遥か故郷にいる父、大国主の元へと、一つの「思い」を届けた。
 それは、言葉ではなかった。一つの、鮮烈な光景(ビジョン)であった。
 ――巨大で、誇り高き猪が、ヤマトの仕掛けた、巧妙で、そして、抗うことのできぬ鉄の罠にかかり、もがき、苦しみながら、その命の血を、一滴、また一滴と、大地に吸取られていく。
 ヤツカは、ゆっくりと掌を大地から離した。ぞっとするほどの寒気が、背筋を駆け上がった。
違う。父上、兄上、我らが戦うべき相手は、牙を剥く獣ではない。
 ヤツカの心に、一つの言葉が、まるで冷たい石のように、すとん、と落ちてきた。
 ――毒だ。
 そうだ。あれは、毒なのだ。甘い蜜を塗り、国の誇りを、民の心を、内側から、静かに蝕み、腐らせていく。気づいた時には、もう、骨の髄まで侵され、立ち上がる力さえも残ってはいない。吉備の国は、すでに、その毒に、深く、深く冒されている。
 ヤツカは、眠っている建彦の、無防備な寝顔に目をやった。彼の見る世界は、まだ、善と悪、敵と味方という、単純な二色で分かたれている。だが、自分が今、目の当たりにしている世界は、そんな単純なものではない。そのことを、まだこの忠実な相棒に、どう伝えれば良いのだろうか。
 旅はまだ始まったばかりだというのに、彼の心には、すでに、深い孤独の影が落ち始めていた。

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金森努@マーケティング・研修講師/コンサルタント ありがとうございます! これからも頑張ります。