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葦原の黄昏、天津の暁 6

第五章:大和の宮廷(タケハヅチ)

 大和の国、飛鳥の地に、若き大王(オオキミ)の宮殿はあった。
 タケハヅチは、評定が始まる前の、張り詰めた静寂に満ちた大殿堂に座し、静かに目を閉じていた。磨き抜かれた檜の床が、足袋を通して、ひんやりと伝わってくる。空気を満たすのは、清浄を保つために焚かれた、白檀の厳かな香り。だが、今のタケハヅチには、その香りさえもが、これから始まるであろう、血の匂いを覆い隠すための、空虚な儀式のように感じられた。
 目を開ければ、そこは、力の均衡の上に成り立つ、華やかで、そして危険な世界であった。居並ぶ豪族たちは、皆、色とりどりの絹の衣をまとい、その地位を競うかのように、玉や金の飾りを身に着けている。だが、その静かな佇まいの裏で、誰もが互いの腹を探り合い、自らの一族の利を計算している。タケハヅチは、その全てを、一つの巨大な織物のように見ていた。縦糸は、ヤマトへの忠誠。だが、横糸は、それぞれの氏族の、剥き出しの野心。それを、いかにして美しい一枚の布へと織り上げるか。それが、自らに課せられた天命だと、彼は信じていた。

 彼の視線が、対面に座す一団へと注がれる。物部の氏族長フツヌシと、その隣に座す若き武神タケミカヅチ。彼らの一団だけが、放つ空気が違う。絹の衣擦れの音ではなく、革と鉄の匂いが、まるで不協和音のように、この雅やかな空間に混じっていた。
 やがて、御簾(みす)が静かに上がり、若き大王・御間城(ミマキ)が、玉座に着いた。その瞬間、全ての豪族が、深々と頭を下げる。タケハヅチもまた、礼を取りながら、若き主君の顔を、そっと窺った。その顔には、天孫としての気品が備わっている。だが、その瞳には、この獰猛な獣たちを束ねるには、あまりにも純粋すぎる、憂いの色が浮かんでいた。
 「――東国の平定は、滞りなく。まつろわぬ神々は、ことごとく我が神威の前にひれ伏し、今や、日の本(ひのもと)に、帝の威光を疑う者はおりませぬ」
 壇上で、朗々と戦果を報告するのは、タケミカヅチであった。その声は、若く、自信に満ち溢れ、勝利の輝きに満ちている。
 平定、か。
 タケハヅチは、心の内で、静かに呟いた。
 あの若者は、勝利と栄光だけを語る。だが、その裏で焼かれた村々のこと、流された涙の川のことは、決して口にせぬ。あまりにも、光が強すぎるのだ。自らが作り出す、濃い影には、気づいておらぬ。
 「残るは、西の果てに燻る、最後の一片の影のみ。出雲の国津神、大国主! 彼らを、帝の御稜威(みいつ)の下に加え、平定を完了させることこそ、我らが天命にございます!」
 タケミカヅチは、そこで一度言葉を切ると、大王に向かって、さらに声を張り上げた。
 「かの地へ、かつて遣わされたアメノホヒは、彼の神に心酔し、戻らなかったと聞き及ぶ! アメノワカヒコは、彼の娘を娶り、使命を忘れたと! 出雲の神々は、人の心を惑わす、甘い毒を持つ! これを断ち切るは、もはや、剣をおいて他にありませぬ!」
 タケハヅチは、静かに立ち上がった。
 「…タケミカヅチ殿。その毒を断ち切る剣が、我ら自身の首を斬る刃とならねば、良いのですが」
 彼は、大王に向かって、深く一礼した。
 「大王様。武力にて屈服させただけの地は、いつか、必ずや、より強い武力によって叛旗を翻しまする。真の平定とは、武威を示すことではなく、徳をもって、相手の心を、自ずとこちらへ向かせること。一本の糸は弱いが、幾万の糸を織り上げれば、鋼の刃さえも通さぬ布となる。それこそが、未来永劫続く、国の礎を築く道と、臣は愚考いたします」
 彼は、若き大王の、聡明な瞳を見つめた。
 「大王様、お忘れではありますまいな。かつて、この国を、原因不明の疫病が襲った日のことを。あの時、我らを救ったのは、タケミカヅチ殿の剣でありましたか? 否。あれは、三輪山に鎮座する、古き大神・大物主の祟りであるとし、我らが、礼を尽くしてその神を祀ることで、初めて災厄は鎮まった。出雲の神々は、あの大神と、古く、深い縁で結ばれております。これを、力だけでねじ伏せようとすれば、必ずや、国に大いなる災厄を招きましょうぞ」
 「戯言を! 災厄を招くのは、むしろ、貴殿のその性急さではありませぬか!」
 タケミカヅチとタケハヅチ。炎と水。二人の視線が、大殿堂の中央で、激しく交錯する。
 ミマキは、玉座の上で、ただ黙って、その激しい応酬を聞いていた。その手は、膝の上の、大きな勾玉を、固く握りしめている。
 タケハヅチには、若き王の心の揺れが、痛いほど分かった。タケミカヅチの言う、輝かしい武勲への憧れ。そして、自らが説く、神々の祟りへの、敬虔な恐怖。その二つの間で、彼の魂は、引き裂かれようとしている。
 「…今日は、これまでといたす。両者、しばらく、頭を冷やせ」
 その、か細い声が、ようやく、評定の終わりを告げた。

 その夜、タケハヅチは、自らの館で、機織りの前に座していた。
 縦糸と、横糸。赤と、青。異なる糸が、交差し、重なり合い、一つの、美しい文様を織りなしていく。
 力と、徳。征服と、融和。これらもまた、一本の糸に過ぎぬ。なぜ、あの方々は、どちらか一方の糸だけで、国という布を織ろうとするのか。
 評定での、若き大王の、苦悩に満ちた顔が、脳裏に浮かぶ。
 このままでは、いかぬ。タケミカヅチらの激情が、いつか、若き大王の理性を焼き尽くす日が来る。
 彼は、機織りの手を止め、静かに立ち上がった。
 武断派が、力で事を進めるというのなら。
 私も、私のやり方で、一本の、細い糸を、西の国へと、垂らしてみるまで。
 タケハヅチの、穏やかな瞳の奥に、初めて、冷徹な、戦略家の光が、静かに灯った。

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金森努@マーケティング・研修講師/コンサルタント ありがとうございます! これからも頑張ります。