葦原の黄昏、天津の暁 7
第六章:分断の国、播磨(ヤツカ)
吉備の国を後にしてから、二人の間の空気は、わずかに、しかし、確実に変わっていた。
建彦(タケヒコ)の口数は、以前にも増して、少なくなった。だが、その沈黙は、もはやヤツカへの侮りから来るものではない。あの、牙を隠す王の姿が、彼の武人としての単純な世界観を、静かに揺さぶっているのだということを、ヤツカは感じていた。
彼らが、次なる国、播磨へと足を踏み入れた時、ヤツカは、その土地が放つ、奇妙な気配に、眉をひそめた。
豊かなのだ。土地は、吉備にも劣らず、どこまでも肥沃であった。川沿いには、青々とした稲穂が風にそよぎ、丘陵地帯には、数多の集落が、まるで穏やかな春の陽だまりの中で、微睡んでいるかのように、点在している。
だが、ヤツカの、三輪山で研ぎ澄まされた感覚は、その、あまりにも平穏な風景の裏に、まるで、美しい水面のすぐ下に潜む、巨大な淀みのような、不穏な気配を感じ取っていた。村人たちの笑顔は、どこか、張り付けたようにぎこちなく、その視線は、決して、ヤツカたちの目と、合おうとはしない。
「…妙だ」
ヤツカが呟くと、隣を歩いていた建彦も、低い声で応じた。
「ああ。…空気が、鉄臭い」
それは、鍛冶場の匂いではない。戦の、寸前の、あの、ひりつくような匂いであった。
二人が、この国で最も大きな川だという、市川の渡し場にたどり着いた時、その、不穏な気配の正体は、ついに、その姿を現した。
川を挟んで、両岸に、数十人ずつの、武装した男たちが、睨み合っていたのだ。
ヤツカは、息を呑んだ。彼らは、皆、同じ、播磨の国の言葉を話し、その顔立ちも、よく似ている。同族。それが、一目で分かった。
だが、その装束と、掲げる旗は、全く異なっていてた。
こちら岸の男たちは、出雲の兵と同じような、古風な革の鎧をまとい、その旗には、鹿の角を持つ、土地の古き神の姿が描かれている。
一方、対岸の男たちは、その多くが、ヤマトのものと同じ、鉄の「掛甲(けいこう)」を身に着けていた。そして、その集団の長らしき男の腰には、吉備の王が、あれほど、誇らしげに、そして、悲しげに、見つめていたものと、寸分違わぬ、「金装飾の直剣」が、これ見よがしに、佩かれていた。彼らの旗が、風にはためく。そこに描かれているのは、ヤマトの太陽の文様であった。
「道を、開けい! この渡しは、ヤマトの大王(オオキミ)様より、我ら赤松の一族が、預かったものぞ!」
金装飾の剣を持つ、男が吼える。
「戯言を! この川は、我らが父祖の、代々の土地! ヤマトの犬に成り下がった、裏切り者どもに、好きにはさせぬ!」
鹿の旗を掲げた、老武者が、それに、怒声で応じる。
ヤマトが、一本の、きらびやかな剣を、この国に投げ込んだのだ。そして、その剣を巡って、昨日までの兄弟が、互いに、刃を向け合っている。
これが、ヤマトの、やり方。
ヤツカの心に、吉備で感じた、あの、冷たい確信が、再び、蘇った。
「…ヤツカ様。どうする」
建彦が、ヤツカの顔を窺う。その目は、明らかに、鹿の旗を掲げた、古き武人たちに、味方したそうであった。
ヤツカの心も、同じであった。だが、ここで、我らが、どちらか一方に加勢すれば、それは、出雲が、播磨の内乱に介入したということになる。ヤマトに、格好の、口実を与えるだけだ。
だが、このまま、見ているだけで、良いのか。
ヤツカが、葛藤している、まさにその時であった。
「問答無用!」
金装飾の剣の男が、その剣を抜き放つ。それを合図に、対岸の兵たちが、鬨の声を上げ、一斉に、川を渡り始めた。
乱戦。
それは、あまりにも、醜く、そして、悲しい戦であった。同じ顔をした者たちが、同じ言葉で罵り合い、互いの身体を、容赦なく、剣や矛で傷つけ合う。川の水が、みるみるうちに、赤黒く、染まっていく。
建彦が、ぐっと、腰を落とした。今にも、飛び出そうとするのを、ヤツカは、その肩に手を置き、強く、制した。
「待て!」
「だが!」
「お前が飛び込めば、火に油を注ぐだけだ!」
ヤツカは、戦場を見据えた。鹿の旗を掲げた、老武者が、数人の敵に囲まれ、今まさに、その命が、尽きようとしていた。
もう、迷っている時間は、なかった。
彼は、建彦の肩から手を離すと、自ら、一歩前に進み出た。そして、両の掌を、地面に、強く、押し当てた。
三輪山で、師と、ささや姫と、あれほど、修行した力。
それは、人を殺めるためではない。
この、愚かなる、人の連鎖を、断ち切るためにこそ、ある。
「――鎮まれッ!!」
ヤツカの、魂の叫びに、大地が、応えた。
ゴゴゴゴゴッ!
凄まじい地響きと共に、二つの軍勢が激突する、その、ちょうど真ん中の、川底の大地が、巨大な口を開けるかのように、盛り上がり、そして、裂けた。
それは、誰も傷つけない。だが、その、人の力の及ばぬ、絶対的な天変地異は、戦に熱狂していた、全ての男たちの動きを、完全に、止めた。
彼らは、ただ、呆然と、裂けた大地と、その向こうで、静かに、こちらを見据える、一人の、美しい少年の姿を、見つめていた。
その夜の、野営地。
建彦は、昼間の出来事が、まだ、信じられないというように、何度も、ヤツカの顔を、じっと見つめていた。
「…俺ならば…ただ、斬り込んでいただけだったろう。そうなれば、もっと、多くの者が、死んでいた…」
その声には、初めて、ヤツカの力への、そして、その力の使い方への、偽りのない、敬意の色が、滲んでいた。
ヤツカは、燃え盛る焚火を見つめながら、父へと、二度目の報告を送っていた。
その幻視(ビジョン)は、二頭の、立派な角を持つ牡鹿であった。かつては、同じ森で、仲良く暮らしていたはずの、兄弟の鹿。だが、その二頭は、今、互いの角を突き合わせ、血を流し、死闘を繰り広げている。その、もつれ合う角の上、遥か、天上の枝から、一羽の、巨大な鷹が、その鋭い瞳で、ただ、じっと、二頭が力尽きるのを、待っている。
ヤツカの旅は、まだ、始まったばかりであった。だが、彼は、すでに、理解し始めていた。
自分は、ただの、密偵ではない。
この、国々の魂を蝕む、ヤマトという名の、病の正体を突き止めるために遣わされた、一人の、孤独な、医者なのだ、と。
そして、彼は、恐れていた。
次なる地で、自分を待っているのは、さらに、手の施しようのないほど、深く、病に冒された、国の姿なのではないかと。
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