葦原の黄昏、天津の暁 8
第七章:滅びの集落(ヤツカ)
播磨の国を抜け、さらに東へ。二人の旅は、もはや、ただの道行きではなかった。それは、ヤマトという巨大な病が、いかにして国の肌を、そして魂を蝕んでいくかを、その目で追う、痛みを伴う巡礼となっていた。
建彦(タケヒコ)は、以前のように、ヤツカの力の使い方に口を挟むことはなくなった。播磨での一件以来、彼は、ヤツカがただの「まじない師」ではないことを、その身をもって理解したのだ。だが、その代わりに、彼の口数は、さらに減った。その沈黙は、ヤマトへの、静かで、しかし、より深く、昏い怒りの色を帯びていた。
数日後、二人が、長く続いた森を抜け、小高い丘に差し掛かった時であった。
眼下に、十数戸ほどの、小さな集落が見えた。旅程によれば、今夜の宿となるはずの、丹波の国の、西の果ての村だ。
だが、ヤツカは、丘の上で、思わず足を止めた。
何かが、おかしい。
昼餉の刻限だというのに、どの家の竈(かまど)からも、煙が一切、立ち上っていない。畑には、人の姿がない。家畜の鳴き声も、子供たちの遊ぶ声も、聞こえない。ただ、風が、吹き抜けていくだけ。そのあまりの静けさが、まるで巨大な墓所のように、不気味であった。
「…どうした、ヤツカ様」
「…静かすぎる」
建彦も、ヤツカの視線の先に目をやり、その顔から、いつもの苛立ちがすっと消えた。彼の右手は、自然と、腰の剣の柄にかかっている。
「…行ってみよう」
ヤツカは、頷いた。胸の奥で、冷たい予感が、小さな蟲のように、這い回り始めていた。
二人は、丘を駆け下り、集落の入り口へと足を踏み入れた。
瞬間、ヤツカの足を、奇妙な感触が捉えた。ふかふかと、柔らかい。見下ろせば、それは、全てが燃え尽きて大地に降り積もった、分厚い灰の層であった。風が吹き、その黒い灰が、まるで嘆きの声のように、サァ…と舞い上がる。ヤツカは、思わず口と鼻を袖で覆った。燻(くすぶ)る木の匂い。焦げ付いた土の匂い。そして、その奥に、粘りつくように鼻腔に残る、甘く、生臭い香り。三輪山で、獣を捌いた時に嗅いだことがある、血が乾いた匂いだ。
「…誰も、おらぬのか」
建彦が、声を潜めて呟く。その声が、不気味なほど、静かな村に響き渡った。
ヤツカは、一つの、黒い穴へと、吸い寄せられるように近づいた。竪穴住居の、残骸。屋根も、壁も、全てが燃え落ち、ただ、がらんとした土の窪みが、ぽっかりと口を開けている。その窪みの壁際、竈があったであろう場所に、黒く炭と化した、人の形をした何かが、赤子を抱くように、丸くうずくまっていた。
あ…。
ヤツカの喉から、声にならない、乾いた音が漏れた。胃の腑が、冷たい水で満たされたように、重くなる。建彦が、ヤツカの肩を、強く掴んだ。
「見るな、ヤツカ様」
その建彦の声もまた、怒りというよりは、むしろ、恐怖に震えているのを、ヤツカは感じていた。
ヤツカは、足元に、何か小さなものが転がっているのに気づいた。拾い上げてみれば、それは、粗末な木を削って作られた、小さな人形であった。おそらく、この村の、幼い子供が、つい先ごろまで、その手に握りしめていたであろう、宝物。
その、あまりにも無垢な玩具の感触が、ヤツカの心に、最後の一撃を加えた。
三輪山で、ささや姫と笑い合った、穏やかな日々。出雲の都で見た、子供たちの屈託のない笑顔。それら全てが、今、この手のひらの上の、黒い灰にまみれた人形と重なり、彼の魂を、内側から焼き尽くしていくようであった。
違う。これは、賊の仕業などではない。賊ならば、食料を奪い、金目のものを持ち去るはずだ。だが、ここには、手付かずのまま、炭と化した粟や稗の俵が、あちこちに転がっている。これは、略奪ではない。
その時、建彦が、低い声でヤツカを呼んだ。彼が見つめる先、集落の中央に、奇妙なものが立っていた。
それは、この村で、唯一、燃やされずに残された、一本の柱であった。そして、その先端には、一枚の、煤けた布が結び付けられている。その布に描かれた文様を、ヤツカは、そして建彦も、知っていた。
ヤマトの、三本足の烏。
見せしめなのだ。
ヤツカの心に、冷たい言葉が響いた。これは、戦ではない。抵抗する者たちに、ヤマトが、その絶対的な力を、そして、その無慈悲を、見せつけるための、一方的な、冷徹な「処刑」であったのだ。
建彦が、ゆっくりと、ヤマトの旗が残された柱へと歩み寄った。そして、腰の大剣を抜き放つと、絶叫と共に、その柱を、一刀両断に斬り伏せた。
「…これは」
建彦の声は、もはや、怒りに震えてはいなかった。それは、氷のように、冷たく、そして、どこまでも静かな響きを帯びていた。
「これは、武人の戦ではない。…ただの、殺戮だ」
彼は、ヤツカの方へと向き直った。その鷹のように鋭い瞳には、もはや、ヤツカへの侮りの色も、自らの武勇への誇りも、浮かではいなかった。そこにあるのは、同じ地獄を見た者だけが分かち合える、深い、昏い、共感の色であった。
「…ヤツカ様」
初めて、建彦が、何の含みもなく、ただ、敬意だけを込めて、ヤツカの名を呼んだ。
「…俺は、今まで、間違っていたやもしれぬ」
ヤツカは、何も答えなかった。ただ、その建彦の視線を、真っ直ぐに受け止める。
風が、二人の間を吹き抜けていく。それは、滅びた村に住んでいた、名もなき人々の、声なき慟哭のようであった。
二人の少年は、夕陽が、その骸の村を、血のように赤く染め上げるまで、ただ、そこに立ち尽くしていた。
彼らの旅は、この日、その意味を、全く変えてしまった。
それは、もはや、父の命による、密偵の旅ではない。
滅ぼされた者たちの魂を背負い、そして、この国を覆い尽くさんとする、巨大な悪意の正体を暴くための、二人の、兄弟の、誓いの旅となったのである。
その夜、二人は、あの骸の村を見下ろす、丘の上で、火を熾した。建彦は、一言も口を利かず、ただ、闇に染まる村の跡地を、じっと見つめている。その横顔は、まるで石像のように、硬く、動かない。
ヤツカは、そんな相棒の背中を見ながら、静かに、立ち上がった。そして、丘の、最も高い場所へと歩みを進めると、その場に、深く、膝をついた。
「…ヤツカ様?」
建彦が、訝しげな声を上げる。
ヤツカは、答えなかった。ただ、両の掌を、ひやりとした夜の大地に、強く、強く、押し当てた。
父上。
心の内で、父の名を呼ぶ。
見てください。
これが、ヤマトの、本当の顔です。
吉備の国で送った、猪の幻視(ビジョン)など、生ぬるい。あれは、比喩に過ぎなかった。今からお見せするのは、この大地が吸い込んだ、あまりにも生々しい、現実の記憶。
意識を、集中させる。彼の魂は、大地を駆け、風に乗り、遥か故郷にいる父、大国主の元へと、一つの、決して目を逸らすことのできぬ、「真実」を届けた。
それは、もはや、比喩ではなかった。
――黒い灰が舞う、静寂の村。
――がらんとした、竪穴住居の、黒い口。
――竈のそばで、赤子を抱くように炭と化した、母子の骸。
――そして、その小さな手に握りしめられたまま、燃え残った、一本の、木の人形。
ヤツカは、自らの魂が、その光景を追体験するたびに、内側から、悲鳴を上げるのを感じていた。だが、彼は、決して、父との魂の繋がりを、断ち切らなかった。
見てください、父上。
これが、兄上たちが、戦おうとしている相手の、正体なのです。
これが、兄コトシロヌシが、ただ、屈しようとしている相手の、本質なのです。
この、絶対的な悪意を前に、我らは、どうすれば、よいのですか。
やがて、ヤツカは、ゆっくりと掌を大地から離した。全身から、力が抜け落ち、その場に、崩れ落ちそうになるのを、駆け寄ってきた建彦の、力強い腕が、支えた。
「…しっかりしろ、ヤツカ様」
建彦の声が、遠くに聞こえる。
ヤツカは、ただ、荒い息をつきながら、故郷、出雲の空を見つめていた。
今頃、父は、この地獄を、その目にしているだろう。
そして、あの、偉大なる王が、どれほどの、苦悩の淵に、沈んでいることだろうか。
ヤツカの心に、父への、深い、深い同情と、そして、何もできぬ自らへの、どうしようもない無力感が、冷たい、夜霧のように、どこまでも、どこまでも、広がっていった。
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