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葦原の黄昏、天津の暁 9

第八章『父王の苦悩』(大国主命)

 夜半。大国主は、広大な寝所にありて、未だ眠れずにいた。
 灯火はとっくに消され、部屋を満たすのは、障子に射す、冷たい月の光だけ。その光が、床に置かれた巨大な影を、ぼんやりと浮かび上がらせている。出雲の国造りの旅路を、常に共にした、愛用の大剣の影。だが、今の彼の目には、それが、まるで墓標のように見えてならなかった。
 ヤツカを旅立たせて、すでに幾夜が過ぎたか。末の子からの便りは、途絶えることなく、届いている。だが、その便りが届くたびに、大国主の心は、まるで、薄皮を一枚、また一枚と、剥がれていくかのように、痛みと不安を増していくのであった。
 初めに、吉備の国から届いたのは、「罠にかかった猪」の幻視(ビジョン)であった。誇りを失わず、しかし、抗うこともできず、ただ、ゆっくりと死を待つ大国の姿。
 そして、数日前、播磨の国から届いたのは、「角を突き合わせる二頭の牡鹿」の幻視(ビジョン)だった。ヤマトの謀略によって、同族同士が、互いに血を流し、憎しみ合う、醜い内乱の姿。
 報告は、一つ、また一つと、その絶望の色を、深く、濃くしていく。
 次に、我が子ヤツカは、この父に、一体、どのような地獄を、見せるというのか。
 大国主は、もはや、息子からの便りが届くこと自体に、恐怖さえ感じ始めていた。

 その、瞬間であった。
 ズンッ、と、腹の底から突き上げるような、鈍い衝撃。
 「…っ!」
 大国主は、思わず胸を押さえた。めまいがする。違う。これは、我が身の内なる変調ではない。来たのだ。ヤツカからの、次なる便りが。
目を閉じると、彼の脳裏に、これまでの比喩的な光景(ビジョン)とは、全く質の違う、あまりにも生々しい、五感の記憶が、有無を言わさず流れ込んできた。
 ――鼻をつく、燻る木の匂いと、血の乾いた、甘い香り。
 ――足裏に感じる、全てが燃え尽きた、黒い灰の、柔らかく、そして、おぞましい感触。
 ――目の前に広がる、がらんとした、竪穴住居の、黒い口。
 ――そして、その奥。竈のそばで、赤子を抱くように炭と化した、母子の骸。
 ――手のひらに感じる、小さな、木の人形の、硬い感触…。
 「あ…ぐ…っ!」
 大国主の口から、呻き声が漏れた。幻視(ビジョン)が、まるで、己の記憶であるかのように、その魂に、刻み付けられていく。幻視(ビジョン)と共に、ヤツカの、声なき絶叫が、彼の心に、直接、響き渡った。
 『父上、これが、ヤマトの、本当の顔です』
 『この、絶対的な悪意を前に、我らは、どうすれば、よいのですか』
 繋がりが、ぷつり、と切れた。後に残されたのは、息子の、深い、昏い、絶望の感触だけであった。

 大国主は、その場に、膝から崩れ落ちた。
 全身が、激しく、震えていた。それは、怒りか、悲しみか、あるいは、恐怖か。いや、違う。その全てが、一つになった、どうしようもない、無力感であった。
 あの子に。三輪山で、神々の理(ことわり)だけを見つめて育った、あの、心優しき末の子に。
私は、この世の、地獄の釜の底を、覗かせてしまったのだ。
 この、手で。

 翌朝、大殿堂には、重苦しい空気が、鉛のように垂れ込めていた。
 大国主は、昨夜ヤツカから受け取った幻視(ビジョン)の全てを、集まった豪族たちと、二人の息子に、ありのままを語った。
 彼の言葉が終わると、しばし、誰もが言葉を失い、静寂が、広間を支配した。
 最初に、その静寂を破ったのは、タケミナカタの、怒りに震える声であった。
 「…見よ、父上! これが、ヤマトのやり方だ! 奴らは、国を力で奪うだけではない。その誇りを、魂を、じわじわと嬲り殺しにするのだ! もはや、言葉を交わす必要などありませぬ! ヤツカの報告は、我らに『戦え』と告げている! 奴らが、この出雲に、その汚れた手を伸ばす前に、こちらから、鉄槌を下すべきです!」
 彼は、腰の大剣を抜き放つと、その切っ先を、床板に、深く突き立てた。広間に、ぎぃん、と、不吉な金属音が響き渡る。
 「兄上、お待ちくだされ」
 その狂気を、コトシロヌシの、氷のように冷たい声が制した。
 「ヤツカ様の報告は、むしろ、その逆を我らに示しております。吉備ほどの、あの鉄の国でさえ、すでに、抗う力を失っている。ましてや、今の我らに、何ができましょうか。猪のように、ただ、もがき苦しみ、無駄に血を流すことこそ、敵の思う壺。今は、ただ、耐え忍び、ヤマトの要求を呑んででも、国の存続を図るべきです」
 「黙れ、コトシロ!」タケミナカタが、血走った目で弟を睨みつけた。「お前は、この出雲の民に、あの丹波の村人たちと同じように、ただ、灰になれと申すか!」
 「死の灰となるか、屈辱の泥を啜ってでも生きるか、そのどちらかしかないと申しているのです、兄上! 誇りは、生きていてこそ! その誇りのために、民を、女子供まで、犬死にさせるおつもりか!」
 「貴様ッ…!」
 タケミナカタが、コトシロヌシに掴みかかろうとする。もはや、評定ではなかった。ただの、兄弟の、醜い罵り合いだ。

 「――静まらぬかッ!!」
 大国主の、腹の底からの咆哮が、大殿堂を揺るがした。それは、王の威厳というよりも、ただ、息子たちの醜態に、心を痛める、一人の父親の、悲痛な叫びであった。
 二人の息子は、はっと我に返り、父の前に、ひれ伏した。
 だが、大国主には、もはや、彼らにかける言葉もなかった。
 ヤツカが送ってきた報告は、皮肉にも、この国の魂を、一つにまとめるどころか、その亀裂を、もはや、修復不可能なほどに、深々と引き裂いてしまったのだ。
 彼は、ただ、力なく、息子たちに、そして、豪族たちに、下がるようにと、手で示した。
 やがて、がらんとした大殿堂に、大国主は、ただ一人残された。
 灯火の光が、玉座に座す、彼の、孤独な影を、ぼんやりと映し出している。
 どうすれば、よかったのか。
 武を選べば、国は滅びるやもしれぬ。和を選べば、魂が死ぬやもしれぬ。
 そして、そのどちらの道を選んだとしても、息子たちの、どちらか一方は、自分を、深く、深く恨むことになるだろう。
 王として、父として、彼は、完全に、行き詰っていた。
 大国主は、ゆっくりと、その両手で、自らの顔を覆った。その指の隙間から、王の、そして、一人の父親の、声なき呻きが、静かに、漏れ出していた。

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金森努@マーケティング・研修講師/コンサルタント ありがとうございます! これからも頑張ります。