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葦原の黄昏、天津の暁 10

第九章:后の戦場(スセリビメ)

 大殿堂の、分厚い柱の影から、スセリビメは、夫である大国主の姿を、ただ、じっと見つめていた。
 評定は、終わった。タケミナカタも、コトシロヌシも、そして、他の豪族たちも、皆、それぞれの怒りと、不安と、諦観をその顔に浮かべて、がらんとした広間から去っていった。後に残されたのは、玉座に座す、夫の、あまりにも孤独な影だけであった。
 その背中は、国の全てを背負う王のものでありながら、今は、ただ、道に迷い、疲れ果てた、一人の男のもののようにも見えた。スセリビメは、夫の指が、その両手で顔を覆い、その肩が、声なき呻きと共に、わずかに震えるのを、見た。

 その瞬間、彼女の心は決まった。
 胸の奥底で、父スサノオの、荒々しい血が、熱く、滾るのを感じる。
 あの男たちは、なんと愚かなことか。長男は、猪のように、ただ敵に突き進むことしか知らぬ。次男は、狐のように、ただ己の利と世界の理を計算し、戦う前に尾を巻く。そして、我が夫は、その両方の間で、ただ、心を引き裂かれている。
もう、よい。
 男たちの戦は、終わったのだ。これより先は、女の、我らの戦場。
 スセリビメは、音もなくその場を離れると、自らが差配する、王宮の最も奥まった一画、后の御殿へと戻った。そこは、巨大な柱と武具の匂いが支配する大殿堂とは違い、美しい織物と、焚かれた香の、甘い香りに満ちた、彼女だけの城であった。
 「…使いを」
 スセリビメは、筆頭の侍女に、静かに、しかし、有無を言わせぬ響きで、命じた。
 「タケミナカタ殿と、コトシロヌシ殿の、母君様。そして、主な氏族長たちの奥方様がたに。明日の昼、私の御殿にて、ささやかな茶会を開くと、そう伝えなさい」

 翌日の昼下がり。
 スセリビメの私室は、雅やかな茶器の触れ合う音と、女たちがまとう衣の絹擦れの音、そして、彼女たちの感情そのもののように、複雑に混じり合った香の匂いに満たされていた。集まったのは、出雲の国の、まさに内側を動かす、十数名の女たち。皆、色とりどりの「裳(も)」と「衣(きぬ)」をまとい、その髪は、美しく結い上げられ、翡翠や鼈甲(べっこう)の髪飾りが、陽光を反射してきらきらと輝いている。
 その様は、一見、華やかな社交の場であった。だが、そこに流れる空気は、男たちの評定と同じく、ひりつくような緊張に満ちていた。
 「后様。此度のヤマトの振る舞い、断じて許しがたいもの。我が息子ミナカタが申す通り、今こそ、出雲の武人たちの、真の力を見せつける時かと存じまする」
 口火を切ったのは、タケミナカタの母であった。彼女は、武門の氏族の女らしく、その目には、少しも怯えの色がない。
 「…まあ」それに、か細い声で応じたのは、コトシロヌシの母だった。「なれど、ヤマトの軍勢は、我らの十倍とも聞き及びます。戦になれば、我らの子や孫たちが、どうなってしまうか…。考えるだに、恐ろしゅうございます」
 その言葉をきっかけに、女たちの間でも、意見は真っ二つに割れた。夫の武勇を誇る者、子の身を案じて涙ぐむ者。男たちの評定の、そっくりな縮図が、そこにあった。

 スセリビメは、その全てを、ただ、黙って聞いていた。そして、皆の言葉が、一通り出尽くした頃、彼女は、すっ、と立ち上がった。
 その、静かな動き一つで、女たちの喧騒が、嘘のように止んだ。
 スセリビメは、集まった一人一人の顔を、ゆっくりと見渡した。そして、静かに、しかし、その場の空気全てを支配するような、威厳に満ちた声で、語り始めた。
 「皆様の、夫を思う心、子を思う心、しかと、聞き届けました。なれど」
 彼女の声の響きが、変わった。それは、もはや、穏やかな后のものではない。父である、大いなる神スサノオの、荒ぶる神威の片鱗を宿した、神の娘の声であった。
 「なれど、皆様は、忘れてはおいでではありませぬか。自らが、ただの男の妻、子の母である前に、この出雲の国に生きる、誇り高き、女であることを」
 女たちが、息を呑むのが、分かった。
 「我が父、スサノオの大神は、ただ猛々しいだけの、戦狂いの神でありましたか? 否。父君は、八つの頭を持つ大蛇を、力だけでねじ伏せたのではない。知略を用い、猛る心を内に秘め、そして、愛する女を守るという、強い意志をもって、初めて勝利を得たのです」
 スセリビメは、タケミナカタの母を見つめた。
 「玉砕覚悟の誇り、結構です。なれど、ただ死に急ぐだけの誇りが、国を守れますか」
 次に、コトシロヌシの母へと、その視線を移した。
 「子の未来を案じる心、結構です。なれど、ただ怯え、魂の誇りを売り渡した先に、真の未来があると、本気でお思いか」
 彼女は、両腕を、静かに広げた。その言葉は、もはや、女たちだけではなく、壁を隔てた、この国の全ての男たちに向けて、放たれていた。
 「お帰りなさいませ。そして、夫君たちに、お伝えなさい。ただ戦うか、ただ屈するか。そのような、追い詰められた獣の考えは、もうおよしなさい、と」
 「では…我らは、どうすれば…」
 誰かが、か細い声で問うた。
 「覚悟を、見せるのです」
 スセリビメの声に、凄みが帯びる。
 「夫たちに伝えなさい。出雲の女たちは、すでに覚悟を決めました、と。もし、ヤマトが戦を望むなら、我らは、最後の一人になるまで、矛(ほこ)を手に取り、子を抱いて火の中に飛び込む覚悟。この出雲の地を、ヤマトが得る時には、そこには、ただ、灰と骸しか残らぬと、思い知らせる覚悟です」
 彼女は、そこで一度、言葉を切った。
 「ヤマトに、我らの『滅びる覚悟』を、骨の髄まで理解させるのです。それなくして、彼らが我らと対等な話し合いの席に着くことなど、決してありませぬ。戦う覚悟を示してこそ、初めて、戦わずに済む道が開ける。死を恐れぬ者にだけ、真に『生きる』ための、誇りある道が示されるのです!」
 「――后様…」
 誰かが、感極まったように、声を漏らした。
 「夫たちの心を、一つに束ねなさい。王の決断を、ただ待つのではない。王が、誇りある決断を下せるための、揺るぎない礎を、我ら女が、築くのです。…さあ、お立ちなさい。それぞれの、戦場へとお戻りなさい」
 スセリビメが、そう言い放った時、彼女の背後から差し込む陽光が、まるで後光のように、その気高い姿を照らし出していた。
 女たちは、もはや、誰一人として、反論の言葉を口にする者はいなかった。彼女たちは、皆、その場に立ち上がると、スセリビメに向かって、深々と、そして、敬意に満ちた礼をして、それぞれの館へと、帰っていった。その足取りには、もう、迷いの色はなかった。

 一人、残された御殿で、スセリビメは、夫が苦悩する、大殿堂の方角を、じっと見つめていた。
男たちの、硬直した戦は、終わった。
 これよりは、女たちの、しなやかで、そして、強靭な、戦が始まる。
 彼女の、美しい顔に、初めて、凄みのある笑みが、静かに浮かんだ。

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金森努@マーケティング・研修講師/コンサルタント ありがとうございます! これからも頑張ります。