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葦原の黄昏、天津の暁 11

第十章:再会と凶報(ささや姫)

 ヤツカが山を下りてから、いくつ、月が満ち欠けしただろうか。
 ささや姫にとって、三輪山の時間は、まるで澱んだ水のように、ゆるやかに、そして、どこか重く流れていた。ヤツカがいた頃は、森の木々のささやきも、小川のせせらぎも、全てが喜びに満ちた歌のように聞こえた。だが、今、それらは、ただ、彼の不在を告げる、もの悲しい響きにしか聞こえない。
 一人で磐座(いわくら)の前に座しても、修行には身が入らなかった。ヤツカがあれほど苦労していた、大地を揺るがす「動」の力。その片鱗さえも、彼がいない森では、ただ虚しいだけだった。
 夜ごと、彼女は、ヤツカが残していった翡翠の勾玉を、そっと胸に抱いて眠った。ひんやりとした石の感触だけが、彼が、確かにここにいたことを、教えてくれる。
 ヤツカ…今、どこにいるの…?
 その問いに、森は、答えてはくれなかった。

 その日、ささや姫は、師である大物主が瞑想するという、山の頂に近い、聖なる泉のほとりにいた。水鏡のように澄み渡った水面を、ただ、じっと見つめていると、不意に、その水面が、何の兆候もなく、ざわり、と揺れた。
 そして、見えたのだ。
 幻視(ビジョン)ではなかった。それは、もっと直接的な、大地の痛みそのものだった。遥か西の地で、大地が、無数の魂が、声なき悲鳴を上げている。森が焼かれ、土が、血と涙を吸って、呻いている。その痛みの奔流の、その中心に、ささや姫は、ヤツカの、引き裂かれるような魂の気配を、感じ取っていた。
 「…あっ…!」
 彼女は、思わず胸を押さえた。ヤツカが、危ない。ひどく、傷ついている。
 もう、待ってなどいられなかった。
 ささや姫は、師である大物主の元へと、駆けた。
 洞で、静かに座す師の前にひざまずくと、彼女は、ただ一言、告げた。
 「参ります」
 大物主は、ゆっくりと、その琥珀色の目を開けた。その瞳には、驚きの色はない。全てを、お見通しであったかのように、ただ、深い、深い悲しみの色が浮かんでいた。
 「…巣立ちの時が、来たか。森の娘よ」
 「ヤツカが、私を呼んでおります」
 「あれは、呼んではおらぬ。あれは、ただ、泣いておるだけじゃ。おぬしが行けば、おぬしもまた、あれと同じ、人の世の悲しみに、その身を焼かれることになるぞ。それでも、良いのか」
 ささや姫は、真っ直ぐに、師の瞳を見つめ返した。
 「ヤツカのいないこの森で、一人、平穏に生き永らえるよりは」
 その、あまりにも純粋で、そして、あまりにも強い意志に、大物主は、ゆっくりと目を閉じ、そして、重々しく頷いた。
 「…ならば、行け。じゃが、雛鳥も、嵐の形を知ってこそ、空を飛べる。大国主の子に、伝えよ。…ヤマトの宮廷で、帝の手綱は、すでに、猛き鷹の手から離れた。解き放たれた鷹は、もはや、狩りが終わるまで、天には戻らぬ、と」
 ささや姫は、その言葉の意味を、完全には理解できなかった。だが、それが、ヤツカの命に関わる、重要な伝言であることだけは、分かった。
彼女は、師に、生まれて初めての、そして、最後の別れの礼をすると、一度も振り返らずに、神の山を、駆け下りていった。

 人の世は、ささや姫が想像していたよりも、遥かに、騒がしく、そして、どこか汚れた匂いがした。
 彼女は、人の集落を避け、森から森へと、道を急いだ。だが、三輪山を離れれば離れるほど、森は、痩せ、怯えているように感じられた。木々の声は、弱々しく、大地には、そこかしこに、鉄の杭が打たれたような、痛々しい傷跡が残っていた。
 彼女は、普通の旅人のように、道や方角を確かめはしない。ただ、大地の悲鳴と、その奥にかすかに感じる、ヤツカの魂が残した、傷跡の道筋だけを、頼りに、ひたすらに、西へ、西へと、走った。
 そして、ついに、彼女は、見つけてしまった。
 あの、滅びの集落を。
 その場所に足を踏み入れた瞬間、ささや姫は、その場にうずくまった。あまりにも濃密な、死の気配。焼かれた土の、声なき絶叫。炭と化した木々の、消えぬ怨嗟。無念のまま、この地に縛り付けられた、数多の魂の、冷たい感触。その全てが、彼女の五感に、奔流となって流れ込んできた。
 「…いや…いや…!」
 涙が、後から後から、溢れてくる。
 だが、彼女は、その絶望の底に、二つの、まだ新しい足跡を見つけた。一つは、怒りに満ちた、力強い足跡。もう一つは、深い、深い悲しみに、沈んだ足跡。ヤツカだ。
 彼は、ここにいたのだ。この地獄を、その目で、見てしまったのだ。
 ささや姫は、涙を拭うと、再び、走り出した。早く、早く、彼の元へ。彼が、その優しすぎる心ゆえに、壊れてしまう前に。

 月が、中天にかかる頃。
 彼女は、ついに、見つけた。
 森の開けた場所で、弱々しく燃える、一つの焚火。そして、その傍らに、疲れ果てたように座り込む、二人の人影。
 その、うなだれた背中を、見間違えるはずがなかった。
 彼女の唇から、全ての想いを込めた、彼の名が、ほとばしり出た。
 「――ヤツカッ!」
 その声に、二つの影が、はっと、同時に振り返る。
 月明かりの下、信じられないものを見るかのように、大きく見開かれた、ヤツカの瞳。
 その瞳を見た瞬間、ささや姫の、張り詰めていた心の糸が、ぷつり、と切れた。彼女は、もう、何も考えられなかった。ただ、その胸に飛び込むために、涙で濡れた頬のまま、闇の中を、駆けた。

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金森努@マーケティング・研修講師/コンサルタント ありがとうございます! これからも頑張ります。