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二十歳の約束 ~愛を、皿に盛る仕事~ 3

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第2章 二十歳の約束


1

 六月の雨が、倉庫街の古いアスファルトを叩いていた。
 海から吹き込む風は湿り気を帯び、錆びた鉄と潮の匂いを運んでくる。開発室の窓ガラスを伝う水滴が、歪んだ景色をさらに曖昧に滲ませていた。
 その閉塞した空気の中で、乾源三郎が吐き捨てた言葉は、雨音よりも重く響いた。

「ゴミだ」
 ステンレスの作業台に、ステンレスの皿が乱暴に置かれる。

 そこに乗っているのは、試作コード『042』。麻耶が本社の商品開発部から強引に取り寄せた、高級鶏肉ミンチを使ったウェットフードだ。

「匂いを嗅いでみろ。肉の鮮度はいい。だが、加熱処理の過程で『魂』が抜けてる。これじゃあ、病院食だ。猫は鼻先で笑うぞ」

 乾は作業着の胸ポケットからショートホープを取り出したが、火は点けずに指先で弄んだ。彼の苛立ちは、指の動きから空気へ伝播し、室内の温度を一度下げたように感じられた。

 麻耶は唇を引き結び、試作品を見下ろした。

 加熱殺菌という工程の壁。

 無添加を貫こうとすれば、腐敗を防ぐために高温高圧の殺菌が必要になる。その熱が、素材の繊細な香りを焼き尽くしてしまうのだ。

「……香料を使えば、解決しますか」

 開発スタッフの一人が、恐る恐る提案した。
「天然由来のフレーバーなら、無添加の定義からは外れません」

「逃げるな!」
 乾の怒声が、コンクリートの壁に反響した。

「後から足した香りで誤魔化すなんざ、厚化粧した老婆と同じだ。俺たちが作ろうとしてんのは、スッピンで勝負できる『本物』だろうが!」

 麻耶は静かに息を吸い込んだ。肺の奥に、湿った空気と共に焦燥感が満ちていく。

 プロジェクト始動から二週間。試作回数は四十回を超えた。
 だが、答えは見えない。
 壁に貼られたガントチャートの『開発フェーズ』を示す矢印だけが、無情にも右へと伸びていく。

 その時、麻耶のスマートフォンが、ジャケットのポケットで短く震えた。
 画面に表示された名前を見て、彼女の眉間がわずかに寄る。

 『経営企画室・毒島(ぶすじま)』。
 親会社である帝都フーズから派遣されてきた、冷徹な計算機のような男だ。

「……高村です」
『会議室へ。例の事業計画の件だ。営業の権藤部長も同席している』

 電話は一方的に切れた。
 麻耶は画面の暗転したスマホを握りしめ、乾を見た。

「本社への説明会です。……行ってきます」

「行ってこい。こっちはこっちで、泥沼を這いずり回っとく」

 乾は背を向け、再び試作品の入ったビーカーと睨み合いを始めた。その背中は、岩のように頑強で、しかしどこか孤独に見えた。

2

 会議室の空気は、開発室とは対照的に乾燥しきっていた。
 ホワイトボードの前には、細身のスーツを着こなした毒島が立っている。銀縁眼鏡の奥にある瞳は、爬虫類のように感情の色がない。

 その横で、権藤がふんぞり返り、麻耶をニヤニヤと眺めている。

「単刀直入に言おう、高村くん」
 毒島は、細い指で手元の資料を弾いた。

「君の提出した『二十歳(ハタチ)』の事業計画書だが、却下だ。ターゲット設定が非現実的すぎる」
 毒島はマーカーを手に取り、ホワイトボードに滑らかな円を描いた。

​「……マーケティングのフレームワーク『5R』。君もMBAホルダーなら基本だろう?」

​ 毒島は、細い指でホワイトボードに単語を列挙していく。

​・Rank(優先順位)
​・Realistic(市場規模)
​・Rise(成長性)
​・Reach(到達可能性)
​・Rival(競合状況)

​「特に致命的なのは、二つ目のRealistic(規模)だ」
 毒島は冷ややかに告げた。

「君が狙おうとしている『罪悪感を解消したい働く単身女性』などというセグメントは、市場全体の数パーセントにも満たない。そんなニッチな層に向けて、原価率の高い商品を開発する? 正気の沙汰じゃないな」

 権藤が好機とばかりに口を挟む。
「そうだそうだ! だから言ったんだ。もっとターゲットを広げろと。『猫を飼っている全世帯』を対象にして、値段も手頃に抑える。味だって、そこそこでいいんだよ。万人に受ける『無難な味』にすれば、パイは広がる」

 広すぎる会議室。
 男たちの低い声が、壁のように麻耶を取り囲む。
 彼らの言うことは、教科書的には正しい。市場規模を大きく見積もり、最大公約数を狙う。それが大企業の「正解」だ。

 麻耶はゆっくりと立ち上がった。
 ハイヒールの踵が、床を鋭く叩く。

「……毒島さん。あなたは先ほど、私のターゲット設定を『狭すぎる』と言いましたね」

「事実だ」

「ではお聞きします。あなたご自身は、誰にでも好かれようとして、八方美人に振る舞う人間を信用しますか?」

 毒島の眉がピクリと動いた。
 麻耶は構わずに続けた。一歩、また一歩と、ホワイトボードへ近づきながら。

「ターゲティングとは、顧客を選別することではありません。顧客と『約束』をすることです」

 彼女は毒島の手からマーカーを奪い取ると、彼が描いた大きな円の中に、針の先のような小さな黒点を打ち込んだ。

「ターゲットを広げれば、約束は薄まります。『誰にでも合う』とは、『誰にとっても最高ではない』と同義です。そんな角の取れた丸い商品は、棚に並んだ瞬間、風景に溶け込んで消える」

 麻耶の声に、熱が宿り始めた。それは計算されたプレゼンテーションの声ではない。腹の底から湧き上がる、確信の音色(ねいろ)だった。

「私たちは弱者です。資金も、ブランド力もない。そんな私たちが、大手の広げた網(マスマーケティング)と同じ土俵で戦って勝てるわけがない。私たちが持つべきは、網ではなく、銛(もり)です」

 彼女は黒点を強く塗り潰した。

「市場の五パーセント? 十分です。その五パーセントの顧客が、もし一生涯、私たちだけを選び続けてくれるとしたら。その熱狂は波紋のように広がり、やがて五パーセントの外側にいる人々をも巻き込む。……5R分析で見るべきは、今の『規模』ではなく、未来への『波及効果』です!」

 一瞬の静寂。
 空調の音だけが、シュウシュウと鳴っている。

 権藤は口を半開きにし、毒島は眼鏡の位置を中指で押し上げた。そのレンズの奥の瞳が、初めて麻耶を「敵」として認識した光を帯びた。

「……弁舌は一流だな。だが、現実に商品は完成していない。工場の乾工場長も匙(さじ)を投げていると聞くが?」

「投げません」
 麻耶は即答した。

「彼は、日本一の職人です。そして私たちは、諦めの悪さだけは誰にも負けません」

 麻耶は一礼もせず、踵を返した。
 背中で感じる視線は、冷たさから、焼けるような焦燥感へと変わっていた。

3

 夕暮れの廊下を歩きながら、麻耶は知らず知らず拳を握り締めていた。
 会議室を出た直後は、確かな手応えがあった。毒島の仮面に一瞬だけ亀裂が走るのを見た。権藤が口を半開きにしたまま固まった。あの静寂は、論理が感情を制圧した証だ——そう信じていた。

 開発室の扉を開けた瞬間、麻耶の足が止まった。
 室内は、いつにない静けさに包まれていた。作業台の上に試作品の残骸が並んでいる。だが白衣の開発スタッフたちは、誰一人手を動かしていない。乾が作業台に背をもたせかけ、腕を組んで立っていた。
その表情を見た瞬間、麻耶の胸の奥に、冷たいものが落ちた。

「全員、出ていろ」

 乾は麻耶の顔も見ずに言った。
 スタッフたちが、気の毒そうな視線を麻耶に向けながら、静かに部屋を出ていく。最後の一人が扉を閉めると、室内は完全な静寂に包まれた。

「乾さん、先ほどの会議で予算の承認が——」

「話がある」

 乾は短く遮り、床の一点を見つめた。
「俺は、諦めが悪い方だ」

 地の底から絞り出すような声だった。

「三十年、どんな無茶な注文にも答えを出してきた。素材の声を聞く。誤魔化しはしない。それだけを守ってきた」

「……はい」

「だが」

 乾が顔を上げた。その目の中にあったのは、麻耶が一度も見たことのない表情だった。侮蔑でも嘲笑でもない。職人が、初めて自分の限界を正面から見つめる時の、静かな痛みだった。

「あのロイヤルの餌がなぜ猫を狂わせるか、俺はずっと悔しかった。肉骨粉とトウモロコシの搾りカスに、化学の油を吹きつけただけのものが。だから意地になった」

 乾は試作品の皿を一つ持ち上げ、鼻に近づけた。それから、力なく置いた。

「わかった。猫の嗅覚を刺激する成分の組み合わせは、自然の素材だけでは再現できない。沸点が違う。加熱すれば飛ぶ。冷えれば固まる。……俺たちがやろうとしていることは、油絵の具で水彩画を描こうとするようなものだ」

「それは、つまり……」

「この路線では、作れない」

 室内の空気が、一度だけ震えた気がした。

「試作四十回。素材は全て本物だった。俺の腕も、手は抜いていない。だが、猫が食わない。匂いを嗅いで、離れていく。あんたのインサイトが間違っているとは言わん。ただ——」

 乾はそこで言葉を止めた。

「インサイトは、皿に盛れない」

 麻耶は、言葉を失った。

「……スタッフを休ませる。この方向での開発は、一旦止める」

「乾さん」

「あんたのせいじゃない。俺の力不足だ」

 それだけ言い残し、乾は扉の向こうへ消えた。
 開発室の電灯が、次々と落とされた。
 いつの間にか外は暗くなっていた。麻耶一人が、消えた照明の下に取り残されている。デスクの上のノートパソコンだけが、青白い光を放っていた。
 取材ノートを開いた。

 世田谷のマンション。散らかった机。キャットタワーの頂上で眠るレオ。そして、アキコの震える声。

——私、すごく惨めな気持ちになるんです。

 麻耶の目が、その一行で止まった。
 アキコの孤独を、深夜の罪悪感を、自分は「インサイト」という言葉に変換し、商品化しようとした。値段をつけた。戦略の弾薬にした。
 だが、その商品は、存在しない。

「……私は、何をしたのか」

 声が、誰もいない開発室に吸い込まれた。

 バッグの中でスマートフォンが震えた。帝都フーズの旧友・田辺からのメッセージだった。

『最近どう? 本社に窓が開くって噂、聞いた?』

 麻耶の親指が、画面の上で止まった。
 一瞬だけ、脳裏に映像が浮かんだ。丸の内のガラス張りのオフィス。磨かれた大理石の床。あの「勝者の景色」。
 返信を書きかけて、止めた。消した。スマートフォンを伏せた。

(わからない)

 三十二年生きてきて、初めて口にした言葉かもしれなかった。
 正しいインサイトがある。だが、それを形にできなければ、ただの夢想家だ。「理想と現実の狭間で主人公が成長する」などと言えば聞こえはいいが、今の自分には理想しかない。現実が、追いついていない。

 麻耶は額を両手で覆い、デスクに肘をついた。
 どのくらい時間が経ったか、わからない。

「……来い」

 低い声がした。
 顔を上げると、開発室の入り口に、乾が立っていた。作業着のまま。靴には、白い粉のようなものが付着している。

「工場長……まだいらしたんですか」

「来い、と言った」

 いつもの苛立ちも、嘲笑も、そこにはなかった。
 麻耶は立ち上がり、乾の背中を追った。廊下の先から、かすかに——何かが、漂ってくる。
 嗅いだことのない香りだった。

4
 工場の一角にあるテストキッチンは、異様な芳香に包まれていた。
 それは、これまでの試作で嗅いだことのない、脳の原始的な部分を揺さぶるような香りだった。

 麻耶が扉を開けると、湯気(スチーム)の向こうに、仁王立ちする乾の姿があった。
 その目の前には、巨大な寸胴鍋。
 黄金色の液体が、コポコポと静かな音を立てて対流している。

「……工場長、これは」
「来たか」
 乾は振り返りもせず、お玉で液体をすくい上げ、光にかざした。

「帝都フーズの倉庫の奥から引っ張り出してきた。鹿児島・枕崎産の『本枯れ節(ほんがれぶし)』。それも、カビ付けを四回繰り返した二年物だ。……形が崩れてるってだけで、廃棄寸前だったとよ」

 麻耶は鍋の中を覗き込んだ。

 琥珀の露。
 そう表現するしかなかった。澄み切った黄金色の液体からは、燻(いぶ)された鰹の香ばしさと、凝縮された旨味が、目に見える粒子のように立ち昇っている。

「レトルトの熱で香りが飛ぶなら、最初から『飛びようのない濃厚な出汁』を染み込ませりゃいい。肉のミンチを、この出汁で炊き上げた。……食ってみろ」

 乾が差し出した小皿には、茶色いペースト状の肉が乗っていた。見た目はこれまでの失敗作と変わらない。

 麻耶は躊躇なく、指でそれをすくい、口に運んだ。

 舌に乗せた瞬間。
 爆発が起きた。

「……!」

 これまでのキャットフード特有の、あの油粘土のような不快感がない。

 最初に広がるのは、雷に打たれたような強烈な旨味。塩分は一切加えていないはずなのに、素材が持つミネラルとアミノ酸が、舌の味蕾(みらい)の一つ一つを叩き起こしていく。
 そして、鼻腔を抜けていく芳醇な薫香(くんこう)。それは、懐かしい夕暮れの台所を想起させる、優しく、しかし力強い「命」の匂いだった。

 気がつけば、麻耶は二口目を食べていた。
 飲み込んだ後、口の中に残るのは、心地よい余韻だけ。

「……美味しい」
 その言葉は、ため息と共に漏れた。

「お煎餅のような、あるいは上等なお吸い物のような……。これなら、人間に出しても恥ずかしくない」

 乾が、ニカっと歯を見せて笑った。顔に刻まれた深い皺が、少年のような無邪気な線を描く。

「当たり前だ。人間が食って美味いと思えねえもんを、家族に出せるかよ。……これが、俺たちの答えだ」

 麻耶の視界が、不意に滲んだ。
 湯気のせいではない。
 会議室で浴びせられた冷笑、数字だけの批判、そして自分自身が抱えていた「本当にできるのか」という不安。それらが全て、この黄金色のスープに溶けて消えていくようだった。

「乾さん」
 麻耶は鍋の縁に手を置き、その温かさを掌で感じた。

「勝ちましょう。この香りで、あの冷たい会議室の連中も、迷っている飼い主さんも、全部ひっくり返してやりましょう」

「おうよ。忙しくなるぞ」

 乾はお玉を鍋に戻した。金属音が、カァンと高く澄んだ音を立てる。それは、反撃の開始を告げるゴングのように聞こえた。

 窓の外、激しく降り続いていた雨はいつの間にか上がり、雲の切れ間から夕陽が差し込んでいる。
 濡れたアスファルトが、オレンジ色に輝き始めていた。

 商品はできた。
 だが、これはまだ「モノ」に過ぎない。
 この琥珀色の塊を、どうやって「価値」として世に届けるか。

 次なる戦場は、開発室から市場(マーケット)へと移る。
 そこには、価格という名の、さらに高く険しい壁がそびえ立っていた。

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金森努@マーケティング・研修講師/コンサルタント ありがとうございます! これからも頑張ります。