葦原の黄昏、天津の暁 2
第一章:影の兆し(ヤツカ)
「おぬしの夏は、終わりじゃ」
師である大物主の言葉は、夏の終わりの冷たい雨のように、ヤツカの魂に染み渡った。広場を支配していた、穏やかな午後の空気は、その一言で、まるで薄氷のように砕け散った。
ささや姫は、不安げにヤツカの衣の袖を固く握りしめている。その指先が、小さく震えているのが伝わってきた。
大物主は、二人の動揺には構わず、その古木の杖で、静かに東を指し示した。
「…参れ。見せておくものがある」
三人は、言葉もなく、苔むした岩が転がる険しい獣道を登っていった。鳥の声も聞こえない、深い森の中を、どれほど歩いただろうか。ヤツカの額には、再び汗が滲む。だが、それは先ほどの修行の汗とは違う、冷たく、不安に満ちた汗であった。やがて、木々の背が低くなり、視界が開けた。そこは、三輪山の頂に最も近い、風の吹き荒れる岩棚であった。眼下には、ヤマトの国が、広大な緑の海のように広がっている。
「師よ…一体、何が…」
ヤツカが問いかけると、大物主は、ヤマトの地平を見据えたまま、静かに語り始めた。その声は、いつものような穏やかさではなく、遠い雷鳴をはらんだ、重々しい響きを帯びていた。
「東の地に、一本の、鉄(くろがね)の若木が生えた。その木は、天から降ったという種から芽吹き、恐るべき速さで、今や大樹となろうとしておる」
師の言葉は、謎めいていた。だが、ヤツカには、それが、ただの木の話ではないことが、肌で感じられた。岩棚を吹き抜ける風が、ひときわ冷たく、そして、なにか焦げ臭い匂いを、運んでくるような気がしたのだ。
「その鉄の木は、他の木々のように、土の恵みを分ち合おうとはせぬ。…彼らの豪族の墓は、我らのように大地に抱かれる形ではなく、天を突く鍵穴の形をしておるという。彼らの鍛冶場が打つ鉄の音は、民を養う鋤鍬(すきくわ)の音にあらず。ただ、人の血を吸うための、剣と矛の音じゃ。そして、自らを『天津神の御子』と称し、この国を、ただ一つの色で塗りつぶすことこそが、天から与えられた使命、『天命』であると信じておる」
「出雲もまた、鉄を生み出す国。ヤマトになど、決して屈しませぬ!」
ヤツカの、少年らしい反発に、大物主は、ゆっくりと首を横に振った。
「おぬしの父、大国主の鉄は、大地を耕す。ヤマトの鉄は、大地を奪う。それが、違いじゃ」
師は、そこで初めて、ヤツカの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ヤツカよ。おぬしを、この山で育てたのは、ただ、その荒ぶる力を封じるためだけではない。その力を、いつか、何を守るために使うべきか、その心根を、おぬし自身に見つけさせるためじゃ。…時は、来た。父君の元へ、帰るのじゃ」
それは、あまりにも突然の、そして、あまりにも酷な宣告であった。
帰る。父の元へ。出雲へ。
その言葉は、ヤツカにとって、この穏やかで、満ち足りた世界の終わりを意味していた。
山を下りる道すがら、ヤツカも、ささや姫も、一言も口を利かなかった。森の緑も、鳥のさえずりも、今は、どこか色褪せて、悲しく聞こえる。ヤツカの足は、まるで自分の意志とは無関係に、一歩、また一歩と、機械的に前に進んでいた。だが、彼の魂は、ここにはなかった。その魂は、時の流れを遡り、この山で過ごした、十年の歳月の記憶の海を、彷徨っていた。
麓に近い、二人がいつも木の実を拾って遊んだ小川のほとりで、ヤツカは、初めて足を止めた。旅立ちの支度は、すでに山の精霊たちが整えてくれているだろう。残された時間は、わずかだった。
「…本当に、行ってしまうのか」
ささや姫が、震える声で、ぽつりと言った。その緑色の瞳が、不安げに揺れている。ヤツカが彼女の顔を見つめると、不意に、遠い日の記憶が、胸の奥から、鮮やかに蘇った。
――あれは、彼がまだ五つの年。父に手を引かれ、初めてこの神の山に足を踏み入れた日。人の世の匂いを纏った、小さな異物。森の全ての気配が、彼を警戒し、拒絶していた。その夜、一人、心細さに泣いていた彼の前に、木々の間から、きらきらと光る、蛍のようなものが現れた。それが、まだ人の形さえも曖-昧だった、森の精霊ささや姫との、出会いであった。――
「…行かねば、ならぬ。父上が、私を呼んでおられる」
「ヤマトが、怖いか」
「…怖い。だが、それ以上に、怖いものがある。何もできぬまま、この山の平穏が、お前が、失われてしまうことだ」
ヤツカの言葉に、ささや姫の瞳から、大粒の涙が、ほろり、とこぼれ落ちた。その涙を見て、また、別の日の記憶が、胸を締め付ける。
――夏の夕立。二人は、大きな樟の洞に隠れて、激しい雨音を聞いていた。空を裂く稲光に、ささや姫が、びくりと肩を震わせる。ヤツカは、必死で、なけなしの勇気を奮い起こし、その小さな手を、固く、固く握りしめた。「大丈夫だ。私が、そばにいる」と。その時から、彼女を守ることは、彼にとって、呼吸をすることと同じくらい、当たり前のことであった。――
「…私のことなど、すぐに忘れてしまうくせに」
「忘れぬ!」ヤツカは、思わず叫んでいた。「決して、忘れぬ! この山に誓って、私は、必ず、お前の元へ帰ってくる!」
その、あまりに力強い、ヤツカ自身の言葉が、まるで引鉄(ひきがね)になったかのように、ささや姫の、堪えていた想いが、堰を切って溢れ出した。
「…ひっく…」
小さな、しゃくりあげる声。次の瞬間、彼女は、ヤツカの胸に、その小さな顔を、うずめるように飛び込んできた。そして、その額を、彼の肩先に、ぐりぐりと押し付ける。
「…いやだ…行くな…ヤツカ…」
子供のように、ただ、繰り返す。ヤツカは、どうすれば良いのか分からず、ただ、その場に立ち尽くした。肩先に、彼女の熱い涙が、じわり、と麻の衣に染みていくのが、分かった。彼女の髪から、いつもと同じ、雨上がりの森の匂いがした。
ヤツカは、おずおずと、自らの右手を上げた。そして、その、震える指先で、ささや姫の、柔らかな黒髪を、そっと、撫でた。一度、二度。まるで、傷ついた小鳥をいたわるように。
大丈夫だ、と、言いたかった。
必ず、帰ってくるから、と、言いたかった。
だが、どんな言葉も、この、小さな肩の震えを、止めることはできないだろう。ヤツカは、ただ、無言で、彼女の頭を、撫で続けた。
やがて、ささや姫は、ゆっくりと、顔を上げた。その瞳は、涙で真っ赤だった。だが、彼女は、衣の袖で、ごしごしと、乱暴に涙を拭うと、ヤツカに向かって、精一杯の、笑顔を作って見せた。
「…待っておる。いつまでも」
その、あまりにも、健気な笑顔が、ヤツカの胸を、剣で貫かれたよりも、ずっと、ずっと、痛く締め付けた。
ヤツカは、自らの首に下げていた、翡翠の勾玉を外した。
「…これを、お前に預ける。私が、帰ってくる日まで」
彼は、その勾玉を、ささや姫の小さな手に、そっと握らせた。
ささや姫は、涙に濡れた顔で、こくりと頷くと、懐から、一つの、丸々とした樫の実を取り出した。
「…これを。三輪山の森の心が、こもっておる。これがあれば、どこにいても、ヤツカは一人ではない」
彼女は、その樫の実を、ヤツカの掌に、そっと置いた。その、小さく、そして温かい感触が、ヤツカの胸に、切なく広がった。
山の麓、人の世へと続く道の入り口で、ヤツカは、最後にもう一度だけ、振り返った。
霧の中に、三輪山の巨大な影が、静かにそびえ立っている。その懐で、ささや姫が、ただ一人、じっとこちらを見つめているのが、気配で分かった。
もう、振り返ってはならぬ。
ヤツカは、唇を強く噛み締めると、前を向いた。そして、神域と人の世を分かつ、苔むした境界石を、意を決して、またいだ。
瞬間、空気が変わった。神聖な森の、清浄な気配は薄れ、土埃と、獣と、そして、人の営みの、生々しい匂いが、彼を包み込む。
父の待つ国へ。
兄たちの待つ、王宮へ。
そして、鉄の木の影が迫る、戦乱の世界へ。
少年は、その日、初めて、神の山を下りた。
その一歩が、二度と引き返すことのできぬ、過酷な運命の旅の、始まりであることを、まだ風だけが、知っていた。
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