葦原の黄昏、天津の暁 13
第十二章:三つの流れ(ヤツカ)
ヤツカたちが、戦場を見下ろす丘の稜線にたどり着いた時、戦いは、すでに終わっていた。
いや、それは、もはや戦ではなかった。ただ、一方的な蹂躙と、屠殺があるだけだった。
眼下に広がる谷間は、おびただしい数の骸と、夥しい血だまりに覆われ、黒い煙を上げる焚き火のように、あちこちで武具が燻っていた。出雲の兵たちは、もはや陣形を保てず、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、それを、ヤマトの兵たちが、まるで狩りを楽しむかのように、追い立て、斬り伏せている。
ヤツカの目は、その地獄絵図の中から、一つの姿を探していた。いた。
戦場の中心で、地に膝をつき、肩に矢を受けたまま、それでもなお、倒れまいと、折れた剣を大地に突き立てて己を支えている、巨大な影。
兄、タケミナカタ。
その姿を認めた瞬間、ヤツカの喉の奥から、熱いものが、こみ上げてきた。
「父上…ッ!」
隣で、建彦が、獣のような絶叫を上げた。彼は、父の無残な姿に、理性の箍(たが)が外れたのだろう。腰の大剣を抜き放つと、今にも、一人で、その死地へと駆け下りていこうとする。
その腕を、ヤツカは、ありったけの力で掴んだ。
「待て、建彦!」
「離せ! 父を見殺しにしろと申すか!」
「死にに行くだけだ!」ヤツカは、初めて、声を荒らげた。「今、お前が死ねば、兄上の、あの誇り高い戦は、ただの犬死にとなる! それが、分からないのか!」
ヤツカの、これまで見せたことのない、厳しい眼光に、建彦は、はっと息を呑み、動きを止めた。
ヤツカは、建彦の腕を掴んだまま、隣に立つ、ささや姫を見た。彼女は、眼下の惨状に、その美しい顔を蒼白にさせ、ただ、わなわなと唇を震わせていた。森の精霊である彼女にとって、この、剥き出しの死と憎悪の光景は、あまりにも、耐え難いものに違いなかった。
だが、ヤツカが、その瞳を見つめると、彼女は、涙を堪え、こくり、と、力強く頷いてみせた。
大丈夫。私も、戦う。
その、言葉なき声が、ヤツカに、最後の覚悟を決めさせた。
「…勝つのではない」ヤツカは、二人に、静かに、しかし、速く告げた。「救うのだ。兄上を。そして、一人でも多くの、仲間を。…いいか」
彼は、三輪山で、師である大物主から叩き込まれた、神力の真髄を、今、初めて、己の戦のために、解き放とうとしていた。
ヤツカは、まず、両の掌を、丘の、湿った大地に、強く押し当てた。
目を閉じ、意識を、地の底深くへと、沈めていく。感じる。この大地が、今、流されている血に、悲鳴を上げているのを。その、大地の怒りと、自らの内なる、父祖スサノオの荒ぶる力を、一つに束ねる。
「――揺れよ」
彼の唇から、命令が、囁きのように漏れた。
瞬間、ヤマト軍の足元の大地が、ごごご、と、低い唸りを上げて、震え始めた。それは、地震というほど、大きくはない。だが、ぬかるんだ地面が、まるで沼のように、兵士たちの足に絡みつき、その動きを、確実に鈍らせていく。騎馬に乗った将たちは、暴れる馬を制御できず、あちこちで落馬が起きた。
「――ささや!」
ヤツカの声に、ささや姫が、応じる。
彼女は、丘の縁に立つと、両手を、そっと、天に掲げた。その唇が、ヤツカには聞き取れぬ、古く、美しい、森の歌を、紡ぎ始める。
すると、谷間のあちこちで、眠っていたはずの、木々の生命が、一斉に、目を覚ました。
地面から、茨(いばら)の蔓が、蛇のように伸び、ヤマト兵の足に絡みつく。森の木々の枝が、まるで意思を持ったかのように、しなり、鞭のように、敵兵を打ち据える。それは、破壊の力ではない。ただ、敵を拒絶し、その歩みを阻む、自然の、力強い意志表示であった。
「――行け、建彦ッ!」
最後の檄が飛ぶ。
建彦は、もはや、迷わなかった。目の前で起きている、神々の御業。その、ヤマト軍の混乱の、ほんの一瞬の隙を突き、彼は、数名の生き残りの兵を率いて、風のように、丘を駆け下りていった。
その太刀筋は、まさに、父譲り。地の利を知り尽くした彼の部隊は、混乱する敵兵を、巧みに避け、ただ一点、孤立したタケミナカタの元へと、突き進んでいく。
三つの、全く異なる流れ。
地を揺るがし、敵の足を止める、ヤツカの「動」の力。
木々を操り、敵の目を眩ませる、ささや姫の「静」の力。
そして、その間隙を縫って、仲間を救い出す、建彦の「武」の力。
それらが、今、奇跡のように、一つの、大きな流れとなって、ヤマトの、鉄の如き陣形を、確実に、こじ開けていく。
やがて、建彦の部隊は、深手を負ったタケミナカタを、その肩に担ぎ、丘の上へと、無事、帰還した。他にも、数十人の兵たちが、彼らに続いて、森の中へと逃げ込むことに成功していた。
それは、勝利ではなかった。だが、完全な敗北と、全滅の淵から、彼らは、奇跡のように、仲間を、そして、兄を、救い出したのだ。
「…やった…!」
誰かが、歓喜の声を上げる。
だが、その声は、すぐに、凍り付いた。
ヤツカは、息を切らしながら、谷の向こうを見つめていた。
ヤマトの軍勢の、混乱は、すでに、収まりつつあった。そして、その、整然と隊列を組み直す、兵士たちの壁が、まるで、潮が引いていくかのように、左右に、静かに割れていく。
その中央から、二つの、人影が、ゆっくりと、こちらへと、歩みを進めてくるのが見えた。
一人は、その身に、青白い雷光をまとっている。空は晴れているというのに、彼が歩を進めるたびに、バリ、バリ、と、大気が裂ける音がした。
もう一人は、まるで、歩く影そのもののようであった。その姿は、輪郭さえも曖昧で、ただ、そこにある、という絶対的な存在感だけが、肌を刺すように伝わってくる。
タケミカヅチ。そして、フツヌシ。
二柱の、本物の、武神。
彼らの、神威に満ちた、冷たい視線は、他の誰でもない。この丘の上の、ヤツカたち三人だけを、真っ直ぐに、射抜いていた。
ヤツカの背筋を、これまで感じたことのない、絶対的な恐怖が、駆け上がった。
人の戦は、終わった。
そして、今、ここから、神々の戦が、始まろうとしていた。
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