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小説『砂漠を横切るラクダのように』【7】(全13話)



 6月14日、火曜日。三ヵ月が過ぎた。あの揺れの中、さすがにちょっと死ぬかもと思いながら、あらためて「このまま、こんな人生のまま死ぬなんていやだ!」「やりたいことをやって、どんなにそれが厳しく困難な道でも、自分が納得できることを『仕事』としたい」と思ったのに、そして仕事も辞めてしまったのに、「三ヵ月」といわれてもまったくピンとこない時間を越えて、今ここにいる私はまだ何もはじめられずにいる。いくら「私にもチャンスがほしい」と願っても、行動していない人のところにはチャンスは転がってこないだろう。わかってる。「失うものなんて何もないのだから」と臆病な心に問いかける。問いかけ続ける。わかってる。とにかく自分の目の前の現実を動かしていかないことには、な~~~んにも変わらないのだと。

 やりたいことは「色のエネルギーを感じながら、少しの時間リラックスして、自分の内側に意識を向けてみませんか?」というようなことなのだけど、このとおり……言葉にするとなんだか怪しい印象になってしまうし、正しく受け取ってもらえるかどうか不安になってくる。それでも、たとえ誰かに誤解されたとしても、別に「今の自分」から失われるもの・奪われるものなんて何一つないんだよな~と、この数日しみじみと思うようになった。それは言葉にすれば簡単なことで「傷つくことを恐れてちゃ、せっかくの出会いの可能性さえ流れていってしまうよ」ということなのだろう。確かに……今すでに『ゼロ』なのだから、このままじっとしていたって、思いきって行動して『ゼロ』で終わったって、どっちも『ゼロ』で減るものはないか……。ならば、可能性の広がる方へ。それには勇気がいるけれど……とか構えずに、軽く一歩、踏み出せたらいいのにな。




 6月23日、木曜日。梅雨入り。今日は「市民活動相談」というものを受けてみた。市の施設を借りて何かをしたいとなると「市民団体」になるのが便利らしいのだ。もちろん個人や企業でも借りられる施設は多いが、たとえば「仙台市市民活動サポートセンター(サポセン)」を利用できるのは「市民公益活動団体」で、これは『1.自らの自由意志に基づき、自主的・自発的に行う活動で、2.誰に対しても開かれていて、3.幅広く多くの人たちの(幸せの)ために、4.営利を目的とせずに、社会に貢献する活動で、5.政治上の主義の推進や宗教の教義を広めることを目的とするものではないものと定義し、加えて、6.継続性と組織性を備え、社会的責任を果たすことを目的とした団体』と定義されている。

 この説明を聞いただけで、なんだか頭が痛くなってくる……。でも難しく考えなくても、二人いれば「グループ」であり「団体」として認められるのだそう。私のほかにもう一人サポートをしてくれる人がいれば、そしてそのグループに名前をつければ、それでOK。しかし私は「団体」を作りたいわけでも「市民団体」になりたいわけでもない。……頭がすっかりフリーズしてしまった。

 相談してみて思ったのは“そんなのわかってます~”ということで、つまりは「最初の一歩を踏み出してみること・はじめてみることだ」という話だった。人が集まろうと、最悪0人だろうと、まずは内容をじっくり考え慎重にターゲットを絞り込み、とにかく“1回”やってみること。日にちを決めて、場所をおさえて、チラシを作って配りまくること。もちろん全部自腹覚悟で。最初は来てくれるのが一人や二人でも覚悟して、まずはその来てくれた人を大切にして、とにかく一度やってみること。そう、結局は「勇気と行動力が必要だ」ということで、そこに具体的なアドバイスはない。その「人集め」、すなわち「ニーズのある人と繋がること」が“いかに難しいことか!?”なのに……。

 サロンの開業と閉店でしっかりと現実の厳しさを味わった私は、ここへ来てすっかりと勇気をなくしている。そして自分が何をしたいのか、またわからなくなってくる。自腹覚悟でボランティア活動したいわけじゃない。そんな余裕はないんだ。それならやっぱり、こんなこと考えてないで仕事を探して働くべきなのか。働くべきなのだろう。でもここで諦めたら、道は続いていかない。どんな可能性も広がらない。そう思っては自分を奮い立たせる。その繰り返しで、繰り返しだけで、未だ実現できずにここまで来てしまった。

 純粋に、単純に、「自分のできる方法で、ここで暮らす人たちと繋がって、少しでも心のケアに結びつくような、ほっこりゆるやかな空間を作れれば……」と思うのだが、目的が「お金」でも「ボランティア」でもないこういう想いは“中途半端”なのだろうか? “ゆるくて曖昧だけど、そのゆるさがいい”みたいなことは社会の中では目立たないし、なんていうか……居場所はないのか?

 自分の感覚は信じられる。というかそれしか体感できないから、人は人と繋がりたい・わかり合いたいと思うのだろう? だけどここからじゃ、どこにも届かない……か。

 いつだって必要なのは「現実的な行動力」なんだ。







 悲しくなったとき、不安定になったとき、心に浮かぶ「夢も希望も見えなくなってしまった」という気持ち。この先、自分の人生をどう再建していくか……。想い描いていた未来はガラガラと音をたてて崩れ、まったくの白紙になってしまった。


 全力で、夢中になって、命を燃やして取り組めるような――、

 そんな“何か”を見つけたい。それを「仕事」としていきたい――。


 そう思って生きてきたのに、現実の社会は厳しくて、どこまでいってもお金が必要で、だからこそ(お金を稼ぐためにも)やりたいことをやって社会の中で自立して生きていきたいと思っているのに全然叶わなくて、でも諦めたくなくて、本当にやりたいことに近づくためにいったんそこから目を逸らし“これならちょっとはがんばれそう”と思える道を葛藤を抱えながら、本心を騙し騙ししながら、カレンダーを塗り潰していくような気分で一日一日乗り切って。「どんな経験も、未来の自分の糧になる」なんて言い聞かせながらも結局は、お金のために働いて……。

 でも、あの地震に揺られたら“未来のために今を犠牲にするような生き方、やっぱりできない!”と、私の中の何かが目覚めてしまった。

 だから……ここで捨てたら「夢への道は遠くなる」「また振り出しに戻る」とわかっていたのに、戻れる気がしなかった。そうして全部、捨ててしまった。

 それなのに。自分で決めて捨てたのに、いざ捨ててしまったら、想い描いていた夢や希望までもが消えてしまったように感じ、「なんでがんばれなかったんだろう、なんで無理してでも続けられなかったんだろう」と心の中で誰かが泣く。泣き続けている。

 でも本当は、これで良かったんだと知っている。知っているのに、「そう思いたいだけだろ? どこまでも自分を甘やかしているだけだろ!」と頭の中で誰かが言い続ける。



 変わってしまった世界、あっという間に元に戻ろうとする社会。

 社会全体がパニックだったときが過ぎ、「復興だ」「復興だ」と驚くようなスピードでいろんなことが元に戻りはじめても「待ってよ、心の復興は?」「みんなもう忘れたの? 忘れられるの?」と、自分とその大きな流れとの距離は広がるばかりで、そのままそんな毎日がどんどん過ぎて――。

 真っ白になった人生を、もう一度。

(“真っ黒”と思ってないだけマシなのか?)

 そのために人には、いや私には、「夢」や「希望」が必要だ。

 自分の中にもう一度、新たな「希望の光」を見つけたい。







 8月22日、月曜日。真夏の暑さから一転、気温の変化とじめじめの湿度に体がついていかない。この夏、仙台は雨が少なかった気がするから「ここらで降るのも大事だろう」とは思いつつも、やっぱり湿度が高く気圧が重いのは苦手だ。太陽の光が分厚い雲に遮られて届かないだけで、心まで暗く重く湿っぽくなってくる……。今日は信じられないくらい眠ってしまった。眠りの中、ずっとずっと夢をみていた。

 地震のあとから頭をよぎることが多い『闇』というワード。嫌な夢や怖い夢をみることが多くなった気がするのは、自分の中にある『闇』と戦っているからなのか。それとも、終わりのない『闇』がずっと続いているように感じられるこの現実に対する“苦しさ”の象徴か――。

「新しい希望を見つけたい」

 その前に立ちはだかる『闇』の深さと暗さ。ここから抜け出さないことには、どこにも出られない……そんな気になってくる。だけど、とにかく今はいろいろ考えても八方塞がりで、どこにも出口を見つけ出せそうにないし、なんだかもう考えるエネルギーさえなくなっていて、それでも毎日朝は来て夜になって時間は確実に過ぎていって……。だから、ただただ「じっと今を耐えている」という感じなのだけど。こんな今の自分でも「今はそれでいいんだ」と、嘘でも無理やりにでも思ってあげて、いちいち赦してあげて。それでも追いつめられる感じは消えなくて、ひとりで無駄に苦しんで、苦しいのに現実は変えられずにいて。そんな繰り返しだけど、やっぱり「今を耐えよう、耐え抜こう」と、自分で自分に言ってあげたい。言い続けたい。

 あと、この天候になるとすかさず鼻と喉が痛くなって粘膜系が弱るのを感じるから(あの腰痛も復活してくるし)、とにかく見逃さないで気づくこと。体調管理には、よりいっそう気をつけたい。




 8月24日、水曜日。朝から泣いて目が覚める。病気のせいで「入院しないと死ぬから」と無理やり病院に連れていかれる夢。私は行きたくないのだけれど、みんな(親とか)のことを思い、でも心は「もうガマンするくらいなら死んだほうがいい」「どうして生きるのに、こんなにガマンしなきゃならないの?」って。そして、夫(そこにはいなかった)が悲しむのだけはいやだなぁと思って、だけど彼は私の気持ちをわかってくれているから、私が死んでも許してくれるはず……って、なんかそんな感じの夢だった。

 ――どん底。

 でも今日がきっと、底の底の底だったんだ。

 結局一日中そんな気分を引きずって、夜、風呂に入っているとき――。

 突然、頭の中の霧が晴れ、いろんなことがいい意味でどうでもよくなり、スカっと吹っ切れて「なんでもやってやる!」みたいな気持ちになった。

 こうなると、この情熱が消える前に行動するのみ! 明日は動くぞ!!




 8月25日、木曜日。昨日の気持ちが消えてしまわぬうちに、即行動。“こうなりゃ市民団体にでも何でもなってやる!”という勢いで、例の「サポセン」へ。しかし案の定、なんだか違和感があり、どうしても“その世界で輝く自分”がイメージできなくて……ガックリと肩を落とし、でも「せっかく久しぶりに街に来たんだから」と迷いながらもなんとなく、本当に何気なく、過去に縁のあった人を訪ねて、そこでいろいろと話をしているうちに「じゃあ、うちで一回やってみたら?」と、突然現実が動き出した!!

 とにかく驚いた(実は以前にもそこで何かやらせてもらえないかと相談したことがあったのだが、お互い「なんだか条件が合わないね……」という感じで、そのまま自然消滅してしまっていたのだ)。あんなにも滞っていたのに!? 波は突然やってくる。耐えて耐えて待っていたから、きっとつかまえられたんだ。アホみたいに時間はかかったけど、とりあえず、この波に乗って進もう。






 こうして私の手には、とある場所で『一日セミナーのようなものを開催できるかもしれない』というチャンスの欠片が転がり込んできたのだった。

 あのとき――私に残されていたのは「過去の縁を頼ってみること」で、それはこれまでずっと(利用するとか思われたくなくて)避けてきていたことで、だけど今回、自分の人生を天から見下ろすような気持ちで客観的に眺めてみたら「この出会いにもきっと意味があるはずで、せっかく過去の自分が繋いでくれた“縁”なんだから、今こそ大事にするべきなんじゃないか……」とぼんやり思えてきて、その直感に逆らわずに行動してみたら、突然ひらけた。

 人生とは不思議だ。やっぱり道がひらけるのは、ぐーーーっと思い詰めているときではなく、ふっと力が抜けて(例えば今回の私のように、ガックリと肩を落とし頭がうまく回らない状態で)、なんとな~く直感の赴くままに行動したときなのだろう。それと、準備が整っていないと道はひらけないんだなと改めて思う。前に相談したときの自分じゃダメだったと、今の自分からはよくわかる。



 どん底の闇の中から、やっと掴みかけているこの流れ。

 今はまだ、これがどこに繋がっているのかはわからないけど――1つ確かなのは、この“縁”は過去の自分ががんばって紡いでくれたものだから、この波に乗って、流れを信じ、自分を信じ、そして縁ある人たちを信じて……大きく心をひらいて、どーーーんと飛び込んでみようと思う。








~【8】へ続く~



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湖臣かなた☺︎☞リラックスしてflow♪flow♪(メンバーシップ♡大募集中♡) “はじめまして”のnoteに綴っていたのは「消えない灯火と初夏の風が、私の持ち味、使える魔法のはずだから」という言葉だった。なんだ……私、ちゃんとわかっていたんじゃないか。ここからは完成した『本』を手に、約束の仲間たちに出会いに行きます♪ この地球で、素敵なこと。そして《循環》☆