見出し画像

中学国語の教科書にある万葉集の和歌を学ぶための勉強室

 日本では、はるか昔、日本語がうまれてから、五音と七音を組み合わせて「」というものが生み出された。まだ文字のない時代にも、口から口へと歌が伝えられ、中国の漢字を使って日本語の歌を書き記した。一昔前に使われた、「よろしく」を「夜露死苦」、「I love you.」を「愛羅武勇」と書くようなもので、そうして書かれた本が、奈良時代の「万葉集」である。このように漢字をかなのように使っているものが「万葉まんよう仮名がな」と呼ばれる。



 中学校の教科書、東京書籍「新しい国語」3年には、以下の歌が載っている。

 

熟田津にきたづふな乗りせと月てばしおもかなぬ今はでな  額田王ぬかたのおおきみ
 熱田津にきたづで船出をしようと月を待っていると、潮流もちょうどよくなった。さあ、今こそぎ出そう。

ひんがしにかぎろの立つ見えて かり見すれば月かたぶきぬ  柿本かきのもとの人麻呂ひとまろ
 東の野に夜明けの光がさし、ふりかえると西の空に月が傾き沈もうとしている。

春のにすみれみにとしわれそ 野をなつかしみ一夜ひとよにける  山部やまべの赤人あかひと
 春の野にすみれをもうと来たわたしは野の美しさに心ひかれ一夜寝てしまった。

うりめば子どもおもほゆおゆくりめばましてしのはゆばゆいづくよりきたりしものそ まなかに もとなかかりて安眠やすいしなさぬ
 瓜を食べると子どものことが思われる。栗をたべるとましてしのばれてならない。一体、子どもというものはどういうえんで私のところに来たものだろう。目の前にちらついては私を安眠させてくれない。

しろがねくがねたまなにまされるたから子にしかめやも  山上やまのうえの憶良おくら
 銀も金も宝石も何の役に立とう。すぐれた宝も子どもにおよぶことなどない。

多摩川たまがわにさらす手作てづくりさらさらに何そこののここだかなしき  東歌あずまうた
 多摩川にさらしている手作りの布のように、なんでこの子はこんなにもいとおしいのだろうか

韓衣からごろもすそに取りつき泣く子らを置きてそぬや おもなしにして  防人歌さきもりのうた
 服のすそにとりついて泣き叫ぶ子どもらを置いて出てきてしまったことだ。あの子らにはすでに母もいないのに。

新しき年の初めの初春はつはる今日きょうる雪のいやしけ吉事よごと  大伴おおともの家持やかもち
 新しい年のはじめの新春の今日、降りしきる雪のように、いっそう積もれ、よきことよ。

 


 「熟田津にきたづふな乗りせと月てばしおもかなぬ今はでな」の歌の船は、大きな船だろう。船を出すための満潮を待っていたら、ちょうどよいぐあいになったという。
 「しおもかなぬ。」と、五七五七七の五句あるうちの五七五七。の四句目で意味が切れているので、四句切れの歌。句切れは「。(句点くてん)」をうつ場所。
 額田王ぬかたのおおきみ(630~690)は、天武天皇(?~686)と結婚しているが、その兄、天智天皇とも若かりし日に恋していたといわれる情熱的な女性。この歌の船は、戦場に向かうものと思われ、夫とともに戦地にも行こうとする女性でもあった。 


 「東《ひんがし》の野にかぎろの立つ見えてかり見すれば月かたぶきぬ」の歌の「かぎろひ」は、朝の日の出前の太陽の光のこと。「立つ」は自然現象があらわれることをいう。「かへり見」は、ふりかえること。東の空には日がのぼり、西の空には月が沈もうとしているスケールの大きな自然を詠んだ歌。
 句切れなし
 柿本かきのもとの人麻呂ひとまろ(662~710)は、天皇に仕える宮廷歌人で、万葉集を代表する人物。 


 「春の野にすみれみにとしわれそ野をなつかしみ一夜ひとよにける」の歌は、冬が終わり、若菜わかなに出て、すみれの美しい野のすばらしさを詠んでいる。当時は冬場に野菜がないので、欠乏したビタミンをおぎなうために春先に野草をつみに出ていた。今に残る七草がゆのもとになる行事だった。ちなみに、すみれも野草として花や葉を食べていたそうだ。
 「来しわれそ」の「そ(ぞ)」はかかり助詞で、「寝にけり」と終止形で終わるところを「寝にける」と連体形で終わる係り結びになっており、「寝てしまったのだ」ということを強調している。まあ、野外で寝たというよりは、野の近くの宿にまったということだろう。
 句切れなし
 山部やまべの赤人あかひと(700~736)は、柿本かきのもとの人麻呂ひとまろと並ぶ宮廷歌人で、ともに歌聖かせいとよばれる。

 

 「うりめば」の歌は、五七五七……七と続く長歌ちょうかとよばれるもので、こういう長い歌の次には反歌はんかとよばれる五七五七七の短い歌、短歌むこととなっていた。
 瓜は、マクワウリで、当時はくだものとしてよく食べられていた。瓜や栗は、子どもも好きだったのだろう。それらを食べると、ついつい子どものことが思い出される。このように、「瓜は~」「栗は~」と二つを並べて表現することを対句ついくという。これは中国の漢詩に使われる技法で、並べることで強調する働きがある。
 「いづくよりきたりしものそ」は、どこからきたものだろう、だが、仏教的に、どんなえんできたのだろう、といっている。「まなか」は、眼交まなかいと書き、目の前に、という意味。「もとなかかりて」の「もとな」は、むやみに、やたら。「かかりて」は、終止形が「かかる」で、ここでは、浮かんで、ちらついて、という意味。子どものことが気になって眠れないといっている。 


しろがねくがねたまなにまされるたから子にしかめやも」の歌は、金銀宝石よりも、子どものほうが大切だ、という親の思いをストレートにうたっている。
 「銀」は本当は当時は「しろかね」とにごらずよんでいたけど、わかりやすく「山は白銀しろがね~♪」と濁ってみた。そのくせ「金」は「こがね」となる前の「くがね」とよんでいる。いいかげんだなあ。でも、歌を覚えてほしいので、自分でわかりやすい読み方にすればいいだろう。最後の「しかめやも」は、およぶだろうか、いや、およばない。という反語はんご表現となっている。
 「~なにに。」と三句切れの歌。という説と、ここは「なにに、」で、句切れなし、という説もある。表現的にはわかりにくい歌だが、内容的には子を思うわかりやすい句。
 「うりめば」の長歌ちょうかに対する短歌となっている。
 山上やまのうえの憶良おくら(660~733)は、万葉集を代表する歌人で、家族のことや、貧困ひんこんをうたった「貧窮ひんきゅう問答歌もんどうか」が知られている。 


 「多摩川たまがわさらす手作てづくりさらさらに何そこののここだかなしき」の歌は、東国農民の歌で、東歌あずまうたとよばれ、東国地方の方言も多く使われている。歌は、標準語だけでなく、地方地方の言葉で詠まれていた。
 多摩川たまがわは古くは「多麻」と記され、あさが栽培され、麻布が作られていた。それを川でさらして白くする。その作業をしているのが若い女性なのだろう。「この」というのは女性だった。
 「さらさらに」は、さらに、ますますという意味で、川の流れの「さらさら」と二つの意味をこめた掛詞かけことばになっている。「ここだ」は、「こんなにも」という意味。「かなしき」は、「悲し」ではなく、「かなし」で、いとおしいという意味。どうしてあの子のことがいとおしく思えるのだろうという。
 「何そ」の「そ(ぞ)」はかかり助詞で、文末が終止形の「かなし。」ではなく、「かなしき」と連体形で終わる係り結び。こうすることで、そこを強調する。
 句切れはなく、「多摩川たまがわにさらす手作りさらさらに」は、「何そこののここだかなしき」を言いたいがための長い前書きになり、序詞じょことばという。つまり、言いたいのは、なんであの子のことが好きでたまらないのだろうという恋の歌。 


韓衣からごろもすそに取りつき泣く子らを置きてそぬや おもなしにして」の歌は、防人さきもりの歌で、防人さきもりは東国農民を徴集ちょうしゅうして、九州の警護けいごにあたらせた。東国(近畿きんきから東の地方)から九州まで歩いて行かなくてはならず、道なき道の当時は、命がけの旅となる。また、兵士として集められる男は、家庭での働きがしらであり、その男がいなくなれば、家族は食うこともままならなくなることも多い。
 この歌では「おもなしにして」と、父子家庭であることがわかる。残った子どもたちはどうなるのだろう。そんな悲しさを詠んでいる。
 「韓衣からごろもすそに取りつき泣く子らを置きてそぬや。」の五七五七の四句目で終わる四句切れの歌。また、本来は「おもなしにして、置きてそぬや。」となるところを倒置法とうちほうを使っている。言葉の順番が違うと、「あれっ」と思って「おもなしにして」置いて来たのだ、を強調することになる。 


新しき年の初めの初春はつはる今日きょうる雪のいやしけ吉事よごと」の歌は、万葉集の最後をかざる歌で、新年を祝う歌となっている。
 「吉事よごと」は、良いことで、「いやしけ」は、ますます、さらにの意。雪が積もるように、良いこともどんどん積もれ、とべている。こういう「言葉」を述べることが現実を引き寄せると思われ、「歌」が大切にされていた。
 「いやしけ吉事よごと」は、「吉事よごと」よ「いやしけ(あれ)」という語順を逆にした倒置法とうちほうとなっている。また、「吉事よごと」を強調する表現となっている。
 この歌は、「いやしけ吉事よごと」をいいたいがためのもので、その前の「新しき年の初めの初春はつはる今日きょうる雪の」は長~い前書きとなっている。このような前書きの言葉が序詞じょことばで、言葉を飾る表現技法の一つである。
 大伴おおともの家持やかもち(718~785)は、万葉集を編纂したと思われるが、なんせ昔すぎて、はっきりしたことはわからない。わからないながらも、家持やかもちはそんなに優遇された生活を送っていたわけではなく、役人として地方へも多く行っていることは知られている。そのようなときに、東歌あずまうた防人さきもり歌など、貴族以外の歌をあつめたのではないだろうか。 


 万葉集は文字によって書かれているが、その作者たちは文字を使えなかった。口から口へと伝わっていた歌を集めて記したのが万葉集なので、天皇や貴族や僧侶、兵士や農民、遊女、乞食こじきにいたるまでのあらゆる人の歌が載せられている。その後の時代は、文字の書ける人の歌だけが記録されるようになるので、万葉集は、文学史的に画期的かっきてきなものであり、現存する最古さいこの歌集だけあって、あれもこれもと4500首の歌がっている。
 歌風は、素朴そぼくで力強いといわれる。技巧にはしらず、思いをストレートにぶつけたものが多い。
 これをまとめたのは大伴家持おおとものやかもちといわれる。
 


全3回の解説の2回目。



以前、解説した万葉集の歌についてはこちら、


いいなと思ったら応援しよう!