中学生が万葉集、古今集、新古今集を学ぶ前に~「仮名序」を知る国語の勉強室
中学生が、ふだんとは違う言葉で書かれた古典を学ぶのは難しい。まして、ふだんなじみのない和歌を学ぶことはハードルが高い。
昔の短歌、いわゆる和歌について学ぶ前に、そもそも短歌、和歌の「歌」ってなんだろう。
昔の日本では、五音と七音を組み合わせて詩をつくった。言葉があれば自然と詩がうまれる。そしてその詩をよむとき、リズムをつけてよむ。それを「歌」といった。「ひさかたの~」と百人一首に節をつけてよむようなものだ。ドレミファソラシドと五線譜に書くような今の歌ではないが、リズムをもった言葉を「歌」といったのだ。
五七五七……七と長く続ける「長歌」に対して、五七五七七の短い歌を「短歌」といい、これが後の世まで続く。
日本の歌に対し、中国でも詩があった。これを漢字の詩「漢詩」という。こちらもリズムをもって朗読するので歌である。漢字の国、中国の歌に対して、日本、大和の歌を「和歌」という。
和歌も短歌も同じものをさしている。
中国は漢字の国といったが、万葉集の時代(奈良時代)に、日本には文字がなかった。中国の漢字を読める人が少数いただけだ。文字がないのに、人々は言葉を五七五七七と組み合わせては歌をつくった。
平安時代になると、ひらがなができ、かなを使って歌をつくるようになった。そのため、文字が使える貴族と坊主のための歌が中心となる。
平安時代の「古今和歌集」には、やっと使えるようになったひらがなをつかい序文「仮名序」とよばれるものが紀貫之によって書かれた。そこに、歌、言葉に対する思いが書かれている。
本来は「かな」ばかりだが、わかりやすく漢字交じりにして紹介する。
やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。
世の中にある人、事業、繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。
花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。
力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をもなぐさむるは、歌なり。
和歌は、人の心を種にして、いろいろな言葉となったものである。
世の中の人は、関わり合ういろいろなことがたくさんあるので、心に思うことを、見るもの聞くものに託して、言葉にしている。
梅の花で鳴く鴬、水にすむ蛙の声を聞くと、この世に生きているもの全て、みんな歌を詠むのである。
力を入れないで天地の神々を感動させ、目に見えない鬼神をもしみじみとした思いにさせ、男女の仲を親しくさせ、勇猛な武士の心を和らげるのは、歌なのだ。
まだ文章は続くが、中学校の教科書、東京書籍「新しい国語」3年にはここまでが載っている。
「言の葉」は、言葉。ものごとから出てきた葉っぱのようなものが言葉だという。「繁きもの」は、たくさんあること。「蛙」は、たんぼのゲコゲコ鳴くカエルではなく、川で美しく鳴くカジカガエルのこと。「いづれか歌を詠まざりける」は、だれが歌を詠まないことがあろうか、いや、みんな歌を詠む、という意味になる(こういう表現を「反語」という)。「天地」は天地だが、ここでは天地の神々。「鬼神」は、恐ろしい神。神々も歌で、言葉で、感動させられると考えた。だから、神社では、リズムをもった言葉、祝詞をよむ。また、仏教でもリズムをもった歌であるお経をよむのだ。
言葉には力があるものと思われた。言葉の力をさして「言霊」ともよんだ。
ネガティブな言葉を使えばネガティブになり、ポジティブな言葉を使えばポジティブになる。さらに、呪いの言葉を言えば、本当に不幸が起こるとも考えていた。
言葉には力がある。
こうして人々は、今にいたるまで歌をつくっている。
このことを頭において、昔の万葉集、古今集、新古今集を学んでいこう。
全3回の解説を予定している、今回が1回目。
日本に大きな影響を与えた古代中国の詩、漢詩について解説しているのはこちら、
