高慢斉行脚日記③~趣味が豊富な江戸の人々を描く黄表紙
ギャンブルにのめりこんで金を使うことがあるが、普通の趣味でも金を使いすぎることもある。江戸時代には多彩な趣味を持つ者が多かった。そこで金を使いすぎる人もいた。
誹諧や茶の湯、生け花に金を使う人たちを描いた黄表紙「高慢斉行脚日記」は、恋川春町作画で、安永五年1776に、鱗形屋孫兵衛から刊行された。
上中下三巻の現代語訳を三回に分けて紹介する三回目、最終回。
下巻
十四

扇谷御影堂折右衛門の番頭暑左衛門、手代扇右衛門、要介の三人は、日夜の遊興に仕事がおろそかになるだけでなく、店の金銀を多く使い込んでいたことが発覚し、親方はおおきに腹を立て、三人を追い出しける。
親方「おのれ、不届き千万、町人に似合わぬ遊芸に女郎買い、それにその頭はなんだ、わざと流行だからって髪の毛を少なくして、まるで病気で髪の毛が抜けたようだ。特に暑左衛門は、自分の年も考えろ、白髪交じりの流行の本多髷とは、なんとも胸くそ悪い。とっとと出て失せろ」
暑左衛門「一言も内藤新宿」
扇右衛門「いまいましい、ついにバレてしまった。こちとらのおもしろさも知らずに、じじい頭巾のヤボ野郎にしかられた」
十五

景都、清都は、たびたび山川白左衛門、相生松之介、変手古庵に金の催促をすれども返さないので、鎌倉で有名な青砥左衛門の役所に訴え出る。
青砥左衛門藤綱、訴えを聞き、とりはからう。
青砥「それ、武士というものは、泰平の世でも乱を忘れず、油断なく武芸に励み、衣服は見苦しくても、鎧兜を持っていることこそ武士といえる。しかるに、武具馬具を遊興のために売り払い、刀や槍を持つ手に三味線の細い棹をにぎり、馬にこそ達者に乗るべきなのに遊郭に行く猪牙船や四手駕篭を乗りこなし、髪の毛は兜をかぶれるようにすべきなのに頭いっぱい剃り上げて、大小の刀は箸のように細くし、いざというとき、その刀で人が切られるか。
かりにも鎌倉殿の侍が、そのありさまは不埒至極。
それ、侍ども、こやつらの大小の刀、衣類を取り上げて、追っぱらえ」
侍「承知しました」
青砥「さらに古庵は医者のくせに言語道断、医は仁術というではないか」
清都「よいきみだ。金が取れなくても、これですっとした」
景都「流行の細い歯の日和下駄のことも、おしかりになりそうなものだ」
十六

山川白左衛門、相生松之介、変手古庵は、衣類と刀を取り上げられ、鎌倉を追っ払われる。
奴「うぬらは武士にとっての戒めだ。あまりにも金々が過ぎたからだぞ」
松之介「あんまりたたくな。こんな姿も歌舞伎で見た場面だ」
古庵「身から出た錆とはいいながら、これも法外のせいだから、あそこへいって世話になりましょう」
十七

さても変手古庵、鎌倉を追い払われ、どうしようもなく、昔のよしみで法外をたずね行けば、その後、法外も世間の評判が悪くなり、誹諧を教えての生活ができなくなり、古庵とともに山伏となりて、お布施でようやくその日を送りけるが、戸塚の宿で行脚帰りの万屋に出会い、これまでの物語をする。
法外「先生、面目次第もござりませぬ。どうぞ昔のように弟子として教えてください」
万屋、驚いて言う、
「それは不埒千万。しかし少し考えがあるから、まずはおれと一緒に家までござれよ」
十八

さても万屋、法外と古庵をともなって帰る途中、日も暮れかけたので駕篭に乗ると、扇右衛門と要介は駕篭かきとなっていたので、おおいに驚き、かつ喜んで帰るおりから、戸塚の松原で追い剥ぎに出会い、顔を見れば、なんと白左衛門と松之介ゆえ、いろいろと意見して、ともに連れて帰りける。
法外「南無三宝、これは逃げるのが一番。あの追い剥ぎの姿は、中村仲蔵秀鶴が演じる定九郎のようだ」
要介「いざ、目にもの見せんと言うセリフ」
万屋は、月明かりに見た追い剥ぎの顔が、わが弟子なので驚く。
万屋「おのおのがこうなったのには、きっとわけがあることでしょう。わたくしにまかせられい」
白左衛門と松之介は、鎌倉を追い出され、しかたなく追い剥ぎとなって暮らしける。
白左衛門「これはこれは、先生ではありませんか。一時の若気の至りで鎌倉を追い出され、どうしようもなくこのありさま。面目次第もござりませぬ」
松之介「なになに、先生なのか。あぶないあぶない」
古庵「あいたたた。ひどい目にあわせおるは」
十九

万屋、行脚からもどり見れば、一番弟子の法外はじめ、もってのほかの不埒にて、みなみな流れ者となっている。これはまったくかの天狗のしわざなり。
天狗というものは、もとは人間世界におり、洒落を好み、高慢の鼻が高くなったので、鼻の長い天狗道に墜ちたので、彼らが嫌うのは、きっと賢人くさいものを嫌がるだろうと考え、四書五経のまじめな本、聖人のことが書いてある本を集めて、これを煎じ、次々飲ませれば、不思議や不思議、にわかに目がくらみ、おのおのなにやら黒ずんだものを吐き出せば、その中から影のように、以前、万屋が見た天狗の形をしたものが立ち去る。その後、みなみなもとの心にもどりける。
白左衛門「ああ、苦しい苦しい、腹が引っ越しするみたいだ」
万屋「苦しかろう苦しかろう、苦しくなければ薬の効き目がなく、病は治らぬというぞ」
松之介「どうぞ、おひとつおひとつ」
要介「みんな苦しんでいるので、飲む気がしないや」
のりうつっていた天狗、四書五経の効果か、立ち去る。
天狗「せつなやせつなや、『子曰く』という文字が頭に当たって、やけどをしました」
二十

高慢斉の門人、それぞれ身をもちくずしていたけれども、万屋の才覚によって、たちまち本心に立ち返り、この話が最明寺殿北条時頼公の耳に入り、万屋を誹諧の宗匠におおせつけられ、めでたく栄え暮らしける。
めでたしめでたし
本作品は、誹諧、茶の湯、生け花などを茶化して風刺している。江戸時代には、それほどまでに誹諧、茶の湯、生け花などが一般化していた。貴族の遊びであった蹴鞠ですら町人が遊んでいた。
蔦屋重三郎なども参加していた狂歌の会もあった。
文芸以外では、ウグイスやスズムシの飼育、キクやアサガオの栽培も盛んだった。キクやアサガオは多くの品種改良がなされ、今では見ることのできない品種も多くあるほど盛んだった。
江戸の人々は、現代の我々以上に多彩な趣味を持っていたのだ。
誹諧については、松尾芭蕉が蕉風と呼ばれる今の俳句のような形にした。「俳句」という言葉は明治時代から使われるようになったが、ここではわかりやすいように誹諧と俳句という言葉をごっちゃに使っている。
現代語訳は意訳であり、学問的ではなく、あくまでも江戸文芸の紹介となっている。
興味のある人は原本にあたり、本格的に学んでほしい。
狂歌についてはこちらも、
上記の趣味は、町人だけでなく武士も参加していた。
それに対して庶民が中心となって参加していたのが川柳だ。
川柳についてはこちら、
この後半部分に、今まで紹介した川柳をすべて載せている。
