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当世大通仏買帳①~仏様だって遊郭に行く江戸時代のマンガ絵本

 外国からモナリザやゴッホの有名な作品などがやってくると、めったに見られないものが見られると、展覧会は大入り満員となる。
 江戸時代にも、普段は見られない美術品が見られるとなると、人々の興味をひく。それがお寺の開帳かいちょうというもので、いつもは見せない仏像を展示したりする。拝観料はいかんりょうはとるものの、美術品というよりも、宗教的信仰の対象物となるので、さらに興味関心が出てくる。
 まあ、宗教といっても、欧米の宗教とはちがって、日本の宗教は、仏教も神道もごちゃまぜになって、なんでもありの宗教だが、お寺に行っても神社に行っても、それぞれに本当の信仰心を持って手をあわせるのが日本人だ。一つの神しか信じない西欧人とは違う。八百万やおよろずの神の信仰が古くから日本にはある。

 開帳があると、話題になっていただろう。「開帳かいちょう」のダジャレで「買帳かいちょう」とタイトルにあるが、買帳は、商売の収支決算書のことをいう。開帳は、やはりもうかったのだろう。
 ここでの大通だいつうの仏は、地蔵菩薩じぞうぼさつ蛸薬師たこやくし寝釈迦ねしゃかをさす。

 黄表紙当世とうせい大通仏だいつうぶつ買帳かいちょう」は、芝全交しばぜんこう(1750~1793)作、北尾重政しげまさ(1739~1820)画(重政しげまさの記名はないがそうだろうといわれる)、天明元年1781年、鶴屋つるや喜右衛門きえもん刊の三巻三冊。
 その現代語訳(かなりの意訳)を三回に分けて紹介する。

 


上巻

 信州しんしゅう刈萱かるかや西光寺さいこうじ親子地蔵は、江戸の目黒不動で開帳かいちょうをされたまうが、世話役を集めて相談したまう。
地蔵尊じぞうそん「いかにみなさん、なんと思われる。それがし、つらつら世間を見るに、今の世の中は、仏道ぶつどううすくなり、逆に色道しきどうもっぱらになり、みなみな色事いろごと浮世うきよなり。これではおれも、かたっ苦しい仏道では困るから、色道しきどう修行しゅぎょうをして、多くの人を色道に引き入れ、色道しきどう能化のうげ地蔵菩薩じぞうぼさつとなろうと思うが、いかにいかに」
男「そういういきなセリフは、いき意気いきで生き地蔵ならぬいき地蔵様でござります」
地蔵尊「これから、坊主が医者姿になって遊郭ゆうかくに行くように、おれも医者にけて、黒縮緬ちりめん羽織はおり細身ほそみかたなで品川の遊郭に行くのはどうだろう。しかし、医者に化けたら、大磯おおいそけ地蔵だといわれそうだ」
 
 当時の医者は坊主のように頭を丸めていた。坊主は女犯の罪があるので女性には接することができない(というたてまえ)。(浄土真宗だけは妻帯を認めていた)だから、坊主が遊郭に行くときは、医者に化けていた。

 


 地蔵菩薩じぞうぼさつは、地獄じごく極楽ごくらくへのわかれ道、六道ろくどうの道に立つが、とかく今は、あっさりとするのがいきで、倹約けんやくするのが流行はやりと考え、六本の道を四本にらし、目黒と品川との分かれ道に立ちたまい、あまたの人を色道に引き入れ、品川の遊郭ゆうかくへやりたまう。
 
地蔵尊「これこれ息子、そのまま帰るのはつまらないぞ。この道をまっすぐに品川へ行きたまえ行きたまえ。おれも後から行くぞ」
息子「さようならば、親をごまかすのはうまくおたのみもうします。これから駕篭かごでずいっと行きましょう」

 このときの地蔵の経文きょうもんは、画面左のごとし。

 


 地蔵菩薩じぞうぼさつは、一日中、品川へ行く道の田んぼの横に立って、日もれてさびしくなれば、おれも品川へ行こうと思えども、連れもなく、どうしようかと思っていると、目黒不動尊の使いのいぬ雉子宮きじみや宝等寺ほうとうじ雉子きじと、雉子のいる猿町のさるがやって来て、
地蔵菩薩じぞうぼさつの腰のものは何でござる」
と聞くので、
「江戸一番の目黒の粟餅あわもち
とおおせられれば、
「一つください。品川へおともいたそう」
と、猿、雉子、犬、お供する。
 
猿「これから品川のさめが島へおいでなされて、宝物をお取りなされませ」
地蔵尊「おれは桃太郎ではないぞ。まあ、もちを一つ食いねえ食いねえ」

 


 地蔵菩薩じぞうぼさつは、意気いきな医者という身に変身し、さるいぬ雉子きじの三枚肩の駕篭かご(三人で交代にかつぐ急ぎの駕篭かご)で品川へ向かう。

 


 地蔵菩薩じぞうぼさつは、品川の松若屋まつわかやへあがって、松若という女郎に決めて遊んでいると、蛸薬師たこやくし寝釈迦ねじゃかが追っかけて遊びに来たまう。
 
寝釈迦「これは和尚おしょうどうだ。おれをさそえばいいのに、おれが寝ていたところを薬師やくしが起こして、無理矢理むりやり引きずられた」
地蔵尊「さあさあ、手前てまえらもころもを取れ取れ。おれのように洒落しゃれた身になりやれ。
薬師坊やくしぼう、そのつぼはよせよせ。お菓子売りの入れ物のようだ」
松若「さあさあ、新造しんぞうでも呼ぼうか。もし、だれぞ、寝釈迦ねじゃかさんと薬師やくしさんの相手を連れて来やんしょう」
禿かむろ「おやおや」
 
 蛸薬師たこやくしは、目黒不動尊めぐろふどうそん仁王門におうもん近くの天台宗成就院じょうじゅいん境内けいだいにある薬師堂にまつられている蛸薬師たこやくし如来にょらい慈覚大師じかくだいしの作と伝えられる。病気の平癒へいゆを願ってお参りする者は、タコをって祈願きがんする。絵馬にはタコの絵を描けば利益りやくがあるといわれた。当時は薬師やくし信仰しんこうが盛んで、人々が多く参詣さんけいしていた。
 
 寝釈迦ねじゃかは、目黒不動尊の近くにある臥龍山がりょうざん安養院あんよういん寝釈迦堂ねじゃかどうに安置される涅槃釈迦像ねはんしゃかぞう空誉上人くうよしょうにん作と伝えられる。

 


 ほとけたちは床入とこいりをして、みなみな、すっかりもてもてになりたまうぞありがたき。
 蛸薬師たこやくしは様子を見にやって来る。
寝釈迦ねじゃか「どうだ。もう寝釈迦ねじゃかにするか。よく寝たがるやつさ」
女郎「もし、薬師やくしさん、一服いっぷくおあがりなんし。そんなに廊下を歩いてばかりいたら足にタコができましょうに。
寝釈迦ねじゃかさんは、明日もいらっしゃいますか」
寝釈迦「江戸で流行はやりの卓袱しっぽく料理でも食おうか。しかし、タコはやめておこう。タコを食べたらイボができそうだ」
 
松若「もしえ、おまえはどこにお住まいでありんすえ」
地蔵尊「おれは今度、信濃しなのから開帳かいちょうで来た。信濃と言えば大飯おおめし食らいと思うだろうが、おれは飯は金椀かなわんに一杯、盛り切りを食っているよ。その代わり、塩が好きで、毎朝盛り塩をなめている」
松若「ぬしは本当に仏のようだ。かたくるしいその後光ごこうをとって寝なんし」
地蔵尊「となりは寝釈迦ねじゃかでしっぽりやっているようだ」

 


 刈萱かるかや石堂丸せきどうまる息子地蔵は、雉子きじの宮の大師だいしの店を借りていたまう。弘法大師こうぼうだいし大家おおやなので、弘法大師を高野山こうやさんならぬ大家さんとあがめたてまつる。真言密教しんごんみっきょうを仕事とし、もめごとを安い費用で解決する。
 息子地蔵は、親地蔵の長々の居続いつづけに迎えに行こうと、弘法大師を頼みたまう。
 
石堂丸「親父おやじ居続いつづけに困っております。親だけに、おや、どうしようと言うばかりです」
弘法「仕方ないなあ。わしが迎えに行きましょう」

 


弘法大師こうぼうだいしまで出てきて、どうなることやら、次回に続く、

 


黄表紙の始まりといわれる恋川春町こいかわはるまちの「金々先生栄花夢きんきんせんせいえいがのゆめ」(1775年)の現代語訳は、こちら、

黄表紙の代表作、山東京伝さんとうきょうでんの「江戸生艶気樺焼えどうまれうわきのかばやき」(1785年)の現代語訳は、こちら、

これらの中に、他の黄表紙の紹介もあるので見てほしい。
 

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