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フィリピンで調理クラス立ち上げ

マアヨン・ハポン(こんにちは!)

フィリピンのセブ島で海外青年協力隊として
特別支援センターに派遣されているカネチです。

訪問していただき、ありがとうございます。


卵一個から全国へ:調理クラスの挑戦記

ここが全国大会の会場!応援に行きたかった!

「コンテスト会場に着いたよ!」

今朝、同僚から送られてきた一枚の写真。

フィリピン・パナイ島で行われているベーカリーコンテストの全国大会。

本来ならその場にいるはずだった。けれど私はセブ島の自宅にいた。

ボランティアという立場では安全面への配慮から全国大会への同行が認められなかったからだ。

ふと一年半前のことを思い出す。

予算がなくて、どうしようかと
途方にくれていた。

「卵一個から何が作れるだろうか」

それが最初の問いだった。

クラスを立ち上げた時には、まさか生徒が現在の全国大会進出するとは想像も出来なかった。

振り返ると、今まで日本では起こらないような問題が本当に数え切れないほどあった。

2024年10月に派遣されてから1年半。

途上国で調理クラスの立ち上げを経験したことで、調整力や困難な環境でも考え、やり抜く実行力が身についたと感じている。


第一章 調理クラスの立ち上げ(2024年10月~12月)

調理クラス。この部屋はなんと同僚の手作り。

赴任当初は「調理クラスはすでに始まっています」と聞いていたのに、実際はパンケーキを一度作っただけ。

しかも代表生徒や同僚の先生が作り、他の生徒は見ていただけという状況。

そこで同僚と相談し、週3回午前中に調理クラスを立ち上げることに。

しかし環境は劣悪。
床は汚れ、毛虫が歩き、蜘蛛の巣が張り、テーブルには絵の具がこびりついている。クーラーもないので日中は蒸し暑い。

「本当にこんな環境でやるの?」

「調理室のテーブルと椅子、美術のクラスと
兼用なの?マジか・・・」

「天井から毛虫、頭にふってきたらイヤやな。
大丈夫なんか・・・」

と感じたことを今でも覚えている。

日本基準なら完全にアウト。保護者や同僚と掃除・消毒をして、なんとかスタート。

最初は手洗いや服装指導からはじめました。
(調理前に手を洗うという概念がなかった)

それに材料費も予算ゼロ。
保護者に卵一個を生徒に持たせてもらい、スクランブルエッグから開始。卵を忘れた生徒は参加できないこともあり、胸が痛んだ。
(可哀そうすぎる)

しかも卵を割れる生徒は10人中わずか1~2人。火の扱いも危険で、火をつけっぱなしにする生徒も多数。
(火事一歩手前であせる)

安全を最優先にスモールステップのレシピを作り直し生徒と実技の前に確認し、また火を扱っている間は生徒から目を離さないようにした。

それから試行錯誤を重ね、卵料理やバナナを使った低コストレシピを展開。バナナ農園からの寄付もあり、バナナトロンやバナナケーキが人気に。

さらに
「バナナ×あんこのトロン」「モリンガお好み焼き風パンケーキ」「抹茶バナナケーキ」「わらび餅」が校内でヒット商品となり、生徒の目が輝きだす。

「ティーチャー、売れたよ!」と笑顔で報告してくれる姿に、活動の意味を実感。

あんことバナナの春巻き、校内でよく売れた。商品が売れて喜んでいる生徒を見ると私も嬉しい。
誰かの役に立つって、やっぱり心が喜ぶね。
材料クイズ:学びが遊びにかわる瞬間

授業では言語の壁にぶつかる。
生徒には英語がほぼ通じない。

現地語通訳を同僚に頼み、ジェスチャー、写真・動画を駆使して授業を進めた。

上の写真は授業の一コマ。

先生役の子が
「asin アシン」 -『salt』-(塩)
「Arina アリナ」 ー『flour』-(小麦粉)
「calamansi カラマンシー」ー(小さいレモンみたいな果物)

のいずれかを言って、もう片方の子がタッチするゲーム。クイズを通じてビサヤ語と英語で材料名をみんなで覚えた。

第二章 試行錯誤と孤独(2025年1月~3月)

調理クラスが少しずつ形になってきた頃、次のステップとして「野菜の皮むき」に挑戦。

バナナ、にんにく、玉ねぎは手でむけるので安全で良かったものの、人参のピーラー練習では細すぎる人参が続出。

ある日、スライサーで指を切った生徒がでた。一瞬で血があふれて教室の空気がとまった。

その子は何が起きたのか分からないまま立ち尽くし、周りの生徒がざわつきはじめる。私は慌てて応急処置をしながら「大丈夫」と言った。

生徒を安心させるため平静を装っていたが、内心はケガをさせてしまったことにパニック。

幸いケガは大したことはなかったが、この一件から安全面の重要性を痛感し、包丁、スライサーやピーラーを使う料理は断念。

学校には給食制度がなかったので、ゆくゆくは校内でお弁当屋さんをすればいいではと夢を描いていたが、野菜を扱えないとメニューの幅も限られてしまうことや生徒の安全を考慮し方向転換を決意。

以降は刃物を使わないですむお菓子やパン作り中心に切り替えた。

しかし、別の壁が立ちはだかる。毎日レシピを考え、材料を準備し、授業を回す日々。

そうして必死に頑張っていたら、同僚が「この人なら一人でできる」と思ったのか、授業中にパソコンで事務作業をしだし、生徒のサポートをしてくれないことが徐々に増えた。

さらに追い打ちをかけるように、その同僚は病休をへてアメリカの学校へ行くことに。

信頼していた仲間を失い、活動のモチベーションは急落。

残された教室で私は、はじめて「日本に帰りたい」と思った。自分の存在意義がゆらいだ。

この経験から同僚には
忙しそうだからといって遠慮せずに
「自分一人で頑張りすぎない」
「困っていることは察してもらおうとせず
はっきり言葉にして伝える」と決意。

困難を一人で抱え込むのではなく、
周囲に伝え、協力を得ることの大切さを
実感。

協力隊の目的は、自分がいなくなった後も「現地が自走できる仕組みを作ること」

同僚不在の期間はとくに生徒の中でリーダーを育てることに力を注ぐようになった。

「こうするんだよ」と中心的な生徒が仲間に教える姿を見たとき、ようやく持続可能な活動の方向性が見えてきた。

この学びを活かし、次の同僚とはチームで動くことをより意識していこうと心新たにした。


第三章 新しい同僚と再スタート(2025年7月~12月)

そして長期休暇あけ、やっと就労クラスの担当に新しい先生がつきクラスはまた動き始めた。

彼女は年齢も近く、情熱を持っていて「授業を良くしていこう」という意欲が感じられる人。

調理や工芸クラスが軌道にのり、自分たちで資金を多少稼げるようになり、それを元手に新たな授業が作れたり、出来ることの幅が増えたのがこの時期だった。

彼女は調理に必要な英単語を生徒に教えたり、
授業内容をテストに反映してくれたりと、教育的な連携を強めてくれた。

授業はつながり、活動は広がり、生徒は少しずつ自分たちにできることを増やしていった。

数字が苦手でも、料理を通じて少しずつ
理解できるようになったね

さらに「数学との連携」に挑戦。

計量を通じて数の概念が定着していないことに気づいた。100まで数えられない生徒が多数。

四則計算の基礎がないため、計量ができる生徒はわずか2名。

そこで、調理や販売を通じて数の概念を育てる授業を試みた。

料理は生活に直結しているため、学びの動機づけにもなったように思う。

任地の近くの学校や道路、
地元の方が30名ほどがなくなった。

しかし、自然災害が活動を直撃。

2025年10月、台風と地震で調理室は雨漏り、屋根ははがれ、床は湿り、学校は2か月休校。屋根もボロボロ。調理室は断水。継続は難しいと諦めた。

けれども、そんな状況も落ちついた年明け
突然舞い込んできたのがベーカリーコンテスト。

第四章 無茶ぶりベーカリーコンテスト(2026年1月~現在)

年明けにでた要項
コンテストは3人のチーム戦

突然舞い込んだコンテスト。

要項は遅れ、材料費不足、練習は6〜9回ほど
(支援の必要な生徒にこの回数は中々厳しい)

準備期間は短く、設備も十分ではなかった。

こんな日程と適当な要項で他の学校は
準備できるのか?と疑問に思っていたよ。
セブ地区の時の大会
優勝しました!

結果はセブ地区優勝。リージョナルを勝ち上がり、ナショナルリーグ進出。

数値やコンテストだけが成果ではないと分かっているが、担当クラスから全国大会に進んだ生徒が出たことは大きな喜び。

生徒が大会に参加するチャンスを掴むのに貢献できたことが、心から嬉しかった。

終章 これから

地方コンテストで優勝した時。
地方大会からは一般生徒と組んで参加と
形式が変わった。

ナショナルリーグ進出という結果は、数値やコンテスト以上の意味を持った。出場していない子達に対してもいつか自分も、と希望の種になる。

困難だらけの環境で「卵一個から始まった挑戦」が全国へつながった経験は、私自身の力を鍛え、未来へ進む原動力となった。

言語の壁や予算の壁、資源のない中でも
工夫して考え続けて活動を止めないこと

コツコツと続けていればいいことがあったし、
またチャンスは何処からやってくるか
本当に分からない。

今回は周りからの協力ももちろん、
運も味方した。

1人では出来ないことがチームなら
達成できる。

残りの期間もここでの一つ一つの体験を
大切に活動していこう。

きっと任期終了まであっという間なのだろうな。


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