『銀河ヒッチハイク・ガイド』と『惑星ソラリス』で挑戦する「分からないの向こう側」
映画を観れば、その不安の輪郭だけでもつかめるのでは?
ってことで、ここ2ヶ月ほどは「移民反対の背後にあるパラノイア」シリーズを書き連ねております。
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先日、我が家の小学生児童がフロ入りながらこんな事を言うんですね。
「死とはなんだ。生きるとは、ここに居るとはなんだ。宇宙とは。私には何も分からない」
親としてちょっとはマシなことを答えたいとは思うのですが、なにせ僕も何も分かりません。
ともすれば当たり前と思いがちで、実感を忘れがちな生きるってことに対して、死ぬことは絶対確かだとは思いつつも、じゃあ眠るのと何が違うのか、死ぬとどうなるのか、基本的なとこから全然分からない。
立花隆先生の『臨死体験』も読んだんですよ。でもやっぱり分からない。
宇宙的な時間軸や位置において、今、この風呂が存在する明確な座標も知らない。分からない。
「お父ちゃん、ここがどこかも分からないんだ。なにも分からないままフロに入ってるんだよ。」
「そうかあ…」なんつって二人で風呂場で途方に暮れましたよね。
今回はですね、この「途方に暮れる」ってテーマで映画を観ていこうと思うんです。
自分の理解をはるかに超えた「分からんもの」を目の前にして、永久に続く砂漠の向こうにすべての途方が溶けて消えて呆然とするばかり。
そのような、道に暮れ果てた人たちの映画を観ることでパラノイア訓練をしていこうというわけです。
前回まで書いてきたように、途方に暮れた人の暗い心にかりそめの光を当てて幻惑してくるのがパラノイアですから。
ここに注意して生きていくためにはうってつけの2作です。
『銀河ヒッチハイク・ガイド』
『惑星ソラリス』(1972)
究極の答えにたどりつく究極の疑問とは
今回の2作、どちらも名作ベストセラー小説が原作ですね。
『銀河ヒッチハイク・ガイド』はイギリスの作家、ダグラス・アダムスの人気SFシリーズ小説の映画化です。
主人公の英国人、アーサーの自宅が行政のバイパス工事によって破壊される、まさにその時にあらわれたのがヴォゴン人の宇宙建設船団。
太陽系をとおる銀河超空間バイパス工事の邪魔なので地球を消します
アーサーの家どころか地球まるごとが一瞬で消滅。
彼は宇宙空間に投げ出され、広大な宇宙を放浪する羽目に陥ります。
これだけでも途方に暮れるってもんですが、たまたま自分を拾ってくれた銀河系大統領による宇宙探査の目指す先がまた果てしない。
「生命、宇宙、そして万物についての究極の答え」を750万年もかけて計算したスーパーコンピュータ”ディープ・ソート”の導き出した回答が「42」だったんだが、なんで42なのか、どういう意味なのかまったく分かんない。
分かんないのでこの「42」を導き出すための「究極の問い」ってものを今度は探しているのだ、という。

ややこしい。
つまり「究極の疑問に対する究極の答えにたどりつく究極の疑問」を探してるってことです。ぐるぐる回ってます?
「地球」は、ディープ・ソートが「究極の疑問」を導き出すために作り出したスーパーコンピュータだったとか。計算終了5分前にヴォゴン人が消滅させちゃったとか。「地球」の発注者はネズミだったとか。人間はネズミが作ったプログラムの一部だとか。実は「地球Mk-Ⅱ」があるとか。。。
衝撃の事実と、解決できない疑問が次々と明らかになっていきます。
正常とは?
故郷とは?
生命の意味とは?
牛とは?
解決できない難問に囲まれた主人公、アーサーが見出した解決策は「愛」です。
共に宇宙探査を続けてきた女性乗組員、トリリアンへの想いに自分の存在理由を求めます。
究極の問いを探したが、意味などなかった
答えのない疑問ばかり
幸せでもない
でも彼女は僕の本命だ
それは確かだ
完全にイエスだ
海に浮かぶ4mの赤ん坊
「分からないもの」に途方に暮れた時、「愛」は解決としてアリでしょうか。
どうですかね。
なにが「愛」だよ。
バカかよ。
問題から目を逸らしてるだけじゃねえか。
って人もいるでしょう。
一方で、「分からないこと」はもう「分からない」でいいじゃない。生きてるならそれでいいじゃない。幸せならいいじゃない。って考え方もあります。それはそれで一つの答えですよね。
疑問を持つだけ苦しいよって人もいるだろうし「どんだけ知識を得たってどうせ死ぬんだ。なんの意味もないね」なんつってシニカル渓谷に迷い込んで出られなくなって缶詰を歯で開けるような暮らしをしてる人もいるでしょう。
ポーランドの作家、スタニスワフ・レムが1960年に書き上げた小説「ソラリス」は、「愛」という解決のその先へと挑戦するような SF大作です。
映画化は計2回。
旧ソ連の監督アンドレイ・タルコフスキーによるものと、2002年のスティーヴン・ソダーバーグ版。
今回は傑作との誉れも高い、1972年のタルコフスキー版を取り上げてみます。
ネバネバの液体で出来た海に覆われる謎の星ソラリス。この星をまぁ長年にわたって人類は研究をし続けてきたわけですね。
どうもこのネバネバは細胞のようであり、「海」は思考能力のようなものを持っているらしい。
しかしそれ以上はまったく解明されず、研究はやや行き詰まり気味。
不気味な事件も起きます。
ソラリス上空で行方不明になった研究者を捜索していたパイロットが、「海」の上に「赤ん坊」を見たというのです。
始めは分かりませんでしたが、その異様な大きさに気づいたのです。
4mほどはあったでしょう。
赤ん坊は生まれたてのように丸裸でした。
波に乗って上下に揺れながら動いていました。
主人公のクリスに課せられたのは、ソラリスの静止軌道に浮かぶ宇宙ステーションに赴き、何だかややこしくなってきたソラリス研究をこれ以上続けるべきかどうかジャッジせよ、という任務。
彼がステーションに到着するとそこは廃墟のようになってます。
85人乗りの居住空間に、わずか3人の研究者。
1名は自殺、残りの2名も着衣はシミだらけのボロボロで疲れ切った様子。
そしてガランとしたステーション内には、自分たち以外の何者かの足音、呼吸、衣ずれ、気配が。
突然、クリスの部屋に女が出現します。
それは10年前、激しい意見の衝突の末に命を絶ってしまった妻、ハリーでした。
宇宙人だって苦悩するのよ
どうもソラリスの「海」には、こちらの思考を読み取って実体化してしまうって能力があるんですね。
自分の体(?)を粘土みたいにちぎっては人形を作ってしまう。
しかも厄介なことに、その人形はれっきとした生命体であり、記憶や思考、自我も宿っている。なんなら「人間」といってもいいような生物なわけです。
何が目的?何のため?
「海」がつくる複製人間は追っ払っても焼き殺しても、次から次へと舞い戻る。ソラリス・ステーションに残っている研究者たちはみな複製人間の存在に錯乱しており、1名の自殺の理由もそこにあります。パイロットが見た4mの赤ん坊も「海」によるものでしょう。
クリスも死に別れた妻ハリーの「復活」に混乱。
しかしこのお話の怖いところはまた別にあります。
なんとハリーもまた混乱しているのです。
私 自分がわからない
彼女は死んだの、毒を飲んで
私は全く別の人間
クリス、愛してるわ
地球征服とか超空間バイパス工事とか、宇宙人側になんらか目的があるならまだスッキリするんだけど、苦悩しちゃってるわけです。
「ハリーだけどハリーじゃない自分」に宇宙人側も混乱して、困り果ててるわけです。そら地球人だって途方に暮れますわね。
いくら追い払っても戻って来るハリーに、徐々にクリスは心を通わせるようになります。
10年前の悲劇の罪を贖おうとし、同時に目の前の彼女が別の生き物だってことも知っている。そんな混沌状態にどうにか解決法を見出そうとします。
君が現れた理由は知らないが、科学的真実より僕には君が一番大切なんだ
僕は地球には還らない
ここで一緒に暮らそう
ハリーは涙を流します。
妻としてクリスを愛しているが、自分は妻じゃない。人間ですらない。
成立しないアイデンティティに彼女は引き裂かれます。
混乱し、液体酸素を飲んで自殺します。
そしてすぐに蘇生します。
なぜ…どうして…
ハリーじゃない
いいえ
私じゃない
あなたは…あなたも?
やがてハリーは、クリスの前から姿を消します。
「分からない」の向こう側
『惑星ソラリス』のテーマを一言であらわすなら「理解不能な事象をどう引き受けるか?」ってことになりましょうか。
さっぱり分からないものを受け止めて、その先なにをなすべきか?
宇宙人相手だとなんか壮大になっちゃいますけどね、けっこう身近な話でもあるよなと思います。
だって隣にいる誰かだって何考えてるのか分かんないでしょ?
いやコミュニケーションはとれますけどね、ソラリスの原形質状の「海」と比べたらね。けど、どんだけ仲の良い人間との付き合いだって、「恐らくこう思っているだろう」より先には進めないですよね。
脳を含めたすべての感覚器を他人と共有できるなら別かもしれませんが、現状、自分以外の人間の思考については「類推」するしか方法がない。
類推より先にはどうしても行けない。
そういった意味では、他人はすべて宇宙的不可解です。
パートナーでも、親兄弟でも、息子でも娘でも親友でも。
トランプがなんでイランを攻撃したのかと同じくくらい、なに考えてるのか分からない。
ソラリスの「海」と同じくらい。
究極の答えがなんで「42」なのかと同じくらい。
分からない。
なんなの?
ああ、ほんと分からない。
映画のラスト、クリスは「海」の上に生まれた島に降り立ちます。
そこには美しく暖かな故郷の風景と、懐かしい我が家が見えます。家族もいます。ハリーもきっといるでしょう。おそらくはクリスの記憶から作られた複製の故郷です。
クリスは涙を流して家族と抱き合います。
やがて島は、たちこめる霧に隠れて見えなくなっていきます。

レンブラント『放蕩息子の帰還』
「分からない」を前にして、考えるのをやめたようにも思えます。例えかりそめだったとしても、「幸せっぽく」みえるものに浸っていたい。
ソラリスの海に呑み込まれるとしても。
そんな終わり方に思えます。
原作者のレムはこの結末にかなりの不満があったようで、監督のタルコフスキーとは三週間にもおよぶ大変な口論になったとか。
最後には「あんたはバカだよ!」ってロシア語でタルコフスキーに言い捨ててやったぜっていうのは有名なエピソード。
じゃあレムによる原作版の最後はどんなかというと、こんな言葉で締めくくられています。
彼女が戻って来ることを望んで? いや、私に望みはなかった。それでも、残酷な奇跡の時代が過ぎ去ったわけではないという信念を、私は揺るぎなく持ち続けていたのだ。
「ハリーは戻ってこない。だけどきっと残酷な奇跡の時代はまだ終わってないはずだ」と、こういうわけですが、「残酷な奇跡の時代」とは?一体どういう意味なんでしょう?
はっきりとした答えはないし、読んだ人それぞれの解釈があるでしょう。
ただ僕としてはですね、自分以外の誰かと向き合い続けるってことなのかな、と。こう思うのです。
それは永遠に理解不能な相手と向き合うってことですから、苦しいと思えばこれほど苦しいこともないですよね。
それでもいいからあの人に居てほしい。
居られるはず。
それは苦痛ではあるけど、同時に奇跡でもあるんだ。
ポジティブです。
楽観的なくらい前向きで、絶望的です。
そして幸せです。
そうやって人生は暮らしていくものなのかも、と思わせます。
どうですかね?
「分からないもの」にぶち当たった時の解決法としては、『銀河ヒッチハイク・ガイド』が提示した答えの、さらにその先にいってるかなって気もするんですが。
さて、パラノイアシリーズも回を重ねてきましたが、次週もう一本だけパラノイア訓練してみようかと思ってます。
とにかくきったねえ、川のヨドミの大きな石をひっくり返した裏っ側みてえな顔したボギーが楽しめる被害妄想映画の大傑作。
次回もまたどうぞ宜しくお願い致します。
〈終〉
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