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戦争中、日本の文化財はどうして守られたのか?

第二次世界大戦終結から
80年を迎えるにあたり、
戦争に関する報道が増えている。
悲惨な体験や心をえぐるエピソードは
忘れてはならない重要な記憶である。
しかし今、
もう一つ思い起こすべきことがある。
それは、日本がいかにして文化財を守り、
現在に残してきたかという事実である。

戦時中、日本でもヨーロッパ諸国と同様に、
美術品の疎開が国を挙げて行われた。

開戦前から
戦争の気配が漂っていたのであろう、
博物館関係者は真珠湾攻撃の半年前、
昭和16年にはすでに疎開準備を開始していた。
金沢文庫では
作品を守るために防空壕を掘るなど、
文化財保護のための対策が講じられていた。
だが、実際に戦争が始まると、
作品の移動は容易ではなくなった。

昭和18年末、閣議決定により
文化財の本格的な疎開が始まる。
奈良・興福寺の阿修羅像をはじめ、
全国の名だたる国宝が
地方の空襲が少ない地方の蔵へと移された。
徳川美術館も収蔵品を
長野県伊那へと移動させている。
現在、全国の美術館で展示されている
古美術品の多くは
こうした疎開の経緯を経て
守られてきたものである。

しかし昭和18年当時には、
すでにまともな梱包材は入手困難であった。
徳川美術館では、奈良で仏像の梱包に使われたという
黒く染まって清潔とは言えない薄様紙や綿すら手に入らずに
やむなく徳川家の古文書を破って、
梱包材として使用した。
何とか入手した木材で形ばかりの箱を作り
空襲警報の合間を縫って
早朝に大八車で大曽根駅まで美術品を運び、
秘密裏に貨車に載せて移動させるという
まさに命がけの作業であった。

こういった事実が広く知られていないのは、
戦後、文部技官が疎開情報を消すために
全国を駆け巡ったからである。
敗戦後、国宝が
国外に持ち出されることを防ぐため
疎開先の情報は徹底的に破棄された。
阿修羅像の疎開写真や聞き書きは
残っているものの
公式記録が少ないのはそのためである。

とはいえ、
記録がまったく存在しないわけではない。
文部技官が回ることのできなかった地方や
独自に疎開を手配した
大原美術館や徳川美術館などには
疎開記録が残されている。

戦後80年を迎え、
インバウンド客が日本の文化財を目当てに
多数来日する今だからこそ、
日本人には知っていてほしい。
今、ここに文化財を残すために、
何が行われたかを。
なぜ私たちは京都や奈良で、
博物館や美術館で
古美術品や仏像を見ることができるのかを。
作品を残すことに
命をかけた人々が存在したことを。

「美の疎開」に対して「知の疎開」=本の疎開も行われています。ご興味ある方は下記をご覧ください。


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