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読書は"時間"を変える。

昨日の「着替えることすら億劫だけど、5分読書は続けれてる。」に続き、今日も読書が続いている。

読書をしていると、時々不思議なことが起きる。
なんだか時間感覚がゆっくりと淀んで、認知活動は進んでいるはずなのに疲れず、深く言葉を燻してる感覚になる。

読み終わった後も、その余韻は後を引く。感想や、メモを残そうと、セリアで買ったボールペンが心地よく進んでいく。

本を読んでいる時間は、アインシュタインさえも予想しなかった特異相対性理論を作らない限り、理論化はできない。

1日5分だけと決めて読んでいるが電車が駅に着くまでのひとときの心地よさに心奪われている。

ふと思う。
これこそ現代人に必要な時間なのではと。


現代人は常時情報接続時代に生きている。

スマホがスマートでありすぎるがあまり、フォンの域を飛び越え、電波の先の誰かが、私たちの認知を奪おうと躍起になっている。

天才どもが多頭飼育されているのだから一般凡人ピーポーに抗えるはずもなく、家なら動画を、電車ではSNSを、仕事ではエクセルを、床屋にはラジオを、デパートにはテーマソングを、テレビにはCMを、歩いている時にはポッドキャストを、トイレでさえスキャンダルを点滴している。

その大半は寝れば忘れるクソみたいな情報でしかない。
一緒に流しておけばいいのに。

そんな一日中認知が忙しなく叫ぶ現代人に、私は、認知のバカンスに招待したい。

それが読書なのだと、私は思う。


読書はめんどくさい

読書は、本を手に入れなければならないし、そのためには図書館や本屋に行かなければならない。

やっと手に入れた本も、一枚一枚ページを横幅の二倍も腕を動かして捲らなければならず、途中でやめるならしおりかページを覚えるか折らなければならない。

そもそも、読むことそのものに精神的な負荷がある。

一回スタートボタンポチでずっと流れてくれるポッドキャストや動画、親指
だけで無限スクロールできるインスタとは大違いだ


この面倒くささがいい。

おかげで読書は、時間を固定することができる。

読書をしている間、私たちは右手に本を持ち、左手でめくらなければならない。すると当然両手は塞がり、本を読んでいる間、読書しかできなくなる。

読書での情報の認知は、点滴ではなく採取だ。

こちらが動き続かなければ、その時ストンと情報は手に入らなくなる。だから考える余白ができ、情報に深みが生まれる。
読書が対話と呼ばれる所以だ。

対話というのもより精密にいうなら、咀嚼だ。

咀嚼し、細胞を壊し、味蕾に味覚物質がちゃんと行き届くまで、よく噛みほぐす。ゆっくりと味わ合う。

読書は噛みほぐす余白がある。
その余白は、情報を採取しているから作れる。



SNSだとそうは行かない。

食事で例えるなら、早食いわんこそばだ。

誰かのすでに解釈した完成品を、全部飲み込む。

中には味わいたいポッドキャストや動画、文章もあるのだが、やはりで味合わせてくれない。1秒ごとに次の情報がやってくる。

わんこそばは、腹が辛くなってくればふたを閉じれば終われるが、SNSどうにも中毒的な旨みがあるために、満腹中枢をマヒさせてくる。

なんと、わんこそばの「そば」は、いつの間にかソースがブッ濃い焼きそば「U.F.O」に入れ替わっていたようだ。

SNSは、わんこU.F.Oだった。

もっというと自分でそばは書き込まない。

口内直行流しわんこU.F.Oだ。



わんこU.F.Oは確かにうまい

だが、私はどうにも疲れてしまう。
その割に栄養がない。
だがうまい。

うまいよね。

ハイカロリーは正義と昔のお偉いさんは言ったそうだ。

ハイカロリーな情報は疲れる。
これもまた昔のお偉いさんが言った気がする。

認知が忙しいったらありゃしない。

疲れ果てた今、読書のくれる濃いのに優しい時間に惚れている。


だからわたしは、無理やり時間を固定し、ゆったりしているのに、深くて豊かな認知の時間をくれる読書がたまらなく好きなのだ。




最後まで読んでいただきありがとうございました。
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