自由研究のように生きる。
自由研究を生活に入れる。
今の私の目標です。
もっというと「自由研究のように生きる」。
生き方の宣言とも言えます。
今日はこれについてサクッと書いていきます。
まず、何でこんなこと言い始めたのか、というと色々理由はあるんですが、
イッチバン大きいのは
「探究を日常にしたいなぁ」と思い至ったこと。
思い返してみると、私は勉強を学校以外でしたことがここ数年ありません。
勉強を学校以外でしたことがない
というのは時間的な話ではなく、目的の話です。
学校のテストでいい点を取るために、
宿題や課題を終わらせ、提出物を完成させるために。
こうした目的が学校で占領されている。
大学を卒業してからぱったり勉強しなくなった…
なんて話はザラですが、私も不登校になったことによって勉強することがぱったりなくなりました。
でも、ここで少し引っかかったんです。
なんで学校以外で勉強しないんだろう。
勉強が学校依存になってしまっていること
が本当に違和感で、何とも言い表したがたい違和感。
でもって、それは悪寒のような不快感。
だって普通に考えて、学ぶことってのは生涯を通しての営みだ。
学びは誰かから情報を得るだけじゃない。
生きている中での経験を成長だと気づき、言語化するのも学びだ。
哲学者や科学者を見ていると、死ぬ直前まで研究して、学んで何かを残すなんてザラ。
勉強することは元来楽しいはずなのに、私たちはテスト終わったら「解放された〜」なんて言ってる。おかしい。何かがおかしい。
私たちは学ぶこと=生きることぐらい密接だったはずだ。
そうして私たちは教訓として成長のショートカットを誰かに伝え、科学としてこれまで反映してきた。つまりは学習とは人間の営みそのものだと言い換えてもいい。
思い返せば、私は恐竜が好きだった。
始めた買ってもらった図鑑は恐竜図鑑だ。恐竜のあのフォルムと、個性が溢れる生態。この世に存在したはずなのに、信じきれないロマン。小学生になる前にも関わらず、とんでもなく好きだったな。
思い返せば、私は科学が好きだった。
学校の化学の本を読み漁り、実験教室に行き、意味もわからず元素周期表を覚えていった。毎日図鑑を読み込み、新しい化学反応を見つけては喜んでいた。
思い返せば、私は鉱石が好きだった。
石が大好きで、石を集めて周り、グランドの砂つぶからなんの岩石を砕いたものか考察していた。水晶が拾えると噂の洞窟に行き、翡翠を探して海岸を歩いた。鍾乳洞ではテンションが上がり、玄武洞は楽しくてしかたなかった。
思い返せば、私は実験が好きだった。
自分から出てきた疑問から、仮説を立て、実験し、結果を見る。その活動がとんでもなく楽しかった。小学校の時、勝手に昼休みにペットボトルロケっておをぶっ飛ばしてた。学校のフェンスを越えかけた時には「クソ….越えなかったか」と悔しがった。
誰でも子供の頃があったから
わかると思うんだけど、
やっぱり人間は生まれながら好奇心がある。そのおかげでこれほどまでに学問が進んできたんだと思う。
学ぶことは誰かに強制されたわけでもない。
そして、学んでいるときは楽しかった。
自分が学びたいと思ったことを学んでいたから。
日々の小さな疑問や好奇心から、あらゆる事象について学ぶ。
つまり、小さな頃は誰しも研究者だ。
ただ、今の学校はそのままではいさせてくれない。
学校のテストという一つの軸で評価をし、
テストの点数がいいこと=良いこととし、テストの点数になるための行動をさせてもらえない。
前に、落書きしてたら怒られて、なんでって聞いたら「勉強しなくなってテストに点数が下がるから」って返ってきた。
こういった経験は誰しも一度はあると思う。
落書きという行動が
テストという評価に繋がらないから怒られる。
先生の話聞いてないから怒られるんじゃない?
なんて言われるかもだけど、前から見たら勉強して必死に板書してても落書きしてても態度は変わらないから、それは先生の自己満だ。
それに対して休み時間も自習してたら「いい子」になる。
そうやってテストの点数を取ること、
つまり、誰かにやらされる勉強をすることをいい事とし、そうでなければ何かが足りない、劣っていると捉えられる。
そんな環境に毎日6時間×12年間い続けたら、そういう考え方しかできなくなるのも無理はない。し、自分の好きや興味関心を保ち、好奇心という人間の本能的な欲求を保つことさえ難しい。
そうやっていつの間にか学ぶこと=テストの点数を取るため、高い評価を得るための手段になる。
これだと勉強は楽しくないどころか、嫌なことになってしまう。
そして、学校を出てしまえば、テストの点数なんてなくなるのだからぱったりと学ぶことをやめてしまうだろう。ただ評価という点は先生から上司へと変わるので、学ぶことをやめる代わりに働くことになる。
そうして今度は馬車馬のように働くしかできなくなる。
この末がいわゆる社畜であり、時間をうることでお金を稼いでいるといっても過言ではない状態だ。
マルクスは「生産手段を持たない人間は自分の時間を売るしかない」的なことをいった。学校に行き続けた結末がこれだなんて信じたくもない。
私はこの問題に対する解決策を、自由研究を生活に取り入れることだと思っている。
自由研究を日常的に取り入れる。
毎日が研究。
そういった自発的な自由研究、内発的動機に基づく目標へむかう探求といっているのだが、これができていれば、自分の好きと好奇心は失わないでいられるだろう。また、これがマルクスのいう生産手段にもつながっていく。
そして、内発的動機に基づく目標のための手段を学ぶことには、私たちは主体的でいられる。
嫌いな奴の話は総じてつまらないが、友達になりたい人との話はなんでも面白いのは、おそらくこれで話を聞くということでも、「友達になりたい!」という内発的な動機があるから面白く聴こえる。
素人が言ってても「はぁ?」ってなるようなことも、専門家が言えば「なるほど!」ってなる現象の応用だ。
また時折、何かの目標への手段でしかなかった学習をしているときは、目標へ向かっている道中なわけなので、とんでもなく楽しい。だから、主体的かつ好奇心があり楽しめるため、学ぶこと自体を面白いと思える。そうすると学ぶことのそのものが目的になる。
そして、学んだことは自分の力になり、自由に生きるために役立つ。マルクスのいう生産手段になって自分を支える。この状態であれば、どれだけ仕事をしようとも、私は私を失わないだろう。
私は好奇心を保つために。
学ぶことを自分主体にして、自分の中からワクワクやドキドキが湧き出して学びたくて学びたくてかないくらいのテーマがいくつもできて、学ぶことが楽しくあれたら、それは研究者だと言えるのではないだろうか。
学ぶことは学校の専売特許ではない。
学ぶ権利を取り戻し、
学びたいという意志を取り戻し、
学びを使って生きれるようになる。
元来私たちの感情のように溢れ出すものだ。
そうして自分の好奇心から行動できるようになれたらば、
それは私の自由を取り戻すこととであり、
自分の人生を生きることだ。
自由に生きれているということだ。
そのための研究、それすなわち自由研究。
私は自由研究のように生きる。
風山ふみ
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