介護離職して、10年以上介護をしながら、50歳を超えて臨床心理士になった理由①
最初に自己紹介がわりに、介護離職をして、介護を10年以上続けながら、どうして臨床心理士を目指したのか、という話を書きます。①から、⑤までです。かなり長くなり、お時間をとらせてしまい、申し訳ないのですが、読んでもらえたら、幸いです。
大学を出たのは、1985年でした。
バブルの前にスポーツ新聞社へ就職して、3年で2度転職してフリーのライターという仕事を始めたのが20代の後半だった。それから10年以上、原稿を書くことで生活をしていた。出版社などから仕事をもらい、取材して原稿を書くことの繰り返しだった。売れないライター、という存在だったから、けっこう暇な時間も多かったが、お金もなかった。その間にバブルが崩壊し、結婚もし、いろいろな変化はあったが、スポーツのことを中心に書き、中でも「人物もの」をいうジャンルが好きで、その原稿の質を向上させていきたい、という気持ちは持続していた。レベルは高くないが、一応大学までサッカーをしていたし、ワールドカップを取材するというのが1つの目標だった。
1990年頃、30代くらいで、少しでもサッカーが好きだった人間ならば同じことを言うと思うのだが、まさか自分が生きている間に、自分の国でワールドカップをやるなんて思ってもいなかったが、それが、実現しそうになっていた。
1993年に、Jリーグが始まる前までは、スポーツを扱う雑誌の編集者でも、サッカーはマイナースポーツという認識だったのに、それ以降、急速にメジャーになり、だから取材する人も増え、仕事への競争率も高くなっていった。それでも、細々とだがサッカーのことも書くようになっていた。このままいけば、うまくいくかどうか分からないけれど、何しろちゃんと原稿を書いていれば、ワールドカップを取材して書く、という目標は達成できるかもしれない、というところまでは来ていた。
だけど、1999年の2月になって、急に母親の状態が悪くなった。 父がその3年前に亡くなり、一人暮らしをしていたが、元気そうだったし、私も機会があれば、実家へ行くようにはしていた。そのうちに、「息苦しい」と何度か言うようになり、そのたびに病院へ連れて行き“異常ないです。カゼでしょう”と何度も言われた後、夜中の3時に電話がかかってきた。
『今、雪ふってる?』
「ふってないよ」。
『ああ、そうそれなら安心した』。
まるで昼間と同じ口調での電話だった。妻と二人で出かける準備をしていたら、それから2時間後にまた電話があった。もう何を言っているか分からなかった。
実家へ向かい、母親が定期的に通っていた病院に入院した。
それが、介護の始まりだったと分かるのは、あとになってからだった。
それから、母親の症状は、ひどくなってはまた正常に戻って退院することの、繰り返しになった。
1999年の夏に、母親は、また悪くなった。
定期的に通っていた病院に入院した。その病院では、認知症と診断し、精神科の閉鎖病棟へ入院させることになった。母親をクルマで1時間くらいかけて、連れて行ったのは、私と妻だった。途中で母親が暴れたら、そこで終わりだと覚悟して運転していた。
やっと入院してもらい、そこで、カゼをひいた母親が、念のために血液検査もしたら、血中アンモニア濃度が400を超えていることが分かった。精神科の医師は、驚くように、その数値を伝えてくれたが、その意味は、患者の家族としては、よく分からなかった。ただ、その値を下げる薬を服薬し始めてから、2週間くらいで、それまでの1ヶ月が嘘のように、母親は普通になった。
いつもの内科医は、元々、母親は、肝炎で通っていたのに、血液検査もしていないようだった。ただひたすら「痴呆ですから」と繰り返すだけだった。少なくとも、診断ミスではないかと思った。精神科の病院を退院する時は、「もう来ないようにね」と言われていた。
恐くて、もう1人暮らしは無理だと思った。母親と実家で同居するようになった。仕事はできなくなった。いわゆる、売れないライターだったので、何度か依頼を断ったら、もう仕事はなくなっていった。一般的な介護離職とは違うかもしれないが、完全に無職になった。
母親が定期的に通っていた総合病院を、私は信用できなくなっていたが、母親が、信じ切っていた。父親が勤め、母親も働いていた企業の名前を冠した病院だから、それ以外の選択肢が考えられないようだった。何度か、病院をかえることも考えたが、母親は、いつもの内科医を信頼していた。こわくて、かえることができなかった。
1年がたち、また夏になる頃、また母親がひどくなり、どこか責任をとってもらいたい気持ちもあって、また、いつもの病院に入院してもらった。
そこでは、“困るんです、徘徊させないでください”と、看護師に言われ続けた。夜中に母を看続けて、いったん家に帰っても、病院から電話がかかってきた。私が誰だか分からなくなった母親を、その病院の個室で、いつのまにか家族が、不眠不休で見続けることになっていた。次に転院する病院を探しながら、その時間が続いた。
2週間くらいたって、その生活に慣れたと思っていた夜中に、私は心臓がおかしくなった。
胸の中に知らない生き物がいて、勝手に暴れているようだった。手首で脈をとったら、めちゃくちゃになっていて、時々、止まった。薄暗い病院の個室の中で、こわくもあったが、妙に冷えた気持ちにもなっていた。
映画の『エイリアン』で、体を破って異星人が出てくるシーンを思い出し、ああもう死ぬな、と思った。自分が、死ぬのなら、他の家族の負担にしかならないから、眼の前の、また訳もなく動こうとしている母親を殺してしまおうかと普通に思っていた。この病院は信用できず、自分の病気のことはなかなか言えなかった。言ったら、もう使えなくなった私ではなく、疲れきっている妻を呼び出しそうだったからだ。
昼間になって、まだ、この病院全体に不信感はあったのだけど、やっと診察してもらうことにした。循環器の医師に、発作性心房細動といわれ、「過労死一歩手前です。もう少し無理したら死にますよ」と、言われた。
細いベッドに横になって、薬を点滴してもらった。今度は、誰かに手を突っ込まれ、心臓をもまれているような感覚になった。それで、発作は軽くなったが、まだ不整脈は治ってなかった。循環器の医師には、あれ、変だな、みたいなことを言われた。
それでも、母親の病室に戻った。
看護婦長は、大丈夫ですか?もなく、ひたすら「今日、誰かみてくれる人はいますか?」と言い続けるだけだった。妻は、私が点滴を受けている間、最初に作った親戚の表を指差され、もう高齢になっている親戚に、“この人来れませんか?私が電話します”と言われ続け、それを断るのに必死で、その話をする時は、泣いていた。
私は、点滴をしても不整脈が止まらず、循環器の医師には“ストレスには気をつけないと脳血栓になりますから”と言われていたが、ガラスで出来た細長い部屋に呼ばれ、カーテンを閉められ、相談員も来ますから、みたいなことを言われたが、現われたのは、看護部長だった。この病院では、ソーシャルワーカーも兼ねているようだった。その部屋には、看護婦長と、さらに年上の看護部長と、私がいた。
看護部長は、「今、緊急事態ですから」などと厳しい顔で言葉を始め、本当は、付き添いを頼んではいけないのですけれど、家政婦を24時間体制でつけてください、と強めに言われ、さらに、家政婦を頼んだのがばれたら病院の存続に関わりますから、と、まだ不整脈が治っていない私の前で、さらに強めに言われた。私への労りの言葉も気配も一切なかった。それから、病院にある公衆電話で、家政婦協会を探すのは、私の役割だった。
それから、1ヶ月くらい、家政婦に、二十四時間態勢でついてもらった。かなりのお金がかかった。それでも、病院へ通っているうちに、また母は前触れもなく正気に戻った。もうよく分からなかった。ただ怖かった。次に転院する病院では、きちんと精神科医にみてもらいたいと思った。
この病院では、母親の治療の方針の主導権は、内科医にあるようだった。総合病院の中では、ヒエラルキーがあるようで、不信感だけがふくらむこの病院の中で、唯一、精神科医だけが、信頼できたのだけど、なぜか、内科医の方が、立場が上というふるまいをしていた。それでも、途中で死んだかもしれない、この1年半の間、患者の家族の気持ちも支えてもらったのは、精神科医だった。
あとから、振り返れば、心理的な支援の重要性を、最初に、身に染みて感じた1年半だったのかもしれない。と思う。
『介護離職して、10年以上介護をしながら、50歳を超えて臨床心理士になった理由②』に、続きます。
いいなと思ったら応援しよう!
この記事を読んでくださり、ありがとうございました。もし、お役に立ったり、面白いと感じたりしたとき、よろしかったら、無理のない範囲でサポートをしていただければ、と思っています。この『家族介護者支援note』を書き続けるための力になります。
よろしくお願いいたします。
