介護離職して、10年以上介護をしながら、50歳を超えて臨床心理士になった理由②
母親の介護のために介護離職をした。家でみていたが、母親の症状が再び悪くなり、母親が入院した。その時、ほぼずっと個室にいて、みつづけたこともあり、過労とストレスで、自分自身も発作性心房細動になった。循環器の医師からは「無理して、次に大きい発作を起こしたら死にますよ」と言われた。それでも、とにかく転院を促されていて、病院を探していた。
母をみながら、病院を探していた。いくつか回った。
ある病院では、駐車場が有料で、相談を受け付けてくれたスタッフの白衣が、少し汚れていたのが、やけに気になった。そして、広いフロアでは、入院患者さんたちが、ぐるぐると歩いていた。“夜間の睡眠の質を高めるために、昼間は、部屋は閉めて、なるべく運動をしてもらうようにしています”という説明をされた。
正しいのかもしれないが、すごく抵抗感が生まれた。
もっと遠い病院にも行った。
小さい作りで、玄関を入った時に、空気がきれいに思えた。中へ入って、見学もさせてもらって、母に合っているのではないか、と感じた。この病院は、入院費が、その前に見に行った病院より、少し割高だった。しかも、いつ入院できるか分からないと言われた。
妻とも、地方で働く弟とも相談して、割高になるが、母に合っていると思えた病院が空くのを待つと決めた。他の病院が、急に、空きましたと連絡がきて、迷ったが、断り、さらに待った。
母は、最初に入院した病院で、24時間体制で家政婦についてもらいながら、時間がたち、入院費用と別に、かなりの出費がかさんでいき、何週間かたつうち、あれだけ、意思疎通ができなかったのに、急に会話ができるようになった。ただ、またいつ悪くなるのか分からずに、ただ恐かった。次に転院する病院では、きちんと精神科医にみてもらいたかった。
やっと転院ができるようになったのは、2000年の夏だった。
次の病院へ、またクルマで移動した。院長が精神科医だった。母と、じっくり話もしてくれたし、MRIを含め、診察をしてくれた。
もしかしたら、痴呆ではないかもしれませんね、と言われた。
母親も、家族も新しい病院に慣れるのに何ヶ月かかかった。転院してから、少したって、母親は、また症状が悪くなり、意志の疎通ができなくなった。
個室では悪くなるのが早いかもしれません、と医師に言われたが、そこしか空いてなかった。これ以上、悪くなってほしくない、という願うような気持ちや、何を言っているのか分からないのに、やたらと攻撃性がある母親になってしまう恐怖心は強かった。
自分自身は、もう心臓をおかしくしたから、何も出来ず、毎日のように、ただ病院に通い、家に帰ってきてからは、妻の母の介護を手伝った。その頃、母親よりも年上の義母も、耳が遠く、歩くのも困難になってきたこともあり、そろそろ身体的な介護が必要になってきた。
電車の中で、時々、めまいを起こした。
夜はよく眠れず、時々、自分が心房細動の発作を起こした時の、看護婦長の冷たい目つきと強引な言葉を押し付けてきた場面が急に蘇り、背骨の中から怒りがわきでてくるようで、さらに眠れなくなった。
起きて、それから片道2時間かけて病院へ行き、帰ってきて義母の介護の補助をして、毎日が過ぎていった。両方の母親の年金や父が亡くなった時の保険の貯金で、なんとか生活は出来た。酒をやめ、毎日心臓の薬を飲み続けた。
左目の視界が4分の1くらい欠けたこともあった。あせって眼医者に行き、もし、次におかしくなったら目には異常がないですから、すぐに脳外科に行ってくださいと言われ、それでもとにかく母の病院へ通った。
30代後半で親の介護をしている人間は少数だった。
特に自分より年上の人間は、善意なのは有り難かったが、介護に関しては、自身の経験がなくても同世代の情報は多いから、軽い説教のような口調になったり、仕事をしていないと言うと、悪意はないものの、優雅でうらやましい、などと言う人もいた。
悪気はない。だから、責めることもできない。
だけど、そんな言葉に接するたびに、人に会うのが嫌になっていった。
生きがいだった仕事をやめざるを得なくなり、妻や、遠くに住んでいる弟をのぞけば理解者もいず、ひたすら病院へ通う日々に希望はまったく感じられなかった。
毎日、自分の未来をあきらめることを続けていた。期待を少しでも持ってしまう方がつらかった。自分の将来を捨てた気持ちにならないと、毎日病院へ行く気にはなれなかった。
土の中で暮らしているような気持ちになることもあった。
自分が晩年を生きているようだった。
母のことを殺したいと思うこともあった。母が寝ている時に、その背中で自分の未来という抽象的なものが完全につぶされているように思えた。その後は、死なないかな、と思ったが、そのうちに、こんな毎日が続き、仕事をやめた無職の中年に未来はまったくないから、死にたいと思うようになった。
病院は個室だったので、かなりのお金が溶けるようになくなっていった。
何の前触れもなく、母は、また、会話も可能な状態に戻ってきた。費用も圧倒的に安いから、4人部屋などに移したかったが、母に尋ねたら、はっきりと、今のままがいい、個室がいいと希望した。
私が通わないと、母は、またおかしくなるかも、と思っていた。
変な話だが、安定して、ずっと悪ければ、あきらめて、通わなくなっていたかもしれない。だけど、悪くなってきて、通い続けたら、またよくなってくると、通わなかったら、もう戻らなくなるのでは、と薄い恐怖に引きずられるように、病院に毎日のように通った。
その行為に医学的な根拠があるかどうかは分からない。だけど、行くのをやめることになり、母が悪化して、もう二度と、意志の疎通が出来なくなることを想像すると、やっぱり恐くなり、やたらと疲れるが、病院に通った。
帰ってきて、夜間に、義母(妻の母親)の介護の補助をする度合いも、義母もできないことが増えていったから、その負担も、少しずつ多くなっていったように思う。
希望もない。未来もない。個室だから、毎月、お金が嘘のように減っていく。
そのうちに、お金があと何年かで尽きるから、そうしたら母を殺して、自分も死のうと、密かに思うようになった。そう思う時は、少し気が楽になった。
そうして2年くらいがたった時、病院の看護婦長から遠慮がちに声をかけられた。
それまで、前の病院の経験があったせいか、白衣の人と会話をするのが、ちょっと恐かった。まったく違う人だと分かっていても、看護師というだけで、妙な怒りがわいてきてしまうのではないか、という恐れもあったので、あまり目を合わせることもできなかったかもしれない。
看護婦長の話では、病院には、条件が揃えば、という前提付きだけど、減額措置というのがあるのを知った。もし、それが可能だったら、毎月、かかる費用が随分と変わってくる。そうなったら、とても気持ちが軽くなるはずだ。
看護婦長は、タイミングを見ていたようだった。
確かに、それまでだったら、病院に来ても、母の個室まで、ほとんど下を向いて、歩いて行き、何時間か病室にいて、母と会話などをして、夜の面会時間が終わると、また、うつむきがちに、病院をあとにしていた。
2年がたって、やっと周囲が見えるようになっていたのかもしれない。
今だったら、話を聞いてくれるのではないか、と思って、声をかけてくれたようだった。
そうやって、患者の家族のことまで考えてくれる気持ちが、本当にありがたかった。
病院関係者で、そういう人がいることが、ちょっと信じられないくらいだった。
病院から帰る時に、夜の道を歩き、バスに乗って、駅に向かう。
それまで自分は、道に死んだように倒れていた。そこから立ち上がって歩き始める姿が、初めてイメージできた。
その頃、これまで何度か、申し込んでは、はずれていたホームヘルパーの講座に、やっと当たった。
地元の社会福祉協議会が主催する講座で、また新しくいろいろな人と知り合った。
もう、40歳になっていたのに、その教室では約40人の中の男性4人の一人であり、その中で最年少だった。授業が進むにつれて、年上の女性の方々とお菓子の交換をするようになった。新鮮な時間だった。
どうせ一度は死んだようなものだから、多くは望まず、母も義母も妻も弟も自分も、誰かを切り捨てるのではなく、なんとか全員が少しでもハッピーになれるよう、とにかく生き延びようと少しずつ思うようになり、死のうとはだんだん思わなくなった。
病院によって、まったく違うこと。専門家でも、人によって、全然違ってくること。そのことを、介護をしていく中で、嫌というほど理解させてもらった。そうした経験も、自分が、専門家を目指したことと、無関係ではないように思う。
『介護離職して、10年以上介護をしながら、50歳を超えて臨床心理士になった理由③』へ、続きます。
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