散歩にまで「意味あった?」と聞いてしまう。生産性という宗教から、少し降りる話
※この記事は2026年6月21日に加筆・更新しました。
休むために始めたはずでした。
会社員生活が辛くて、自分を取り戻すために歩きはじめた散歩。 夜に思いを書き出すジャーナリング。
それなのに、いつのまにか、その時間にまで採点していたんです。 「これ、何かにつながった?」 「意味のある時間になってた?」と。
書き出した言葉が少ない夜は、 「今日はあまり出てこなかったな」とザワザワする。 逃げ込んだ先にまで、ついてくるものがありました。
長いあいだ、無意識に崇めていたんだと思います。 「生産性」という名前の、神様みたいなものを。
何も生まないその時間こそ、自分を取り戻す入口だったのかもしれません。
安心するために、せかせかしている
散歩の途中で、ふと思ったことがあります。
人がせかせかするのは、不安を紛らわせるためなんじゃないか、と。
「忙しい」と言いながら、どこかで安心してもいる。 忙しい自分は、誰にも責められないから。 手を動かしているあいだは、自分の価値を疑わずにすむから。
逆に、何もしていない自分は、こわい。
家でぼーっとしていると、ふっと胸が締めつけられる。
「このままでいいのか」 「みんな前に進んでいるのに」
でも、本当にそうでしょうか。 いったい、誰に追われているんでしょうね。
効率化したかったのは、ただ楽をしたかっただけ
僕の強みは、効率化とか省力化です。
前職では、ごちゃごちゃした仕組みを500本から200本まで削ったし、 面倒な手順を1本にまとめたりもしてきました。
でも、やっていた理由は、すごくシンプルでした。
ただ、楽をしたかったんです。
面倒な時間を短くして、空いたぶんで好きなことをしたい。 それだけでした。
ところが会社は不思議なところで、効率化して手が空くと、 別の仕事がするっとねじ込まれてくる。 「まだやれる」と判定されてしまう。
しかも、ねじ込まれるのは、 たいして大事でもない用事だったりするんですよね。
経済学者のケインズは1930年に、 技術が進めば20世紀末には週15時間労働になる、と予測したそうです。
技術的には、とっくに可能だったはずでした。 それなのに、いまも週40時間以上を当たり前に働いている。
技術は、人をもっと働かせるために使われてきた。 本当は要らない仕事が、わざわざ作られ続けてきた。
自分で自分の首を絞めるために、 せっせと効率化を頑張っているのかもしれません。
「生産性が低い時間」こそが、いちばん豊かだった
最近、思うことがあります。
お香に火をつけて、煙が揺らぐのを、ただ眺めている時間。 生産性が限りなく低い、なんでもない時間。 あれこそが、いちばん豊かなんじゃないか、と。
何も生み出していない。 誰の役にも立っていない。 記録にも残らない。
それでも、その瞬間だけは、たしかに「ここにいる」と感じます。
成果の物差しから一歩外に出ると、 枯れていた小さな幸せが、ぽつぽつと咲きはじめる。
お香の香り。 窓から差してくる光。 遠くで鳴く鳥の声。
足りないものを数える癖が、すこしだけゆるむ。
無駄に思えるこの時間こそ、 自分がちゃんと戻ってくる余白なのかもしれません。
物差しを下ろせた時、ようやく神様から距離が取れた気がしました。
立ち止まるために、今日も歩く
もうひとつ、気づいたことがあります。
立ち止まるには、歩くことが必要だ、ということ。
矛盾しているようだけど、本当にそう思うんです。
家でじっとしていても、頭の中はせかせか走り続けている。 むしろ歩いている時のほうが、思考はだんだん静かになっていく。
たぶん、本当の立ち止まりは、外の動きを止めることじゃない。 内側のせかせかを、ひとつずつ下ろしていくこと。
だから今日も、誰の役にも立たない散歩に出ます。
何かを得るためじゃなくて、得ようとする自分を、すこしずつ手放すために。
休むはずの時間にまで、「これ、意味あった?」と聞いてしまう。
そんなこと、ありませんか。
よかったら、聞かせてください。
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