現代に生きる世捨て人④ 養老孟司──人間は自然の一部である
都市を離れるのではない。自然を思い出すのである
人生の前半、私たちは人工的な世界の中で生きている。
学校へ行く。会社へ行く。時間通りに動く。予定を管理する。成果を求める。社会のルールを覚え、その中で自分の居場所を作っていく。
便利である。安全である。効率もよい。暑さ寒さは空調で調整され、遠くの人とは一瞬でつながり、知りたいことは画面の中にすぐ出てくる。
けれども人生後半になると、ふと違和感を覚えることがある。
なぜこんなに便利なのに、落ち着かないのだろう。なぜこんなに情報があるのに、満たされないのだろう。なぜ自然の中へ行くと、ほっとするのだろう。
その問いを、独特の角度から語り続けてきた人がいる。養老孟司である。
養老孟司は、解剖学者である。
人間の身体を見続けてきた人でありながら、人間社会についても多くの言葉を残してきた。代表作『バカの壁』は社会現象にもなった。
しかし養老孟司の思想の根にあるのは、知識の優越ではない。
人間は自然の一部である。
その当たり前を、もう一度思い出すこと。
彼はよく虫の話をする。
昆虫採集を続け、山を歩き、自然を観察する。学者としての顔を持ちながら、少年のような好奇心を失わない。
なぜそこまで虫に惹かれるのか。
虫は、人間の都合に合わせてくれない。意味を説明してくれない。役に立つかどうかで存在していない。ただそこにいる。
この「ただそこにいる」ものに向き合う時間は、現代人にとってとても貴重である。
私たちは、何かを見るとすぐに意味を求める。
これは何の役に立つのか。どんな価値があるのか。自分にとって得か損か。
しかし自然は、そういう問いの外側にある。
花は評価されるために咲かない。虫は意味を考えて生きていない。山は人間を励ますためにそこにあるわけではない。
それでも、自然の中にいると人は落ち着く。
なぜだろう。おそらく、私たち自身もまた自然の一部だからである。
現代人は、自分をまず「社会の一員」として考える。
会社員。親。管理職。専門職。
それらは大切である。しかし、その前に私たちは一つの生き物である。
食べる。眠る。疲れる。老いる。病む。死ぬ。
どれほど社会的に成功しても、この事実からは逃れられない。
人生後半になると、そのことが身体を通して分かってくる。
若い頃は、徹夜もできる。無理もできる。気合いで乗り切れる。
しかし年齢を重ねると、そうはいかなくなる。疲れが残る。眠りが浅くなる。身体がこちらの都合に合わせてくれない。
けれども老いは、自然との再会でもある。
身体が変化することで、人は自分が生き物だったことを思い出す。
養老孟司は、その変化を敵視しない。
桜が咲き、散るように。葉が色づき、落ちるように。人もまた変化する。
老いを若さで塗りつぶそうとする社会のほうが、むしろ不自然なのかもしれない。
現代社会は、老いを管理しようとする。
健康寿命。予防。数値。検査。運動。栄養。
身体を大切にすることは必要である。しかし老いを完全に管理しようとすると、人はかえって苦しくなる。
老いてはいけない。いつまでも若々しくいなければならない。
そうした思いが、老いを自然な過程ではなく、失敗のように感じさせてしまう。
養老孟司の視点は、そこに風穴を開ける。
人間は自然の一部である。だから変化する。老いる。疲れる。死に向かう。それは恥ではない。
都市に暮らしていると、自分が自然の中にいることを忘れやすい。
土に触れない。空を見ない。月の満ち欠けを気にしない。季節の匂いを感じる前に、カレンダーで季節を知る。
身体の感覚より、情報が先に来る。
すべてを外から教えてもらおうとする。しかし本当は、身体は多くのことを知っている。
疲れたら休みたい。外へ出たい日がある。誰にも会いたくない日がある。風に当たるだけで、少し楽になる日がある。
養老孟司の思想は、そうした身体感覚への信頼を取り戻すことでもある。
「自然に帰る」と聞くと、山奥へ行くことや田舎暮らしを想像するかもしれない。
しかし、それだけではない。
自然に帰るとは、生き物としての自分を思い出すことである。
朝の光を浴びる。土の匂いを感じる。疲れた身体を休ませる。季節の変化に気づく。
都市にいても、自然を思い出すことはできる。
公園の木。道端の草。雨の音。夕方の空。鳥の声。
小さな自然でよい。
鴨長明は、方丈の庵に暮らした。都の中心から離れ、自然の大きな流れの中に自分を置き直した。
ソローもまた、ウォールデン湖畔の小屋に暮らした。人間が作った社会の速度から少し離れ、自然の速度に身を置いた。
長明とソロー、そして養老孟司。
三人は時代も立場も違う。けれども同じ方向を向いている。
人間は自然から完全に切り離されては生きられない。社会の中で生きながらも、自然とのつながりを失ってはいけない。
人生後半になると、自然はもっと身近なものになる。
若い頃には、自然は休日に行く場所だったかもしれない。旅行先の風景。花見。登山。
しかし年齢を重ねると、庭の草花。散歩道の木。朝の空。雨音。風。夕暮れ。
それらが深く心に入ってくる。
桜が咲いている。それだけで嬉しい。
風が涼しい。それだけで救われる。
雨音を聞いている。それだけで心が静まる。
人生の速度が少し落ちることで、見えるものが増える。
虫は、人間の価値基準では測りにくい。かわいいとは限らない。役に立つとも限らない。
けれども虫は、圧倒的にこの世界にいる。人間の都合などお構いなしに、季節の中で現れ、飛び、鳴き、死んでいく。
虫を見ていると、人間の世界が少し相対化される。人間だけが世界の中心ではない。
この感覚は、人生後半の心を楽にする。
自分の悩みが消えるわけではない。しかし、大きな自然の中では、人間の成功も失敗も、少し小さく見える。
それは冷たいことではない。むしろ慰めである。
エピクテトスは、変えられないものを受け入れることを語った。
養老孟司もまた、別の角度から同じ場所を見ている。
自然を支配しようとしすぎると、人は苦しくなる。自然と共に生きるほうが、ずっと現実に近い。
自分の身体さえ、完全には支配できない。
眠ろうとしても眠れない夜がある。元気でいたくても疲れる日がある。覚えていたいのに忘れてしまうことがある。
それを全部「失敗」と見なすとつらい。生き物として自然なことだと受け止めると、少し呼吸が楽になる。
できることはする。けれども、できないことまで自分の責任にしすぎない。
退職後でさえ、現代人は忙しい。
健康管理。趣味。学び直し。地域活動。
どれも悪くない。けれども、ときには何もしない時間も必要である。
虫を眺める。木を眺める。雲を眺める。
養老孟司は、そういう時間の価値を知っている人に見える。
何かを成し遂げなくてもよい。誰かに評価されなくてもよい。ただ、生き物として今日を生きている。
その感覚に戻るだけで、心が少し静かになる。
タモリは、力を抜く自由を教えてくれた。黒柳徹子は、自分の好奇心を生きる自由を教えてくれた。五木寛之は、下山する自由を教えてくれた。
そして養老孟司は、自然に戻る自由を教えてくれる。
都市を離れることではない。生き物としての自分を思い出すことである。
老いること。疲れること。休むこと。季節を感じること。身体の声を聞くこと。
それらを敵にしない。
肩書がなくなっても、生き物としての自分は残る。仕事を離れても、朝の光は届く。老いても、季節はめぐる。
この当たり前に戻ることが、人生後半の静かな安心につながる。
今回の問い
あなたは最近、自然の中で立ち止まったのはいつだろうか。
そのとき、何かを考えていただろうか。 それとも、ただ風を感じていただろうか。
Kashimono / Karimono
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