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小説「転身」第一話

【あらすじ】
 目覚めると死体の側にいた。女は殺された相手どころか、自分自身の記憶すらない。女はAと仮称し、事件現場を逃走する。しかし、彼女の行く手をふさぐように次々と人物が現れ、命を懸けたゲームに否応なし巻き込まれていくのだった。
 やがて彼女は追いかけてくる者の正体を悟る。自分自身の中に眠る死の欲動だった。生きるためにAは戦いを選ぶ。わたしの中の私を殺すために。

第一話
 
 新宿歌舞伎町の大通りから、十分ほど歩いた裏通りに小さな雑居ビルがある。建てられてから優に半世紀は過ぎていて、お世辞にもキレイだとは言えない代物だ。
 客もそれはわかった上での住人たちばかりで、デリヘルの事務所や消費者金融の店舗といった、この界隈ならではの看板が並んでいた。
 その中に一軒、さらに異質さを際立たせているのが鈴木探偵事務所だ。トラブルなら何でも引き受けるのがモットーらしく、日々いろんな訳ありの人物が訪ねてくる。
「ここにいるのは明日もねぇような糞詰まりのクソなやつらさ。だけどクソな世の中でそいつらをかまってやるクソが一人くらいいねぇとな」
 所長である強面の鈴木は客に向かっても遠慮なく、そう言ってのける。それでも客が来るのは五十を超えた元刑事という肩書きだけではない。引き受けた依頼は絶対に諦めない意固地さが、東横あたりに出入りする少年少女を何人も救ってきたからだ。

 しかし、その日の依頼人は少し様子が違った。上から下までどう見ても、ここに来る人物にはカテゴライズされそうにない。依頼人の少女は都内の有名私立高校の夏服を着ており、底辺とは無縁に生きているようにしか見えなかった。
 ショートカットの髪は瓜実顔を際立たせ、大きな目には意思の強さが感じられる。美少女と言うわけではないが、一度見ると忘れられない印象を鈴木は感じた。
(これはまた変わり種が来ちまったもんだ)
 鈴木は顔にこそ出さないが、内心ではそう思っていた。
「二百万。前金はこれで足りるでしょうか?」
 少女はそう言って、使い古した現金が入った封筒を鈴木の前に置いた。鈴木はどう断ろうかと相手の表情を伺うが、顔色一つ変えないから感情が読めない。
「あのね、お嬢ちゃん。人探しは、金もらってそうですかって問題じゃねえよ。あんたさ、なんで田畑美穂って女に会いたいんだ?」
 鈴木は少し語気を強めて脅しをいれてみた。彼の仕事は違法ギリギリの案件も多い。見極めこそが命綱だった。
「母親です」
 少女の口元だけが動いたように見えた。相変わらず表情は一つも崩していない。けして愛情だけで探しているのではないと、鈴木には思えた。
「なるほど、理由は飲み込めた。ただ、条件はいただけねぇな」
「なぜ?」
「匿名の必要ってあるのかい? この仕事は信頼が全てだ。依頼人の秘密を売るような男だと思われて」
 鈴木の言葉を止めたのは少女の笑みだった。口角だけのわずかな動きは、観察していなければ見逃してしまいそうなくらいだ。悪意さえ感じられるその笑みに、百戦錬磨の鈴木の身体も総毛立った。

「では、これで」
 やるべきことは全て終えたとでも言いたげに、少女は席を立った。
「俺はまだ引き受けるとは言ってないぜ」
 鈴木は少女の背中に向けて言葉を投げた。
「やりますよ、あなたは。だって興味を持ってしまったから」
 それは鈴木の胸のうちを見透かした言葉だった。
「あんたの連絡先は?」
 会話を引き延ばそうとした鈴木に、少女は告げる。
「終わる頃に連絡します。大丈夫、鈴木さんのことは見ています」
 少女は監視していることを隠そうともせず、淡々と告げた。
(このクソガキは、俺なんぞ眼中にもないって面しやがる)
 目の前でゆっくりと閉められたドアの音が、鈴木は自分に向けられた最後通牒のように思えた。
 鈴木は置かれたままの封筒を掴むと、無造作に中の現金を取り出した。紙幣には点々と血の滲みが残っていて、堅気の人間が用意したとは到底思えない。とんでもねえのを引いたなと、鈴木は薄くなった頭を掻きながら呟くのだった。
 
 田畑美穂の名前は鈴木も知っていた。管轄は違うが警察官を含む四名を殺した犯人の名前だからだ。十数年前の事件だが、当時はまだ警察官だったのでハッキリと覚えている。
「犯罪者がウィキにまで載るなんて、まったく世も末だな」
 鈴木は机の上のノートパソコンを両手の人差し指で操作しながら、寄付金の募集広告を×で消した。
 記事によると、警察は彼女に二度も逃亡されている。一度目は逮捕直後に、二度目は死刑判決が確定した六年後だ。その失態はマスコミに叩かれ、毎日のようにニュースで取り上げられた。警察は顔に泥を塗られたとも言えたが、高額の懸賞金を懸けても逃亡した彼女を未だに捕まえることができていない。
「ざまあみろってんだ」
鈴木は警察の不始末を鼻で笑った。獲物としては悪くない相手だ。一介の探偵に出し抜かれたら、警察上層部の幹部たちがどんな顔をするかと妄想が膨らむ。
(あいつら、このネタを売るって言ったらいくら出すんだろうな)
冗談にしては笑えないが、組織を守るためならやりかねないと鈴木は知っている。不正の隠蔽に協力した彼を待っていたのは、上層部によるトカゲの尻尾切りだった。過去に鈴木は汚職警官の汚名を着せられ、組織を追放されていた。
 連日の報道に耐えられなくなった彼の妻は自死を選んだ。家庭を省みることなく働く鈴木に、妻は一度たりとも不満を述べたことはない。彼が、その生き様が彼女の誇りでもあったからだ。
 鈴木は生まれて初めて泣き崩れた。 咆哮というには悲しみが過ぎる声を上げて、のたうち回った。残されたのは復讐の思いだけだ。それが彼を動かしている。
 少女の正体を含めて、彼女を探すことは痛みを忘れさせてくれる格好の獲物だ。鈴木は自分でも久しぶりに血が騒ぐのがわかった。

 美穂を追うに当たって、鈴木は彼女が一番最初に起こした事件を調べることにした。同居する恋人を殺して以降、彼女の行動は加速度的に変化している。もちろん逃亡犯ゆえの行動もあるだろう。
 しかし、それ以前と以後では別人とも思える変貌だった。警察官二名と医師一名を次々と手にかけている。痴情のもつれと言われた最初の事件と違って、残りの事件は動機すら見えない。
「なぁ、あんたに何が起きたんだい?」
 鈴木はプリントアウトした記事に向かって話しかけた。目立たずに生きてきた女が、ある日を堺に連続殺人犯となった。その事実を冷静に捉えながら、調書の一文字ずつを指でなぞっていく。その裏に見え隠れしている警察官や容疑者の息づかいから、鈴木は田畑美穂という人間を理解しようと向き合った。早くも捜査という名の戦いが始まっていた。

  数日後。刑事時代の同僚を買収して手に入れた調書によると、事件の始まりは十六年前。産業道路沿いの横浜市内のマンションで起きていた。安藤正輝という男の刺殺体が、マンションの住民によって発見されたのが最初だった。
 容疑者は安藤と同居していた田畑美穂だ。慌てて逃げ出す様子が防犯カメラに残されており、警察による緊急配備が敷かれた。
「初動にミスはなさそうだな」
 鈴木は老眼鏡をかけ直すと、被害者の安藤の項目にも目を通していく。安藤はヤクザの組長の息子だったが、堅気の生活をしていた。数年前に亡くなった父親の遺産を相続しており、金は持っていたようだ。近隣住民によると、安藤は目が見えないので美穂が世話をしていたらしい。しかも、彼女は事件当時に妊娠をしていたとあった。
「その時の子供があのクソガキってことか……」
 鈴木は捜査資料にあった美穂の写真を見て、首を傾げた。今にも不安に押しつぶされそうな顔をした写真の美穂と少女は確かに似てはいた。しかし、少女の持つ雰囲気と比べると違和感のほうが強かった。

 鈴木は調書の頁を指で捲って、美穂の供述内容を読んでいく。どうやら彼女は自分のことをAと称していたようだ。自分は田畑美穂でないと繰り返したとも書かれている。
 精神鑑定による減刑を狙う容疑者は大勢いるので、不思議ではない。ただ、おかしなことに彼女は殺した人数を七人だと譲らなかった。裁判でも同様の証言をしている。しかし、殺人で立件されたのは四人だ。
「なんなんだ、こりゃ。覚えてねぇってやつはいても、多く言うのは聞いたことがねぇ」
 美穂の精神鑑定が事件当時は正常だとされているのにも鈴木は呆れた。彼女が自白した残りの死体は見つかっていないが、警察は罪の意識に耐えかねて事件後に精神に異変をきたしたと結論付けている。とにもかくにも警官殺しの犯人を罰したい意図が明らかだった。
 鈴木は立ち上がると煙草を咥えて窓際に立った。煙を吐くために窓を少し開けると、外の熱気が吹き込んでくる。同時にまとわりつくような視線も感じた。姿は見えないが、何処からか見ているのに違いなかった。
「笑わせやがる」
 鈴木は少女の目を思い出した。持ってきた金のこともあり、得体が知れない相手だ。しかし、鈴木は絶対に暴き出してやると逆に意欲が沸いた。美穂を追えば少女の正体も掴めるはずだった。
 鈴木は窓から火を消した煙草を投げ捨てると、再び供述調書に目を落とした。美穂の残した言葉の一つ一つを追い、頭の中で彼女自身を作り出していく。
 

 ある朝、繰り返し見るいつもの夢から目を覚ますと、自身がベッドのなかで一人の殺人者に変わったことを発見した。
 夢はいつも見知らぬ誰かを刺し殺すシーンで終わり、場に不調和な目覚まし時計のアラーム音楽に起こされて終わる。リストの『愛の夢・第三番』の悲しき愛の終わりを語りかける調べに、割れそうに痛む頭を抱えながら始まる朝がいつもの日課だった。
 壁にも床にも染みが一つもない白に統一された部屋を、朝の光が浮かび上がらせる。夜の間に部屋を覆っていた影は息を潜め、また新しい一日が始まった。今朝がいつもと違っていたのは、目が覚めてなお、悪夢が終わっていなかったことだ。

 部屋の中央に置かれたベッドの真上には、黒ずんだ血が薔薇の大輪を咲かせていた。その血の海の中で、Aは男と並んで眠っていた。どこかで見たことがある気もしたが、はっきりとは思い出せない。
 男は夢の中でAが殺した顔にもよく似ていた。Aは確かめようと、手を伸ばして男の顔に触れてみる。しかし、男は既に血の気が引いて肌は冷たくなっていた。すでに呼吸することも忘れたようだった。
 死体を前にしても、Aの思考はどこか冷静だった。現実ではなく、夢の中のように思えたからだ。
(そうだ、これは夢だ。そのうちスマートフォンのアラームが鳴って、きっといつもと同じ朝になる。だから起きて確認しなくちゃ)
 そんな考えが頭をもたげる。何故ならAは今までの人生において傍観者であり、主人公になったことなど一度たりともなかった。陰に隠れて注目される事がない。舞台の中央でスポットライトなどに当たるようなこととは無縁の存在だった。
 ましてや殺人など、そんな大それたことが起きるはずはない。一度たりとも男性と噂になったことさえなかった。Aは自分とかけ離れすぎたこの状況にリアリティを感じられなかった。
 Aが身体を起こそうとマットに手をつくと、白地に赤い薔薇が咲いた。かろうじて染まっていなかったシーツにも、マットの血が滲みだして赤くなっていく。Aは思わず後ろ手で後退りしたが、その度にシーツに紅い染みが広がった。
(こんなのおかしい、あるはずがない)
 そんなAの思いとは逆に、リストの『愛の夢・第三番』は最高潮を迎えていく。現実の時間が始まっていることを無常に告げていた。

(何かがおかしい)
 そう考えたものの、Aはそれを追求するような人間ではなかった。問題があれば現実から目を背け、陰の中へ隠れてやり過ごすことが常なのだ。
 一刻も早く、誰にも見られない場所へ。日々過ぎてく日常を傍観者のように見つめるだけの空間へ。意思が停止し、何も起きない世界へ。Aの頭の中にそんな言葉ばかりが浮かんできた。Aの身体もまた眠る前のように暗く穏やかな空気を求めていた。
 だが、陽の光は真白な部屋とシンクロするように、侵入を続けて影を一掃していく。Aは焦りから視線をあちこちに動かした。白日の下に晒された室内には逃げ込めそうな場所など存在していない。ふと、Aの視線がベッド脇のサイドテーブルで止まる。
 昨夜、そこに置いたはずのスマートフォンがない。ここは本当に昨日までの自分がいた世界なのだろうか。いや、絶対に違う。Aは早く眠ってしまいたいと願った。
「お願い、早く代わって」
 Aは誰もいない空間に向かって叫んだ。当然ながら返答もなく、言葉は陽の光に溶けて消えていった。
「聞こえてるんでしょ」
 Aの声は泣きそうになるのを必死で抑えたものだった。Aの心は限界に近い。まるで子供がするように目を強く瞑って、呪文のように同じ言葉を唱え出した。
「これは夢。夢だから怖くない。これは夢」
 もうすぐ六時三十分のアラームが鳴る。慌ただしく身支度を整え始め、テレビのモーニングショーの天気とラッキー占いを確認すれば出勤する時間のはずだ。
(でも、どこに? 会社の名前……思い出せない。あれ、仕事って何してたんだろ)
 なぜか、そんな根拠にもならないことばかりがAの頭の中を巡っていた。
突然、フローリングの床でスマートフォンが振動した。続けて始まった警告音のようなけたたましいアラームが、音ひとつない静寂をつき破る。心臓を掴まれたかと思う驚きが、身体を強張らせていた。Aはアラームの鳴り終わりを待つことしかできなかった。

 何故かスマートフォンは充電のためにコンセントにつながれてフローリングにある。
(何か、おかしい)
 そう思う度に、頭が割れるような激しい痛みが襲った。Aは血に濡れた手でスマートフォンを掴むと、再び鳴り出したアラームを停止させた。確かめようと、Aはスマートフォンで昨夜のSNSのログや写真の確認を始める。そこには記憶にはないことばかりが溢れていた。
「違う、こんなの」
 Aは写真を見るたびに否定する言葉を発した。友人たちとスイーツを楽しみ、バルで男性たちとグラスを交わす。そんな見たこともないAがそこにいた。Aは確かめるように何百枚とある写真をスライドさせていく。やがて、ある一枚の写真で指が止まった。
「誰なの……これ?」
 写真にはAと男が肩よせあって微笑んでいた。見知らぬはずの男は恋人なのだろうか。いや、少なくともそのように周囲には見えているだろう。
 Aは男の正体を探るため、スマートフォンに登録されているSNSのアプリに接続した。
「嘘でしょ……」
 Aは自分のSNSの投稿に目を疑う。信じられなくて、アップされていた短い動画を再生すると、自分の声が自分以外の誰かのことをしゃべりだした。
「見て、指輪。昨夜、彼が給与の三カ月分がやっとたまったって。照れながらくれて」
 動画の中のAが話す言葉はそれ以上耳に入ってこなかった。まるでニュースの文字情報のように事実だけを見ていた。これからの生活を二人で語り合ったこと。Aが幸せと言った時の笑顔など。すべてAが初めて見ることばかりだった。
「こんなの、私の人生じゃない。ねぇ、聞こえてるんでしょ」
 Aはたまりかねて叫んだ。クローゼットやバスルームの扉を開けて探し回ったが、そこに目的のものはいなかった。さながら下手な一人芝居のようだ。

「今日を記念日にしよう。新しい人生のスタートだから」
 Aは男の言葉に振り返った。死体が生き返った訳ではなかった。スマートフォンでSNSを開いたままにしていたせいで、アップロードしていた短い動画が自動で再生されたのだ。
「君だけを見てる。いつもどんな時も」
 男に特別な魅力があったようには見えなかった。ただ、照れてはにかんだ笑顔は、間違いなくAへ向けられたものだった。
「あなたのこと何も……」
 知らないと言いかけて、Aは涙を流していることに気付いて言葉を止めた。
(誰なの? なんで、一緒にいるの?)
 男の名前がどうしてもAには思い出せなかった。こんなにも誰かに必要とされたことはない。それなのに名前さえ分からないのだ。
(これは本当のこと?)
 毎夜見ていた顔も知らない誰かを殺す夢は、罪の意識が見せていたものだったのだろうか。無意識に感じでいた恋人へのストレスが見せたのではないのかと思いたかった。
 だが、男の無念さを告げるかのように、昨夜に放出された男の精がAの内側から太腿をゆっくり伝って外へと溢れだした。男には愛されていた。Aにはそう思えた。
 手に入れてもいないはずの幸せや未来だったが、あまりにも突然の収奪にAは悲しみを抑えられなかった。それともこの涙は何も覚えていない自分への哀れさなのか。ただ混乱だけに支配されていた。
 遠くから近づいてくるパトカーのサイレン音がAの感情を中断する。窓の外から陽光が差し込み、彼女に似つかわしくない長い長い一日が始まった。

【話の続き】

第二話 

第三話 

 第四話 

第五話 

第六話 

第七話 

第八話 

第九話

第十話

第十一話

第十二話








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