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航空自衛官が追う日航123便墜落の真相 御巣鷹山事故論争に終止符を打つ ②

6 B747の設計とSR機の運航、事故機固有の問題

 設計時B747は、重量が大幅に超過した上に、ボ社が経営難であったため、メインスポンサーのパン・アメリカン航空から僅か3年での開発を要求された。このため、かなり無理な軽減を図ったことによって、B747の末尾に-100/-200が付く初期のジャンボ機(クラッシックといい、日航のSR機はこれに含まれる。)は疲労寿命に問題があったことが知られている。現に、FAAの耐空証明の取得には通常5年はかかるとされ、B777は5年、B787は8年を要した。B747より胴体が細⾧い機体形状であり、与圧構造上も有利であったと考えられるマクダネル・ダグラス社のDC-10とロッキード社のL-1011の外板がいずれも1.8mmと厚かったにもかかわらず、B747は1.58mmでしかなかったことがこうした事実を如実に物語っている。また、同じボ社が開発した機体でも、B757では40年間の運航に相当する100,000飛行時間を、B777では150,000飛行時間を、実機に与圧をかけ疲労強度試験を行ったのに比し、B747は当初120,000飛行時間を予定したが、実際には60,000飛行時間(20,000与圧飛行回数)で打ち切った。これに対し、欧州の各航空会社が試験回数が少なすぎると猛反発したが、パン・アメリカンと日航が支持したと新聞が報じた。B747の初号機がロールアウトした際、B747 の機首には発注した各航空会社のロゴが描かれたが、日航の鶴丸はパン・アメリカンに次いで2番目であったことが大きな話題にもなった。B747の設計製造の責任者であったジョー・サッター氏は、著書『747ジャンボをつくった男』の中で、当初B747は社内の設計上の優先順位は「4番目で、経営陣の関心も低く、予算配分はもとより、技術者の確保さえ困難な状況であった」こと、「部品の中には、下請けの下請けに任され、欠陥だらけだった。改修に次ぐ改修で、機体は1機1機異なる状況だった」と驚くべき実情を語った。事実、事故機の-100は、初号機が初飛行する以前の1968年10月、早くも大幅な設計変更がなされ、-200へ製造転換する有様であった。いわば、増加試作機というよりも、むしろ試験機に近く非常に危なっかしい実情にあったのだ。
 更にサッター氏は、事実上日本国内(日航)向けに製造したSR機について、「技術陣からは、(B747)は多くとも(日に)1~2回の⾧距離を運航する航空機として設計されたものであり、毎日何回もの短距離を繰り返すことで、頻繁に与圧が加えられ着陸で何度も衝撃を受けるといった現象に耐えられるのかと疑問が出た」、「特に20年、場合によって30年の間の安全運航に疑問が出た」と記している。このため、SR機は国内線での使用に伴う頻繁な離着陸に耐えられるよう主翼、フラップ、水平尾翼、脚、ブレーキなど一部を補強強化したが、基本構造はLR機と同一であった。ボ社は、SR機の飛行時間、飛行回数に関し、10年間の無制限を保障したが、事故当時、旅客機の耐用年数は通常20年以上であった。事故後、日航はSR機の使用期限を15年に短縮したものの、国内線での使用は国際線よりはるかに多い離着陸によって、与圧の繰り返しや着陸による衝撃が加わり、機体は何万回のストレスを受け、機体に複雑な応力や衝撃が加わる。どんな小さな設計上の欠陥や製造上の不良であっても、システムの破局的事象へ発展する可能性がある。つまり、SR機は、他のどの機体よりも、整備、検査の質が問われる状態にあった。現に、FAAやボ社は日航に対し、構造検査の実施を指示や推奨の形で繰り返し必要性を訴えていたが、その声は届くことはなく、その理解と取り組みが明らかに不足しており(※1)、そうした状況下であの事故が起こったのであった。『報告書』P103でも、「事故機の場合、昭和53年6月の(尻もち)事故によって機体後部に変形が生じ、これがこれらの化粧室ドア不具合に関与していた可能性は完全には否定することはできない」との見解を示したが、これは後部胴体の変形と隔壁の強度不足とが相まって、⾧期にわたり腐食を伴った疲労破壊が進展し操縦系の異常となって表出していた事実を半ば認めたようなものであった。事実、化粧室ドアの他にも操縦系の不具合が発生していたことが一連の調査の過程や調査終了後の関係者による証言で判明した(※2)。更にいえば、尻もち事故に伴って隔壁を修理した際、胴体の変形を抑える治具を使用せずに隔壁を取り外したことに加え、自社の仮修理のまま伊丹空港から羽田空港に空輸した際、後部胴体、垂直尾翼、尾部胴体などの構造部に変形や亀裂などの深刻な影響を及ぼしていた可能性が非常に高いことが、『報告書』から読み取ることができる。つまり、日航側にも重大な責任があったことを暗に匂わすような自制的な内容の『報告書』に止めたと理解することができる。なぜなら、武田委員⾧が、「責任の所在を明らかにすることは仕事ではない」と殊更に強調したとおり、捜査機関から調査内容の照会や鑑定嘱託を受けたならば、この求めに応じざるを得ず、場合によっては証拠として採用され、個人の刑事責任を問われかねない、ひいては運輸省の重要な天下り先である日航を失いかねない結果につながることを恐れたからであろう。
 初期型のジャンボ機(クラッシック)の事故率は、全旅客機の平均値はもとより欠陥機と呼ばれたDC-10より高かった。このため、エアラインは、トラブルが多く、維持費がかかるクラッシックを次々と売却、貨物機に転用したのが実情であった。また、1980年代初めに、偽造部品(無許可製造の粗悪品)が市場に大量に出回り、旅客機は勿論のこと、米国では軍用機をはじめ大統領専用機にも使用されていたことが明るみになり、大きな社会問題となった。当時の日本では、話題にもならず、調査も行われなかったが、123便事故との因果関係は完全に排除できていない。クラッシックは、123便事故における業務上過失責任の時効成立を待ち構えていたかのように、1990年5 月に製造中止が発表された。同時に、関係者による新たな証言などが出始めるのもこの頃からであった。一方、新たに設計し直したB747-400の事故率は全旅客機の平均値よりも低く抑えられ、高い安全性を発揮したのであった。 

7 隔壁の破壊は、想定外だったのか?

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