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御巣鷹山ジャンボ機墜落事故から学ぶ 事故後40年 元航空自衛官による真の解説(2026年5月30日追記)

1 御巣鷹山事故とは

 歳月の流れは早く、あの事故から今年で40年目を迎える。1985(昭和60)年8月12日に発生した、JAL123便ジャンボ機の墜落事故である。日航B747-SR型機は、胴体尾部及び上・下方向舵を含む垂直尾翼の損壊で、油圧4系統の配管が全損し油圧を喪失しため、操縦不能の事態に陥り、32分の苦闘の末、群馬県多野郡上野村の山中(御巣鷹の尾根)に墜落炎上し、乗客乗員520名の尊い命が奪われた。この事故は、日本社会に大きな衝撃を与え、航空旅客数は急減した。以降、日本の航空会社では乗客の命が失われる事故は発生していないが、御巣鷹山事故は単独機事故として世界最大の惨事であることに今も変わりはない。

『航空ジャーナル 1985 年11 月号(No.180)』P.48 の図を編集

 この事故は、航空機の運航や整備に携わる人々が空の安全を考える上で、様々な教訓や示唆を我々に語りかけている。当時の日本が、高度経済成長を機に経済大国となる過程で安全をおろそかにしてきたことに気付かされた事故であったのではないだろうか。そうした意味においては、公害や薬害などと本質的には同じであった。それとともに、「安全神話(絶対安全)」に惑わされやすい日本社会を象徴する事故として、この悲劇を記憶にとどめておく必要がある。事故後、遺族会(8.12連絡会)は、この事故の教訓を風化させてはならないと、残存機体の保存を働きかけた。こうした切なる想いを受け、日本航空は、「安全啓発センター」を設置、「負の遺産」として一般に公開している。今では誰もがここを訪れて、事故機の残骸、遺品などの展示物から空の安全確保に向け何が必要とされているのかを学ぶことができる。

2 システム、組織の全体を俯瞰的に診る重要性

 御巣鷹山事故でも、どの事故でもそうであるが、センセーショナルな報道と熱しやすく冷めやすい日本人の国民性が相まって、「誰が、この事故を起こしたのか」と言わんばかりに、「犯人捜し」のような反応が随所で認められる。御巣鷹山事故でも、警察の捜査過程で、運輸省航空局検査官と遺族対応に当たっていた日本航空職員の2名が自殺してしまったが、この人たちも事故の被害者である(一方、検察は事故関係者全員を不起訴とした。)。こうした場合、事故調査に大きな妨げとなるばかりか、責任者や関係者を処分すれば、今後再び事故は起こらないとの短絡的な発想につながり、人々の関心が早々と薄れてしまうため、原因追究と再発防止対策が不十分なまま、やがて事故の悲劇が再び繰り返されかねない。やや結論的になるが、シドニー・デッカー教授(ヒューマンファクターズの専門家)は、単一の要因が大きな事故を引き起こすことはめったにない」との見識を世に広めた。にもかかわらず、裁判などでは因果関係を簡略化し、結果の重大性と原因(過失と違反)の悪質性を釣り合わせようとする現実が、厳然として存在することを忘れてはならない。
 御巣鷹山事故でも、運輸省航空事故調査委員会(当時)による調査では、
ボーイング社による圧力隔壁の修理ミスが原因とされたが、これだけでは事故の全容は観えてこないこない。事故調査報告書では、事故7年前の大阪空港での尻もち事故に伴う応急修理後の羽田空港への空輸、その後の隔壁修理で機体後部に変形が生じることへの配慮が不足していたと言及するに留まったが、後の検察による不起訴説明会では、機体構造に影響する隔壁が安全確実な交換によらず、過去に実績もなく、ミスが生じやすい修理、それもボーイング社の下請け会社が寸法足らずの中古品を継ぎ合わせ、日本航空の領収検査も形式に過ぎなかった実態が明らかになった。また、事故3日後の運輸省航空局(当時)によるB747の垂直尾翼及びラダーに関する一斉点検では、垂直尾翼と胴体を結合するボルトと方向舵の油圧装置取付金具に亀裂が発見され、垂直尾翼構造又は方向舵に重大な欠陥又は深刻な応力疲労が生じていた可能性が強く窺われる状況にあった。つまり、複数の要因が、それも相互に影響して垂直尾翼及び胴体尾部を喪失する異常が発生し、操縦不能の危機的事態に発展した可能性を疑う余地が十二分にあったのだ。

(1)盲点となった機体の疲労

 事故機のB747SR-100型機は、本来国際線用に設計・製造したジャンボ機(LR型機)を、日本の国内線用にギャレーを撤廃し、座席数を大幅に増加して製造した機体であり、乗客の犠牲が多かったのは、こうした背景があった。そもそも国内線で運航されるSR型機は、急激な上昇と降下を繰り返すので、乗客の快適性のため、客室与圧を高く設定していた(事故後、運輸省航空局が是正を勧告)。SR型機は、国内近距離の運航なので、飛行時間は少ないものの、日に多ければ5回も運航するため、飛行回数は飛躍的に多い。B747は、長距離国際線での運航を想定して製造した機体であったので、飛行時間は多く飛行回数は少なく設計され、耐用命数は60,000飛行時間、20,000飛行回数であった。事故機の飛行時間は、25,030時間であったものの、飛行回数は既に18,835回に達した経年機であった。つまり、設計で予測もしていなかった早さで機体は疲労し老朽化が進んでいた。しかも、事故機は前述した隔壁の修理ミスが重なっていた。しかも、事故発生までの7年間、日本航空は日常の点検や定期整備をしていながら、この修理ミスを見過ごし続けた。更に、修理ミスの影響と見られる不具合の兆候(上空で化粧室のドアが閉まらない、上・下方向舵がズレる。)も発見されていたのだが、根本原因が特定しないまま、定時運行を最優先する経営方針のもとマイナートラブルとして持ち越されていた。こうした事態に至った背景には、当初SR型機の整備プログラムが提供されず、国際線用のB747と同一であったこと、SR型機は日本だけ(日本航空が先行導入)であり、他の航空会社から整備上のデータが得られなかったこと、構造検査が他のB747を含め、飛行時間が多い機体を対象とした抽出検査であったことなどがあった。端的に表現すれば、事故機は機体の経年変化による不具合を発見、修理する構造検査の対象外であったことを意味していた。

加藤寛一郎『壊れた尾翼』講談社(2004 年)図51 を編集

 運輸省航空局は、事故後の日本航空への立ち入り検査の結果、SR型機では抽出検査方式を止め、「全機18,000与圧飛行回数以内を目途として、可及的速やかに総点検を行うこと」などの業務改善勧告を行い、加えて、次の問題点を指摘した。
①  老朽機、SR機に対する整備上の配慮が不足していた。
②  発見した不具合(前述のマイナートラブル)の系統的技術評価が、不十分だった。
③  オーバーホール(下表のD整備のこと、後継機のB747-400型機では、M 整備と名称し改めた。)をしない、構造検査は抽出検査で、(C整備で)分散して実施する、整備間隔を延長するなど、経済性優先の整備体制を敷いていた。
 これらを踏まえ、日本航空は、再発防止策として、
①  機齢の古い機体は検査間隔を短くした。
②  飛行時間による項目と飛行回数による項目に分け、検査間隔も見直し た。
③ 大規模な構造修理を行った部位は、後も一定期間重点的に繰り返し検査するよう見直した。

機種毎の整備間隔

 これらは、何か特別なことに見えるかもしれないが、次に示す航空自衛隊における「品質管理の基本」、「整備の原則」と要点は変わりないものでありながらも、その意義、重要性を再認識させられる。
① 「装備品の品質上の特性に適合するよう、適切な作業実施項目の選定と適正な実施間隔の設定、更に見直しが重要」である。
② 「飛行任務、安全確保に寄与するため、故障発生を未然に防止するべく、計画整備(計画性の保持を含め。)を重視」する。
 更に、日本航空が事故後の対策の一環として、個々の機体に対する整備士を任命する機付長整備士制度を導入したことは、航空自衛隊における「機付長としての任務の重大さ」に改めて気付かされるものであったが、残念なことに同社は、1995年にこの制度を廃止した。この事故は、同じ型の航空機でも、個々の機体の老朽化の進行度合いは、運航の環境や機体の使用状況とともに、修理歴の有無、予防整備の質・頻度など、様々な条件で異なる現実を示している。例えば、航空自衛隊の例で恐縮であるが、大型機に搭載してあるAPU:補助動力装置(ジェットエンジンを起動するために必要な圧縮空気の供給するとともに、駐機中における照明などへの電力を供給する。このため、離陸後は通常使用を停止する。)の場合、用途廃止となったC-1輸送機では暦日(正確には始動回数)で定期交換する品目として管理していたが、同じ型式のAPUを搭載する一部のYS-11型機では、任務の特性上飛行中に大きな電力を供給する必要があり作動させ続けているため、飛行時間で管理していた。ちなみにC-130はオンコンディションの取り扱いであったが、当然のことながら、故障の発生が頻繁に生じていた。このように、航空自衛隊では不具合の発生状況や品質検査結果等の分析に基づき、各種改善手続きを活用することはもとより部隊対策の推進を適切に行っている。

(2)コスト優先の死角に潜む危険性

 ジャンボ機の安全神話は、デビュー直後の1971(昭和46)年、サンフランシスコ空港離陸時に起きた、パンアメリカン航空の事故がきっかけだった。離陸時に地上の鉄塔に接触し、ギアが機体に接触して油圧3系統を破損したが、残る1系統で無事生還を果たしたのであった。世界有数の航空会社、それもB747の開発要求元であったこともあり、宣伝効果は絶大だった。B747が設計製造された1960年代後半~1970年代前半は、米航空機製造メーカ(軍需産業)は、ベトナム戦争収束の余波を受け、深刻な経営危機に瀕していた。一方で、マクダネル・ダグラス社(DC-10)、ロッキード社(L1011、通称トライスター)、ボーイング社(B747)の3社が、大型旅客機の熾烈な販売競争を繰り広げていた。ボーイング社は、この時期、僅か3年間で従業員の約62%(このうち技術者が実に66%)を解雇しつつ、分業システムを導入し詳細設計と製造を他社に任せ(後に偽造部品の温床となった。)、通常は5年かかるFAA(米連邦航空局)の型式証明を、パンアメリカンとメインバンクからの要求に従い僅か3年で取得した。この際、胴体はノースロップ社が、圧力隔壁を含む尾部はLTV(リング・テムコ・ボート)社が設計・製造を担当したが、事故機に異常が発生したのは、正に両社のつなぎ目であった。しかも、上・下方向舵とともに、大半を失った垂直尾翼の構造は、製造を容易にするため、垂直尾翼の下端と後部胴体上面部を72本のボルトで結合しただけで、他社と異なり、胴体にしっかりつなぎ止める「桁」が無かったのだ。

『航空情報 1985 年11 月号』P37 の 図等を編集

 一方、日本航空も1980年代に入ると、高価なB747はエンジン4発を備え燃費が悪く、オイルショックによる燃料費高騰の影響で、経営の重荷になっていた。経営状態は悪化し、ボーイング社と同様に従業員を削減したが、更にコスト削減の効果が大きく見込める整備分野では、整備間隔の延長、重整備(構造検査等)での作業時間短縮などを推し進めた。このようにして、整備の現場では、隔壁の修理ミスとともに、機体の疲労による不具合を見落としてしまいやすい作業環境に大きく変貌させてしまっていた。皮肉にも、油圧を4系統にして冗長性を確保したとして、機械式操縦(操縦索)を撤廃したのは、B747が世界初であった。このように革新的技術は、コスト、効率、利便性、快適性などの面で大きな効果が期待できるが、一方で過去のデータ、経験則がないため、相応のリスクが生じるものであることが社会的に理解され難い状況にある。

(3)安全施策推進の障害

 1974(昭和49)年、パリ郊外でトルコ航空DC-10が急減圧の発生により床が崩落し操縦系統が全壊し、墜落する事故が発生した際、他の大型旅客機に同種事故が発生しやしないか懸念が及んだ。FAAは、航空機製造メーカに対し抜本的対策をとるよう警告したが、猛反発で見送られていた。ボーイング社は、FAAからのB747の設計に関する再点検の要請に対し、「B747の油圧配管は、床下を通っているが、コントロールケーブルは(DC-10と違い)通っていない」と強硬に主張していた。しかし、この床下を通る油圧配管が、後部圧力隔壁の下部一カ所でまとめられて通り、水平尾翼と上・下方向舵の油圧装置まで集中して配置され、ここが破壊されると油圧を全て喪失するという致命的な欠陥が潜在していた。後知恵ではあるが、この時点で、ボーイング社が当事者意識をもって問題解決に取り組んでいたら、技術者は油圧の漏えいを止めるヒューズを取り付けたり、配管を分散するなどの対策を施して、御巣鷹山での惨劇は避けられたのではなかったか。
 1972(昭和47)年6月12日、アメリカン航空DC-10の機長は、同種事態に際し、左右エンジンの推力差を利用して操縦し生還をしたが、機長はこの事態を予め想定しシミュレータで訓練していた。しかし、日本航空はパイロットの訓練に油圧喪失による操縦不能のシナリオを追加することはなかった。このように、ある事象が、まだ事故になっておらず、現実に負傷者や被害をもたらさないと関心が向けられない。これを、「墓石安全(墓標安全)」という。言い換えるなら、不安全状態が発見されても、これを是正することで事故を必ず防止できるとは限らないため、コストを要する安全施策の推進が妨げられる一面を示すものであり、サービスとコストの間で安全の確保をいかに図るかという根本命題でもある。こうした点において、安全の確保には人的物的資源の決定権を有するトップマネジメントが肝要であるとともに、個人を不安全な判断や行動に誘引しない安全文化がきわめて重要なのである。

(4)事故の本質

 これまで見てきたように、御巣鷹山の事故では、B747の各システムの間隙を突いて異常が発生し、マネジメントの不手際や組織体質などが影響し、事故の発生を防ぎ得なかった。つまり、航空機のような巨大システムでは、様々な人のエラーが重なって危機的事態に発展し事故に至り、多くの人命を奪う。これを踏まえるなら、飛行安全の確保には、航空機等装備品の設計・製造・修理に係る部外関係者を含め、調達、輸送、保管、整備、補給、施設、通信、運航などの面で全ての人が関係するのであり、個々の部署や職域などの縦割り、セクショナリズムに陥り、他機種、他航空会社の話だとして無関心になったり、マニュアル任せで他人事にしてしまっては、安全確保はなし得ないことを銘記すべきである。
 一方で、福島原子力発電所の事故のように、大きな事故や災害が起きると、安全神話の崩壊とか想定外だったと頻繁に報じられるが、技術者や専門家に安全だと宣言されてしまうと、思考が停止してしまい事態を想定しないため、対処の準備がなく、却って被害が大きくなる面がある。現在の日本社会にあっては、インフラの老朽化の波が押し寄せ、自然災害も頻発しており、システムないし組織全体を俯瞰的に捉え、個々の間隙に存在する不安全状態、弱点などを抽出し、周囲の理解を得て改善のための合意形成に貢献できる人材を育成することが求められていると考える。更に、当時の報道を振り返るに、事故による重大な結果と修理ミスやパイロットの高給を釣り合わせ、「なぜ、墜落したのか」と、個人の責任を追及する「裁く社会」であったように今も感じることが多いが、これから先の日本は、「どのようにしたら、事故を防げたのか((安全管理)」に加え、「なぜ、多くの人が助からなかったのか(危機管理)」を併せて追究するような「失敗から学ぶ社会」へと成熟することが切に望まれる。
 先日(2026年5月6日)福島県郡山市の磐越道で、新潟市高校ソフトテニス部員20人が乗ったマイクロバスがガードレールに突っ込み、3年生の男子生徒が車外に投げ出されて死亡した他、運転手を含む18人が重軽傷を負った事故が発生した。事故後の報道では、バス会社の営業担当から知人を通じて運転を頼まれた運転手の男が、客を乗せるのに必要な2種免許を持っていない上、最近は事故を繰り返していたことが明るみになったり、バスも自家用などに使う白ナンバーのレンタカーで、学校、バス会社双方の安全管理の欠如と無責任な組織体質が問題点として浮かび上がり、これらの点ばかりが注目されている。しかし、死亡した男子高校生が車外に投げ出された直接的原因の一つに、車に突き刺さったガードレール両端の形状や構造に問題があると考える必要があるのではないだろうか。仮に、バスが運転手の操作ミスでガードレールに衝突したとしても、バスがガードレールに突き刺さり、バス後部まで突き抜けてしまうような事態を防ぐことができていたら、高校生は車外に放り出されなくて済んだはずではなかったか。一度大きな事故が起きると、過熱する報道に煽られ、犯人探しばかりに躍起になり、こうした観点で事故防止、安全について冷静に議論する国民性がないのが、より深刻な問題ではないだろうか。

3 御巣鷹山で無事故を誓う

 航空安全管理隊での教官勤務の折、学生の課題研究のテーマとして御巣鷹山を選定し、実際に事故現場を幾度となく訪れたが、村役場の協力を得て、生存者救出に当たった消防団の方々から直接語って頂く機会を設けた。書籍を読むだけでは分からない凄惨で苛酷な状況に、航空事故が与える影響の大きさ、苦しみを改めて実感した。当時、消防団、警察、自衛隊によって、生存者4名が翌日に救助されたものの、事故当日は夜間で墜落現場の特定が遅れ、奥深い山々に進路を阻まれ、迅速に救助できなかった。「もう少し救助が、早かったら」という声は、ご遺族のみならず、捜索救助に当たった関係者も無念な気持ちで一杯であったであろう。山岳地が多い日本で、今また航空事故が、それも夜間だったら、警察、消防、自衛隊の装備はもとより、訓練や手順など、万全と言い切れるのだろうか。標高1,565mに位置する御巣鷹の尾根は、上野村中心部から約20km、現在は車なら30~40分で麓の駐車場にたどり着く。しかし、当時は、幅の狭い道路が、それも途中までしかなく、救助に当たった隊員は、3~4時間をかけ、沢づたいに徒歩で現場に向かった。今でこそ、階段と手すりがついた参道が整備されているが、当時は30~50°もある道なき急峻な山腹を、残がいと木でこしらえた担架で数時間かかって生存者を運び上げた。御巣鷹の尾根は、幸いにも国有林であり、黒く焼け焦げた樹木や岩が当時の姿を残し、尾根の手前に位置するU字溝と名付けられた、事故機によって深くえぐられた樹木の隙間は、枝葉の生長とともに、はっきりとは見えなくなっているが、僅かながらに事故当時の状況を今に伝えている。

「昇魂之碑」から望むU字溝

 尾根の頂上にある「昇魂之碑」に至る参道脇には、ご遺体が収容されたそれぞれの場所に一人ずつの木製の銘標が立てられている。事故は、お盆前の帰省時期であったので、子供の銘標も少なくなく、初めて目にしたときは、しばし誰もが声を失う。傷みや倒壊が目立つようになった銘標は、経過した歳月の長さを物語っている。時折、墜落時の衝撃で地中深くに埋まっていた部品などが、色あせないままに、偶然に発見されることがあるが、事故のことを忘れないで欲しいと私たちに語りかけているようである。
 また、村中心部には犠牲者を弔う「慰霊の園」と称する墓地がある。山間地のため、平地が無く、人々が土地を供出して、日本航空、県の支援、村の予算を加え整備したものである。ここには、個人を特定できなかったり、引き取り手がない数多くの遺骨が、手厚く葬られている。事故直後の捜索救助活動はもとより、このような村の対応は、故 黒沢丈夫(海兵63期、元海軍少佐、零戦飛行隊長)村長の存在が大きかったと、墜落現場を訪れる度に想いを強くしたのであった。
 おわりに、123便事故に関心をお持ちになり、御巣鷹の尾根や日本航空の「安全啓発センター」を訪れて頂く機会となったのであれば、幸甚です。



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keen 誠にありがとうございます。大変恐縮しております。ご期待にお応えできますよう引き続き頑張って参ります。ご声援のほど、どうぞよろしくお願いいたします。