航空自衛官が追う日航123便墜落の真相 御巣鷹山事故論争に終止符を打つ ①
第1部
1 問われ続ける『報告書』の意義
1985(昭和60)年8月12日(月)日本の空は、突如として未曽有の航空事故に見舞われた。事故機となった日航ジャンボ機(B747SR-100型/JA8119号機(※1))は、123便(※2)として大阪伊丹空港に向け、定刻より12分遅れで18時12分頃羽田空港を離陸した。左の機⾧席には機⾧への昇格訓練のため副操縦士(39歳)が、機⾧(49歳)は右席に就き、航空機関士(46歳、「FE」)が中央後方の席に乗務した(※3)。JA8119号機はこの日実に5回目となるフライトで、機⾧と副操縦士は、当該機の乗務はこの日初めであったが、FE は123便を含め3便続けて乗務していた。前便は福岡発羽田行きの366便で、羽田空港での駐機時間は50分であった。18時24分頃事故機は、高度約7,300m(23,900ft)、速度約800km/h(430kt)で相模湾上空を伊豆半島南端の下田方面へ向かって飛行中、機体に何らかの異常が発生した。
『報告書』は、このとき機体は方向舵を含む垂直尾翼の大半と補助動力装置(「APU」)を含む尾部胴体が脱落し、これに伴う油圧配管の破断により操縦不能の事態に陥ったと推定した。事故発生当時、東伊豆河津町周辺では上空で大きな爆発音を聞いたとか、その瞬間を目撃したと答えた人が複数名おり、中には休憩中だったタクシー運転手が、「雷のような(ドカーン)という音」、「機体の後部(垂直尾翼付近)から灰色の煙を出していた。」、「煙はバスが急坂を上るときに出す排ガスの色のようだった。」などと、原因の究明に極めて重要な手がかりとなる内容を証言していたが(※4)、事故調はこうした事実を報道などで知りながらも、前便(366便)の乗員乗客と同様に聴取をしなかった。しかし、366便の乗客の一人は通常とは異なる機体の揺れやきしみ音とともに振動などの異変を感じ取っていた(※5)。
機⾧らは右旋回で羽田への帰還を目指したが、32分間の苦闘の末、18時56 分頃機体は群馬県多野郡上野村の山中(通称御巣鷹の尾根)に激突、大破炎上した。折しも、お盆の帰省時期であったため、家族連れの帰省客や出張帰りの会社員などが多く、日本だけに向け国内便仕様として製造された機体(「SR 機」、ショートレンジの略)は、当時世界最多の528座席であったことも災いし(※6)、乗客乗員520名の尊い命が奪われ、生存者は僅か4名に過ぎなかった(※7)。事故後、専門家を自称する元パイロットの中には、羽田(東京湾)に戻る際に左旋回していれば、海上への不時着水による生還の可能が高かったのではないか?などともっともらしく解説し批判する者も数多くいたが(※8)、それはじ後に操縦不能の事態に陥る事実を知っているからこその後知恵であり、機⾧が現に操縦している側の右に旋回するという判断はどのパイロットであっても無理のないものであった。
当該事故の調査は日本の事故調に加え、米調査団として米連邦航空局(航空行政機関で日本の国土交通省航空局に当たり、航空機の製造、運航などを監督指導する政府機関、「FAA」)及び国家運輸安全委員会(日本の事故調、現在の運輸安全委員会と役割は同じだが、独立性が高く事故調査の強い権限を有する。「NTSB」)、ボ社が協力する形で行われた。事故調は事故原因を、「隔壁(直径4.56mのお椀形の蓋、厚さにして僅か0.8~0.9mm のアルミ合金製)が、事故7年前の大阪空港で機体後部が滑走路に接触した尻もち事故の後、下半分だけを交換して上半分に継ぎ合わせる修理をした際の不適切な作業に起因して損壊し、引き続いて尾部胴体、垂直尾翼、操縦装置に損傷が生じ、飛行性能の低下と主操縦機能の喪失をきたしたために生じたもの」との見解を示した。なお、隔壁の破壊から垂直尾翼の崩壊までに要した時間は0.3秒と推定したのであった。

しかし、事故原因と推定した隔壁の破壊と「隔壁の破壊→ 客室の与圧空気噴出→APU を含む尾部胴体の損壊・垂直尾翼→油圧系統破壊→操縦不能→墜落」という破壊プロセスの見立て、筋書きでは事故の全容はまるで見えてこない。

現に、『報告書』提出前年の1986年4月25日『報告書(案)』に関し開かれた聴聞会の席上、東京大学工学部の小林繁夫教授(当時)は、「数値的に力学的な根拠など本質的なことが何も示されてはいない」と指摘、「専門家が納得いくような事故原因究明結果を出していただくようお願いする」と意見した。群馬県前橋地検の担当検事(当時)も、「修理ミスが、事故の原因かどうか相当疑わしい」、「事故調査報告書も曖昧」とするなど受け止め方は冷ややかで、8.12連絡会はもとより日本乗員組合連絡会議(国内定期航空の機⾧、副操縦士、航空機関士等が組織する各組合の連絡会議。「日乗連」)は、「事故調査報告書を出されて終わりではない。」との決意で、この後も⾧きにわたり、再調査ないし更なる原因究明を求め続けたのであった(※9)。
2 事故の責任追及を巡る日米対立
事故発生の翌13日新聞各紙は、事故機の「R5(機体右側5番目、最後部)のドアが破壊した」と一斉に報じた。これは事故機のFE が、社内無線で、「R5 のドアがブロークンしました。」と連絡していたことを記事にしたものであったが、当該ドアは機体に取り付いたまま墜落現場で発見された。他にもテロや天候急変などの可能性に言及する記事もあり、事故発生当初NTSBもテロの可能性を疑ったほどであったが、それほどジャンボ機の安全神話は根強く(実際は他社製の同型機に比べ利便性や経済性に優れていただけであるが)(※10)、事故の発生はその崩壊を意味した。この事故は日本社会を震撼させ、旅客数は急減し容易に回復しなかった。むしろ123便事故は、安全神話という「絶対安全の幻想」に惑わされやすい日本社会を象徴する事故として記憶に留める必要がある。現に先の福島原発事故が、そうであったように、われわれは権威ある専門家や技術者が絶対に安全と宣言すれば、思考が停止してしまい、危険な事態を全く想定しなくなる、いわば想定外になるので、対処のための事前準備がなく、却って被害が大きくなる点はいずれの事故にも共通している。
翌14日付各紙は、早くも事故発生の7年前の尻もち事故による影響と事故との関連性とともに、米調査団の来日を報じた。そして、事故原因の究明に極めて重要なコックピット・ボイス・レコーダ(操縦室内の乗員の会話を録音、「CVR」)とフライト・データ・レコーダ(操縦状況や飛行状態を記録、「FDR」)が墜落現場から回収され、尾部胴体、垂直尾翼、方向舵などの一部が、事故現場である相模湾周辺で発見されたという事実のみを伝える報道が続いた中、同日夕刻、日航が突如として記者会見を羽田で行った。前日に救出された生存者4 名のうちの一人である落合由美さん(当時日航アシスタントパーサー。事故当日は乗客)が病室で語ったとされる内容(「落合証言」)が公表されたことにより、過熱する報道合戦は事故調や警察関係者を巻き込み、思ってもみない方向に急展開したのである。これによって、「バーンという音」、「キャビン内が真白」、「酸素マスクがドロップ」などの証言の一部が各紙の見出しを賑わし、客室内に急減圧(機内の気圧が外気圧にまで急激に低下する事象)という異常事態が発生した印象が一気に広まった。日航役員による落合さんへの見舞いを装い、会見を行うために行われた聴取(※11)(14日午前10時30~40分)は、事故調による聴取後であったとはいえ、警察の聴取前に無断に行われたこと、更に聴取の資格、経験もない者が第三者の立ち会いもなしに行われており、明らかに不法だった上に、会見で落合さんの証言として説明されたダッチロール(※12)とかベントホール(気圧調節用の孔のこと)が開いたなど、これらの専門用語はアシスタントパーサーには聞きなれないもので、事実落合さん自身も、「ダッチロールという言葉は知らなかった。私の座席からはベントホールは見えない。」などと後に否定したことから、信憑性が大きく疑われることになった。こうした日航の行為に対し、航空の危険を生じさせる行為等の処罰に関する法律違反及び業務上過失致死傷罪の容疑で刑事事件として捜査に当たっていた群馬県警は、「捜査妨害」、「証拠隠滅」のおそれがあると日航に抗議する一幕もあった。
翌15日運輸省航空局(当時)は、事故調査とは別に飛行安全を確保する観点から、国内航空会社に対し、B747の方向舵を含む垂直尾翼に関する一斉点検を指示した。これは、相模湾上空で脱落し、洋上や海岸で回収された事故機残骸や収集した情報などを踏まえ、垂直尾翼に事故原因の濃厚な疑いがあると独自に判断したからであった。この一斉点検は、正鵠を射たもので、点検結果はB747を先行導入した日航の機体に不具合が集中していた。日航だけで、41機のうち23機に垂直尾翼下端を後部胴体上部の取付部と結合するボルトに折損や緩み、発錆が、胴体取付側金具と方向舵アクチュエータ取付金具には亀裂が認められ、計35箇所の不具合が発見された(※13)。

この一斉点検によって初めてこの種の不具合が発見された事実は、サンプリング方式による構造検査では重大な見落としがあるという現実を示すものであった。と同時に、事故機に腐食や与圧による応力疲労による深刻な不具合が生じていた可能性、若しくはB747の垂直尾翼構造に重大な欠陥があることが強く疑われ、FAA が認定した耐空証明の信用を揺るがしかねないものであった。しかし、翌16日付各紙は、経営への影響を回避したいボ社が、先のB737MAXの墜落事故の際の初期対応がそうであったように、「(ベストセラー機の)ジャンボ機の安全性は高く、構造上、尾翼に問題はない。」と全面否定したことで、日本の報道では一転して取り扱いが小さくなり事故原因の焦点とならず、一部が機体の老朽化による事故の可能性を報じるに留まった。これは皮肉にも、1966(昭和41)年2月4日B727(全日空)羽田沖墜落事故において、木村秀政 氏率いる事故技術調査団による調査開始直後に、ボ社が、「(最新機の)B727の構造や性能には問題はない」と発表し、この米側の企業防衛と思われる動きに翻弄され、事故調査官らが思考を放棄していく状況と酷似していた。つまり、羽田沖の墜落事故と同様に、123便事故の調査が様々な利害関係や信用問題、面子あるいは確執ないし駆け引きみたいなものによって妨げられ、紆余曲折を経ることになる行く末を、このとき既に暗示していた。この後、ボ社のもくろみとは裏腹に、海外ではB747の安全性に対し根底から疑念を生じさせる深刻な不安となって急速に拡がり、FAA が同型機の緊急点検並びにボ社への技術検討を命じることとなり、1988年4月28日、B737アロハ航空243 便の天井脱落事故を機にボ社、FAAともに経年機対策に奔走させられることになる。
同16日、FAA東京駐在官のデニス・ウィルハム氏が、事故調事務局を突然訪れ、「隔壁が壊れた可能性があり、よく調べて欲しい。現場にそう伝えて欲しい。」と発言し、直後に事故調査官と群馬県警が墜落現場で隔壁を確認した。すると、事故調は、「客室内部の空気圧で隔壁が破損し、垂直尾翼を吹き飛ばした。」との仮説(「隔壁破壊説」)が有力であるとの見解を急遽発表した。信じられないことに、事故発生後の僅か4日目、前日にCVRとFDRを警察から借り受けたばかりで未解読の段階でのあまりにも唐突すぎる公表であった。このため、米国の圧力が影響したと疑われるようになるのは当然のことであった。一方で、事故の責任分担を過度に意識するあまり、ボ社は、「日航が客室与圧を高く設定して運航していたのが問題で、SR機を構造検査すべきと伝えていたと主張」すると、日航は、「ボ社からSR機に対する点検の具体的指示はなく、対応に不満」と相互に不信感を顕にした。しかし、時代は新世代旅客機のB747導入以降、従来の予防整備を主体とするオーバーホール方式やオン・コンディション方式に替わり、信頼性管理整備方式(コンディション・モニタリング方式)が普及して久しく、同一機種に発生する不具合や定期整備などで発見された機体の経年劣化について、航空会社といえども、製造会社と他航空会社との間で情報交換を行い、安全面で相互に補完しなくてはならない制度、体制にあった。それにもかかわらず、実際は理想にほど遠い意思疎通の状況にあったのであり、そうしてできた間隙に事故に至る要因が潜んでいたことを如実に物語っていた。
当時日航の整備本部⾧であった十字覚氏は事故直後の朝日新聞の取材に、「事故機の隔壁は昨年12月に念入りに点検している。ベテラン検査員が見たが、異状はなかった。あの部分は客室内のタバコのヤニが付着しやすく、仮に亀裂が入っていたとすれば、そこが浮き上がるので最も発見しやすい場所だ。したがって、隔壁に亀裂があり、破壊につながったというのは、あり得ないと考えている。バーンというのが何の音だったかは分からない。」と答えていた。しかし、B747就航直後に発行された航空雑誌の記事を見れば、「1 機70~80億円もするB747は飛行せずに地上にいても1 機あたり費用として数百万円が消し去られる。」「地上休止日数を最小にすることに焦点を当てた経済性の高い整備方式」で、「極めてフレキシブルな点検整備であるため、機体内部構造の検査を含め、ほとんどの定例作業を定時点検整備のチャンスに分散実施するとの結論に達した。」など、他社に先んじてB747を導入した日航整備関係者の浮かれた当時の言葉から分かるとおり、金のかからない整備方式との都合良い解釈で杜撰に運用されていたのが実情であった。
現に、B747導入当初、日航は隔壁の点検など構造検査は重整備や改装を行うH整備(Hospitalization Maintenance)で行うとしていたが、『報告書』にも実施された記録がない。仮に隔壁の修理ミス、これに伴う疲労破壊を発見できるとすれば、ボ社が主張したとおり構造検査時に他ならなかったが、日航では、従来の機体(DC-8、B727)では、10,000ないし12,000飛行時間毎のD整備(定期修理のこと。作業日数は約3週間)で、構造検査、構成品のオーバーホールなどを実施していたものの、B747ではこれを廃止し、3,000飛行時間毎のC整備(系統ごとの機能点検、定期交換などの定期整備)に何回かに分散して構造検査を実施していただけであった。このため、作業期間が4~5日と短いことから、⾧時間を要する構造検査には十分な時間が与えられず、夜間などに回され、亀裂や腐食など経年劣化が見過ごされやすい作業環境にあった。しかも、その構造検査もボ社のB747整備要綱基準に従い20%のサンプリングで、例えば最初に引き渡しを受けた10機のうちから2機を抽出して検査していただけであった。結果として累積飛行時間が多い機、すなわち国際便使用のLR機(ロングレンジの略)が構造検査の対象となった。保有機36機のうち、事故機は19番目に就航した機体であり、構造検査の対象外であった実態が強く疑われる。つまり、事故機のSR機は累計飛行時間こそ、LR機には遠く及ばなかったが、離着陸(飛行)回数は保有機中5番目に多い上に、乗客の快適性のため、客室与圧を必要以上に高く設定して運用しており、事故機は尻もち事故の際の不適切な修理後もその影響を強く受け続ける状況にあった。整備本部は、このことさえも技術上見落としていた。現に日航では、SR型機を含め客室与圧セレクタ・スイッチの設定を8.9psiに常に選択して運航していたが、この場合、23,000ft以上で最大差圧の8.9psiに達する。日航は、SR機を伊丹空港発着の大阪-グアム間の国際線でも使用していたことも、理由にあったと考えられ、事故機も実際に運航されていた。当然のことだが、修理した隔壁はもとより胴体など、金属疲労による亀裂の発生や進展、窓やドアのシール部分の劣化は設計時の想定よりも早まる。特に、事故機のように飛行回数が日に5回など極めて多いSR機にとって、その影響は顕著なものとなる。事故後、航空局はSR機の客室与圧セレクタ・スイッチの設定を6.9psiに直ちに是正するよう指示したことからも、ことの重大さが分かるというものだろう。SR型機導入の際、日航では、常に8.9psiに選択した場合は、巡航高度に応じて8.9psiか6.9psiを選択して運用する場合に比べ、約6%程度疲労寿命が短くなると推定していた。B747の疲労強度試験20,000(与圧)飛行回数から、この6%分を減ずると18,800回となり、事故機の総飛行回数(18,835)と驚くまでに符合する。一方のボ社は、SR機の巡航高度が国際線のLR機よりも低いため、与圧の設定が6.9psiと小さくて済むことから、同機の飛行回数の疲労寿命は、LR機の20,000回より多い50,000回を想定していたのであった。この設計製造を担ったボ社と、その思想、想定に反して運航を行っていた日航側との間の認識のギャップは、深刻なものであり、事故の本質にかかるきわめて重大な点であった。
事故調も6.9psiでの運航なら、修理された隔壁の破壊は約30,000飛行回数が必要と試算していたにもかかわらず、国営企業で運輸省からの天下りも多かった日航を殊更に刺激したくなく及び腰になったのか、この点を問題視しなかった。しかし、事故当時日航は経営悪化に伴い人員を大幅に削減する目標を掲げ、コスト削減の効果が大きく見込める整備では、整備間隔の延⾧、重整備での作業時間短縮などを強引に推し進めるなど、「儲ける整備本部」を標榜するまでに変貌しており、事故発生の背景的要因に(放漫経営故の)尋常ではない大幅なコスト削減があったことは明らかであった。一方、運輸省航空局は、こうした点も見逃すことはしなかった。事故後、同局は日航への緊急立ち入り検査を行い、SR 機では抽出検査方式を止め、「全機18,000与圧飛行回数以内を目途として、可及的速やかに総点検を行うこと」などの業務改善勧告を行い、加えて日航のコスト優先の整備体制の問題として、
① 老朽機、SR機に対する整備上の配慮が不足。点検項目、点検作業のカ ードが不十分
② 損傷を受けた機体の⾧期監視プログラムがない。発見した不具合(マイナートラブル)の系統的技術評価が不十分
③ オーバーホール(D整備に相当)をしない。
④ 構造検査は抽出検査で、(C整備に)分散して実施、整備間隔を延⾧する。
などを指摘し、早期是正を求めた。参議院の運輸委員会でも、「日航のジャンボ機の高頻度運航(一月約150時間、一日約5.5時間)に対し、D整備の規定がないなどから、金属疲労に対する点検整備がなおざりだったのではないか?」と運輸省に対し厳しい質問を投げかけた議員もいた。日航はこれらの指摘を踏まえ、再発防止策として、
① 機齢の古い機体は検査間隔を短くした。
② 飛行時間による項目と飛行回数による項目に分け検査間隔も見直した。
③ (今回の隔壁修理のような)大規模な構造修理を行った部位は後も一定期間重点的に繰り返し検査する
など、点検整備を強化したと発表した。すなわち、こうした一連の行為が、事故発生前に確実に行われていたならば、仮にボ社の修理ミスがあったにしても、後の点検整備で不具合の兆候が発見され、早期に是正、排除されることで事故発生に至らなかったという、本来ならば『報告書』が導き出すべき結論、調査結果であった。然るに、事故調は、「整備技術(亀裂の発見)を向上する必要がある。」と、まるで事故機が隔壁の点検を含む構造検査が行われていたかの如く体裁を繕い、日航並びに経営陣の責任追及をあからさまに避けたのであった。
今後の調査の方向性が注目される中、同月18日事故調は早くもCVRの粗解読の公表を決定し、CVRの会話内容の一部がそのまま記事になった。事故調が、CVRの粗解読の概要を公表したことに対する牽制であったのか、この日FAAは山下徳夫運輸大臣(当時)宛てに在京駐日大使館経由で日本側の協力を要請する書簡(実際は日本の協力が得られないとする抗議が趣旨)を局⾧名で送った。翌19日米調査団に新たに加わったFAA技術担当のトム・スイフト氏が、隔壁の疲労亀裂が事故の主因と主張すると、当初米現地調査団の事実上の⾧だったNTSBのジョージ・サイドレン氏(元空軍少佐、パイロット)も、FAAとの対立を避けたいとの政治的判断からなのか、異議を唱えなかった。同月22日サイドレン氏に替わり新たに米現地調査団⾧となり、初めて事故現場入りしたNTSB調査官ロナルド・L・シュリード氏(大型旅客機の事故調査部門⾧)は、墜落現場で日本の藤原洋次席事故調査官をそっと呼び寄せ、「(修理ミスで)隔壁の継ぎ板の一部が短い。たぶん、(名刺の裏に図を書いて)こう打ってあるはずで、その辺りをよく調べた方がよい。」と語りかけ、「あなたがやるべき仕事は事故調の八田委員⾧に(ボ社の)ミスを伝え、事実を公表することだ。」と迫った。このときのやり取りについて、共同通信社堀越豊裕氏の取材に対し、藤原氏は、「確かに(シュリード氏が)名刺に書いて現場で見せられた。意図的に漏らしたなと直感した。大きなお世話だと思った。」と語りつつも、「生存者(落合さん)から客室のデコンプ(減圧)があったという話があった。隔壁が壊れたということになると話が合う。」、別の調査官に、「何もやらなくていい。隔壁だけをやればいいから、すべて集めろ」指示した。「理由こそはっきりしないが、隔壁に原因が潜んでいると確信した。」とも述懐した。かくて、仮説の一つに過ぎないはずの「隔壁破壊説」が、落合証言をきっかけとして動かしがたい事実かのように支配的になり、調査の方向性が決定されていくのであった。ちなみに、シュリード氏は、堀越氏の取材に対し、「スイフト氏は、事故現場に赴くことなく、大使館にいて、NTSBやボ社の調査結果の受け、調査方針なりを主導していた。」というから、米側の力関係がよく分かるというものである。
3 米側の思惑と報道に翻弄される調査
同月25日付の日経新聞が、「日航機事故、米側(FAA)、電算機で解析」との見出しで、隔壁に金属疲労が見つかったと大々的に報じた(※14)。

これは前日にFAAのスイフト氏が、ボ社技術員に隔壁の断面を墜落現場で採取させたことが発端であった。紙面上では機内の与圧された空気が噴出して垂直尾翼に流入し、垂直尾翼外板が左右対称にはがれ強度を失い、崩壊するプロセスが図解入りで説明され、後に事故調が追認した。これは再現映像のもととなり、テレビで繰り返し流され、人々の記憶に鮮明に⾧く残り、「隔壁破壊説」は史実の如く定着した。しかし、冷静に考えれば、この見解は落合証言に基づく急減圧発生の判定が前提となっていたことに加え、仮に隔壁に金属疲労があっても、上空での異常発生時に破壊したとは断定できず、これが事故発生の起点となったのかさえも特定できる証拠は何もなかった。また隔壁修理の際、たとえボ社の指示どおりにミスがなく作業が行われたとしても板を挟み込んで継ぎ合わせるという修理方法は、あくまで暫定処置に過ぎず、日航側が隔壁を交換した際と同程度の恒久処置であると都合良く勘違いしたことが明らかに間違いであった。この後、修理個所の亀裂や発錆を定期的に点検するなど特段の注意をしなかったら、用途廃止まで事故が起きなかったといえない修理の手法であったからだ。直言すれば、後にFAA が修理方法の指示内容そのものが不適切と指摘したとおり、半ば機体を支える構造部材であり、耐空性に大きく影響を与える隔壁を、それも修理実績もなく、修理したこと自体が適切ではなく、乗客の安全を最優先に考え交換をすべきであった。しかし、B747-100は既に製造を中止しており、隔壁の在庫がなく、-200 以降の隔壁は仕様(寸法)が変更されていたため、直ぐに交換して可動機とすることは叶わない状況にあった。継ぎ合わされた隔壁が寸足らずで、それも使用済みのものであったのはこのためである。最盛期のお盆を控え、できれば一刻も早くコストを抑えて運航可能としたいとの日航の経営判断に基づくものであったが、尻もちの事故機に機体後部の変形などが及ぼす深刻な事態の発生を想像すらしなかった。現に、「修理のために後部胴体の一部を取り外した(『報告書』)」状態のまま、非与圧状態ではあったが、伊丹から羽田まで平然と空輸さえ行っていたのであった。これが事故発生に深刻な影響を与えないはずがなかった。
123便事故から遡ること、約10年前の1974(昭和49)年3月3日トルコ航空981便DC-10がパリ郊外で墜落した。123便事故が起きるまでは、単独機の事故として乗員乗客346名もの最大の犠牲者を出した、忘れ得ない航空事故の一つで、日本人乗客も数多く含まれていた。著者と同郷の会社員も多く、地元では新聞、テレビなどで連日大きく報じられた。かくいう私の父親も⾧期の海外勤務で頻繁に国際便に搭乗しており、子供ながら、この事故の報道に接し言い知れない不安に駆られたものだ。この事故の概要さえ知っていれば、ワイドボディ機に急減圧が発生した際に操縦不能の事態に陥ることの危険性は航空機に携わる者であれば、誰でも比較的容易に想像できたはずだ。ボ社にしても、トルコ航空の事故の前年に起きた、同型のDC-10による重大事案(インシデント)に鑑み、FAAがB747に急減圧が発生した際の懸念を表明し、調査要請の書簡を送付した際、ボ社は不快感を顕わにし、「B747の油圧配管は床下を通っているが、(マクダネルダグラス社のDC-10と違い)コントロールケーブル(操縦索)は通っていない。(DC-10の)フェールセーフがなっていない。(B747に)問題はない。」として見解を変えなかった。つまり、大局的に見て、このとき123便事故の発生は予見されていたともいえるのであり、ボ社がこの時点で当事者意識をもって問題解決に当たっていたら、123便事故は最悪の事態を避けられたかもしれなかった。これは、ある事象がまだ事故になっておらず、現実に死傷者や深刻な被害をもたらさないと関心が向けられないという「墓標安全(墓石安全)」の典型であった。言い換えるなら、不安全状態が発見されても、これを是正することで事故を必ず防止できるとは限らないため、サービスやコストなどとの間で犠牲に(トレードオフ)され、安全対策の推進が妨げられる社会の現実を示すものであった。こうした点において、ICAO(国際民間航空機関)の「事故防止マニュアル(1984年版)」に既に示されていたとおり、安全確保には人的物的資源の裁量権を有する「トップマネジメント」が肝要であるとともに、個人の判断や行動を不安全状態に誘引しない「安全文化」が重要なのであり、日航、ボ社ともに全く不十分であった。かくて、123便事故においては米側では耐空証明を許可する側のFAAとボ社との力関係に加え、過去の経緯もあって、同種事故の再発防止策についてはNTSBやボ社による今後の検証に譲るとしても、耐空性に問題なしとするためのFAA主導による表向きの事故原因の究明は、既に方向性が決まってしまったものとなっていく。
同月27 日事故調は、第一回経過報告としてFDR記録の概要とともに、CVR の詳細を公開するのに伴い、ボ社に対し、「隔壁破壊説」の見解を非公式に伝えた。しかし、この段階でもボ社は、隔壁修理の実態を把握しつつも、「わが社の調査員が調べたところ、問題の隔壁は機体が地面に激突した際の衝撃で機体から分離したもので、金属疲労や腐食の兆候は見られない。このため、現時点で隔壁の破壊が垂直尾翼の破壊を招いた証拠はない。」と抗弁し、事故調の見解を認めなかった。すると、同月29日FAAのウィルハム氏とスイフト氏が、航空宇宙技術研究所(調布飛行場分室)を訪れ、待ち受けた事故調査官らに、「JAL FLIGHT 123 ACCIDENT 8/28/85」と題したスイフト氏の署名入りの手書きの資料を手渡し、「隔壁の破壊により垂直尾翼が圧力で破壊された。この際に油圧配管も破壊された。」との説明を再び行った。同時に隔壁修理の際の接合部などのイラストを示しながら、「隔壁を修理した部分のリベットが2 列であるべきところ、1 列しかなく、強度が十分ではないために破断した可能性がある。」とボ社の修理ミスを示唆した。FAAの二人は、この日事故調事務局にも足を運び、八田桂三委員⾧(武田委員⾧の前任。東大名誉教授、東大宇宙航空研究所⾧を歴任)らに同様の説明ないし説得を改めて行った。
こうした米側の動向、特に米航空業界を統括するFAAの事故調に対する働きかけやボ社の態度に、事故調のみならず日本の報道も、警戒や疑念を抱かないわけではなかった。事故調関係者の一部は、「(事故現場で何かを勝手に持ち去った)ボ社を信用できない。」とまで記者に対して言い放ってもいた。それが現実となったのが、同年9月6日付米ニューヨークタイムズ紙の報道であった。「事故は隔壁の破壊が原因で、飛行中に減圧が起きた。墜落現場で調査した結果、修理ミスが見つかり、隔壁の強度が不足していた。」とトップニュースで突如報じたのだ。当然ながら、米側はこうした事実を知り得る立場だが、ICAOの国際民間航空条約(通称シカゴ条約)第13附属書の規定で、調査実施の責任と独立性を有する日本側が事故原因を正式に公表する以前に、それも事故後1か月も経たない段階で、一方的に発表したことは公正で客観的であるべき事故調査に大きな支障をきたすものであり、明らかに不当、不法な行為であった。事故後40年余りが経った今では、当時現地調査団⾧だったシュリード氏がNTSB委員⾧のジム・バーネット氏の指示でリークしたものであったことが、前出の堀越豊裕氏による取材で明らかとなった。一方で事故調は、ボ社がここにきて当初の見解を一転させたこと、ミスをしても容易に認めず謝罪もしない欧米人の商慣習を考えれば、むしろミスを自ら認めた裏に隠された真意に思いを巡らすべきであっただろう(※15)。現にボ社は、「構造上の欠陥はない。修理の一部に不手際があったが、事故と直接関係はない。」とのコメントを付け加えることも忘れていなかった。このように123便事故にまつわる報道でも、事故調が調査、進捗度や公正性をアピールする必要性に駆られ調査状況を公表したほかに、日米双方が自分たちに都合がよい結論に落ち着くように情報を意図的にリークしたとしか考えようがない場面が度々認められたのである(※16)。
この頃、遺体収容や身元確認は難航し、報道各社は生存者の証言や乗客の遺書が物語る事故の壮絶さ、恐怖を執拗なほどに連日伝えていた。家族遺族の悲しみが深まり、事故に対する社会の憤りが増していく中、ボ社の修理ミスが原因と発表されたため、世の中の関心は原因の追究から責任の追及へ飛び火し、敵意に変わっていった。非難の矛先は専らボ社に集中したが、ボ社の技術力を無条件に過信した日航も修理ミスを見過ごし事故を招いたとして批判が弱まることはなかった。報道の更なる矛先は、生存者の捜索、救出に当たった自衛隊への批判に留まらず、機⾧らに向けられ誹謗中傷となって現れた。本来事故調査は責任論とは明確に区分して実施されるべきものであるが、日本では、「誰が、事故を起こしたのか」との如く事件の犯人捜しかのようなスクープ記事を求めるマスコミと熱しやすく冷めやすい国民性とが相まって、正常な事故調査が阻まれ、遺族の気持ちはまたしても置き去りにされていった(※17)。同月14日事故調は、第二回経過報告を行った後、翌10月9日八田委員⾧は病気による入院を理由に辞任し、武田委員⾧が就任、同時に委員4名のうち2名が任期満了を理由に、『報告書』を見ることなく新委員と交代した(※18)。後任の委員には、隔壁の修理ミスと事故の直接原因(垂直尾翼損壊に伴う油圧機能喪失による操縦不能)との因果関係を立証する仕事が残された。この二つの事実を結び付けるためには、「隔壁破壊説」の核心部分である客室における急減圧の発生を科学的に裏付けなければならなくなった。
4 杜撰な現地調査の実態
123便事故の調査が、「予断を持って行われた。」、「禍根を残した。」などと、今もなお疑問視され続けることとなった最大の汚点は、事故の発生現場である相模湾上空で事故機に異常が発生した事実があるにもかかわらず、海上や地表に落下した方向舵、垂直尾翼、APUを含む尾部胴体の残骸を、事故後速やかに捜索して回収しなかったことである。

残骸の回収、とりわけ異常発生時に機体から離散した残骸はまさしく事故原因の究明に必要不可欠な物証であり、これらの残骸を回収し慎重に調べれば、かなりの確度で事故原因の特定が可能であったにもかかわらず、実際に行われた残骸の捜索状況は、事故調査の基本原則(ICAOの事故調査マニュアル)から大きく逸脱したものであった。これは、1966(昭和41)年3月5日英海外航空(BOAC)B707 が富士山麓に墜落した際の事故調査で、運輸省航空局(当時)が行った現地調査と比較しても大きく見劣りがするものであった。123便事故では、奇しくもこのBOAC機の調査に携わった八田桂三 氏並びに武田峻 氏が、事故調査委員⾧として、竹内和之 氏が機体構造の専門委員として参加していた。細部は後述するが、ボ社特有の倒壊しやすい垂直尾翼構造の問題点については(※19)、少なくとも彼らの記憶の片隅に残っていてもおかしくなかったが、今回の調査に活かされるどころか、あえて言及を避けた調査結果となった。つまり、事故調関係者とボ社との奇妙な関係が見え隠れするのである。123便の事故の際にも、事故発生から僅か3日後の8月15日、NTSB職員とボ社技術員が、相模湾で回収された残骸が保管された神奈川県警第一機動隊(横浜市金沢区)を訪れた際、立ち会った警察官の証言によって、垂直尾翼中央部の板材の破断面と垂直尾翼と胴体との接合部を詳細に確認していたこと分かっている。
残骸の大半は、海水よりも軽く洋上に浮き、海上自衛隊艦艇が回収したり、海岸に流れ着き警察が押収したものであった。事故調自らが海上保安庁の測量船と海洋科学技術センターの作業船の協力を得て、相模湾の海底に沈んだ可能性がある残骸を、ソナーを使用して捜索したのは、事故発生から実に約3か月も経った同年11月1日~20日のことで、実質は僅か3日間で打ち切られた(※20)。当然ながら、方向舵など材質が軽い残骸の多くは、風や潮流によって流されたり、破損して散逸した可能性が高かった。したがって、時間が大幅に経過してからの捜索の開始、それも海が荒れる冬の時期に捜索して成果が期待できるはずもなく、何一つ発見されなかった。いわば、警察の犯罪捜査で初動捜査のミスにより犯人を取り逃がしたと批判されることに似ていた。そもそも、当初に捜索を行わなかったこと自体、報道陣からの「結論ありきの調査ではないのか?」との指摘に対し、事故調関係者は、「その(残骸回収の)必要はない」と即座に反論していた。この感情的とも思える発言に至った背景には、現地調査に割く時間、人員、予算に限りがあるなど、調査上の制約が影響したことに加え、FDRとCVRさえ解析すれば、急減圧発生の証言もあることから、事故原因の特定はできるはずとの慢心があったかもしれなかった。現に大蔵省(当時)の担当者が、「(調査)費用は、原因者の日航に持たせろ」などと非常識な発言を事故調査官に浴びせかけていたことから分かるように、航空事故調査に対する国の取り組みには当事者意識と責任感の希薄さが見て取れる。現に、年度当初の予算は2,700万円に過ぎず、事故後大蔵省からは2億2,500万円の追加予算を認められたものの、翌年度は(サルベージさえも行えない)6,700万円に再び減額されたことなどの実情が、北村行孝・鶴岡憲一共著『日航機事故の謎は解けたか』の中で明らかにされている。こうした見込み違いもあって、「隔壁破壊説」を裏付ける段階になり、様々な誤算が生じることとなった。結果、『報告書』において事故原因の解明に重要な点では、「その理由を明らかにすることはできなかった。」という苦しい釈明を臆面もなく繰り返すこととなったため、123便事故の調査は日米関係者の責任が問われないようにした政治的決着と揶揄されることとなった。次に示す記述は、『報告書』から抜き出し列挙したものである。公正で、客観的かつ科学的であるはずの『報告書』のイメージとかけ離れ、説得力を著しく欠く分析結果であった事実を示しており、信憑性が疑われる事故調査の実態を浮き彫りにさせるに余りあるものである。
① 異常事態発生以前における運航乗務員の精神緊張度の高まりを示す値が認められることから、この時点で、何らかの異常を感じていた可能性が考えられるが、「その精神緊張度の高まりの原因を明らかにすることはできなかった。」
② 「方向舵の残骸は回収されたものが少なく、(上部方向舵下面に取り付けられたゴムシールが下部方向舵の上面に強く押し付けられたことによる)痕跡の発生の経緯を明らかにすることができなかった。」
③ 「垂直尾翼の主要構造部材の破壊、リア・スパー(後ろ桁)の倒壊、方向舵の脱落が生じたと考えられるが、その破壊過程の詳細を特定することはできなかった。」
④ 「プレッシャ・リリーフ・ドア(圧力軽減扉)が開いたかどうかを知るための分解検査、試験等を行ったが、これを明らかにすることができなかった。」
⑤ 「運航乗務員が、緊急降下の意向を示しているのに緊急降下を行わなかったが、その理由を明らかにすることができなかった。」
⑥ 「教育訓練を受けている運航乗務員が減圧状態に直面しながらも、酸素マスクを着用しなかったと推定されるが、その理由を明らかにすることはできなかった。」
⑦ 「18 時42 分53 秒~18 時44 分43 秒にかけて、『おもたい』という運航乗務員の声が前後4 回にわたり記録され、かなりの大きな操舵力を必要としたことによるものと考えるが、これを明らかにすることはできなかった。」
そもそも、123便事故はそれまでの航空事故とは異なり、機体構造の破壊に起因する事故であった。多くの残骸が残された御巣鷹山は墜落現場であって、事故発生の起点である事故現場は、異常が発生した相模湾上空である。つまり、相模湾周辺に散乱した方向舵、垂直尾翼、尾部胴体等が飛行中に最初に破壊したのだから、これらを速やかに回収し、機体構造の破壊過程を調査するため、その残骸の分布状態を飛行経路に沿って記録する必要があった。その後、研究所レベルの詳細な分析を加えれば、疲労、応力、過荷重、腐食など、機体構造を破壊する引き金となった原因を特定する有力な手掛かりになったはずであった。更に、米空軍の「事故調査マニュアル」にも示されているが、一般に、「墜落現場で発見された構造物は、墜落の瞬間まで正常だったと推定され、疲労亀裂がある部品は墜落(の衝撃)により拡大する可能性が高い。」のであるから、墜落現場で回収され、じ後搬出のため切断されたりもした隔壁は事故発生に間接的に影響を与え得たとしても、事故の直接原因とは考えられない。つまり事故原因と目された、隔壁の亀裂は墜落時の衝撃による二次的損壊とするのが論理的に至極妥当であり、「隔壁破壊説」に当初否定的であったボ社の理屈と同じである。前出の堀越氏の著書『日航機123便墜落事故 最後の証言』には、1996年7月17日空中分解したTWA(トランスワールド航空)800 便ジャンボ機の事故調査に当たったNTSB調査部門トップのトム・ホエター氏が、堀越氏の取材に対し、次のように答えているところが大変興味深い。それは、「主翼の付け根(後に事故原因と特定される)にあたる機体中央部分が、離陸したニューヨークから見て一番手前に落ちていることが分かった。進行方向に向かって、(中略)、その他もろもろが順に見つかった。」、⾧年の積み重ねから、NTSBには経験則があり、「最初に落ちているものが、事故の原因を示していることが多い。」という箇所である。かくて、隔壁の修理ミスは、事故要因の一つではあっても、直接的な原因とはなり得ないのである。
5 残骸が語る墜落の真相
もし、隔壁が上空で破損したら、どのような状況であったのだろうか? 「垂直尾翼を吹き飛ばした。」ほどの強烈な客室内の与圧空気の噴出で、内壁のパネルや断熱防音材、客室内の新聞・雑誌や毛布など備品類、乗客の衣類、機内で子供に配られたぬいぐるみの人形などは機外に吸い出され、隔壁の一部も吹き飛んで四散したはずではないのか? しかし、洋上に浮き発見されやすい、これら機内の飛散物が相模湾周辺で回収された事実はなく、事故後遺族が公開した機内を撮影した写真にもそうした様子も全く窺われない。客室内の断熱材は、墜落現場に向かう途中で落下していた水平尾翼の中から多数見つかり、隔壁は一部の欠損もなく完全に原形を留めた状態で墜落現場で発見された。しかも、調査官が墜落現場に到着した際、隔壁は遺体捜索の妨げになるとの理由で捜索隊によって既に細かく切断され、発見場所と違うところに積み上げられていた状態であった。1 か月余り風雨にさらされた後の9月17日以降にもなって航空技術研究所の調布飛行場分室に搬入されたものを調査したのである。

『報告書』を読み解くと、相模湾上空での異常発生の際、尾部胴体と垂直尾翼が瞬時に(0.3秒で)崩壊したような説明ぶりだが、垂直尾翼の残骸は相模湾周辺で回収された以外に、FDRに記録された航跡(飛行経路)と重なった地点、(伊豆半島)静岡県賀茂郡松崎町の山林(1986年7月2 日、垂直尾翼のストリンガー94cm×5cm)、静岡県富士宮市朝霧高原(同年1月13日)、東京都西多摩郡奥多摩町日原(同年1月6日)など広範囲で後に発見され、事故当日には奥多摩で垂直尾翼が大きく失われた状態で飛行中の事故機が偶然に撮影された。こうした事実からは、事故調が主張したように垂直尾翼が相模湾上空で一気に機体から脱落したのではなく、飛行中に徐々に崩壊し山中に残骸が落下した状況がかなりの確度で推察できる。少なくとも垂直尾翼の主要構造部が未回収で、残骸の分布状況を調査していない以上、事故調が正確な崩壊過程を特定できるはずもなかったのである。

実は、これには後日談がある。2015年7月29日には、静岡県東伊豆町の沖合約2.5km、水深160mの海底で、123便の部品の可能性がある物体が発見され、テレビ、新聞などで報じられた。更には、2018年12月30日のインターネットのニュースとして掲載された週刊誌の記事によれば、123便の飛行経路上に位置する静岡県に暮らす農家の男性が、山中で123便の残骸らしきものを発見、駐在所の警察官に届け出たところ、区⾧が男性のもとに来て、「誰にも言うな。すぐに忘れろ」と言い出したため、男性は、「あの部品が、見つけちゃいけないものというか、見つかっては困るものだったんだと理解することにした。」ものの、ほどなくして、再度確認しに行くと、跡形もなく片付けられていたという。男性が警察官に話した後、「すぐに警察の車が何台も来て、それが終わったと思ったら、今度は自衛隊のトラックみたいなのが、真夜中に何台も来ているのを見たんだよな。あの時、きっと部品を引き上げていったんじゃないかって思うよ。」と証言している。しかも地元では大騒ぎとなり、新聞記者も来て男性が説明したにもかかわらず、ニュースや新聞にも出なかったというのだから、これが実話なら、実に不可解な事件であることは間違いない。
さて、事故調は垂直尾翼が破壊される際、翼内中央の点検口に流れ込んだ与圧空気により翼中央部の左右各3 枚から成る縦⾧の頑丈な外板(ストリンガー・パネル)が引きはがされたと推定したが、この外板は垂直尾翼の根元から頭頂部まで継ぎ目がないジュラルミン製の板材で、高さ9mの翼全体の強度を保持するため、前後2本の桁(スパー)を柱にして、ボルトのような太いリベット(鋲)に縦通材と小骨で強固に固定され、ボックス(箱)の形状により一体となって強度が保持されていた。その外板が、航空機整備の職にある著者が見た限りでは、右側は根元付近で強烈な力により後方に引きちぎられたように垂直方向にブツッと破断し、左側は右より高い位置で機体の外側に向かって折れ曲がった状態でギザギザに破断しており(左右で非対称)、垂直尾翼が左後方に倒壊した際に生じたような形状跡に見えた。細部は後述するが、FDRには現に相模湾上空で異常が発生した約1分後、左向きの横方向の加速度が生じ、その直後右向きの横方向の加速度が大きく現れた(垂直尾翼の左への倒壊、これに伴う反動で機体は右に40度30秒間も姿勢が傾いた。)ことが記録されている。また内部のハニカム構造は強烈な与圧で吹き飛ばされたという割には、与圧による内圧の急上昇の影響を受けた状態には見えず、直線的な破断やリベットからむしり取られたような膨らみ、ねじれのような痕跡が認められた。相模湾で発見された垂直尾翼前縁部の頂上部には顕著な凹みがあるが、これは飛散した方向舵か何かが当たった際の傷痕か、外れて海面に落下した際に生じた痕のように見受けられた。

当時これら残骸の公開は、1985年と翌86年の計2回、それも一部の航空関係者に限られていた。しかし、今では日航の安全啓発センターで一般公開されており、誰もが自分の目で直に確認することができ、遺品、残骸の数々は事故の様子を静かに語りかけてくる。これは、事故の教訓を風化させてはならないとの想いから、8.12連絡会が中心となって働きかけを行い、(柳田邦男氏ら安全アドバイザリーグループの提言もあり)、実現したものだ。これらを詳細に調べれば、それも材料工学、力学などの学者、機体構造、安全工学などの技術者、研究者であれば、どのような破壊の経過をたどったか、当時の技術であっても数値的な裏付けをもって、推定することはそれほど困難なことではなかったのではないかという気持ちが自然と湧き起る。元運輸省航空局航務課調査官の楢林寿一氏は、「垂直尾翼の破断面などを見ましたが、左側の外部からとてつもない力が加わったことを示しています。海上で発見された垂直尾翼の前部上方部分には、左側から強大な圧力にもぎとられた証拠が歴然としていました。」と当時雑誌の取材に答えている。こうした特徴のある物的証拠がありながら、『報告書』では、「破壊過程の詳細を特定することはできなかった。」と記され、垂直尾翼や胴体尾部にどのような応力や荷重がかかって機体構造が崩壊し、油圧喪失による操縦不能の事態に発展し得たのか科学的に解明はされずに、曖昧なまま、疑念だけが残ったのである。それもそのはずで、実物大の垂直尾翼の模型を使用して破壊実験を行ったのは、『報告書』の案がとりまとめられ、公聴会が開かれた後のことであった。 (第2部に続く)
■ 注釈及び補足説明
(※1) 製造番号は20783で、230機目の製造、型式はSR-46、初飛行は1974年1月28日、納入は同年2月19日。事故までの総飛行時間は25,030時間、総飛行回数は18,835回(隔壁修理前:6,516回、後12,319回)。前回のC整備後の飛行時間は1,700時間、同飛行回数は1,240回であった。
(※2) 事故後、日航は123便という便名を欠番とした。
(※3) 機⾧は海上自衛隊出身、総飛行時間は12,423 時間(B747 では4,842時間、11年)、査察操縦士の資格を有していた。副操縦士は航空大学校出身で、総飛行時間は3,963時間(B747では2,665時間)、航空機関士は、総飛行時間9,831時間(B747では3,846時間)であった。
(※4) 後に事故調は客室の与圧空気が漏れた証拠、水蒸気であると都合よく主張したが、目撃者は飛行機雲を見ていないので、空中で霧状になった作動油かAPUの燃料が発火、爆発した際の煙の可能性が高いと考えられる。
(※5) 小林浩之氏によるネットの記事に基づく。実名で仕事や家族のことまで記載をされており、信憑性は極めて高いと判断される。この中で、小林氏は、「機体は揺れた。通常の気流変動とは異なる、ミシミシ、ギシギシときしむような(不気味な)音を聞き取った。」、「当時の日記には、『いつになき振動と、思い出せば不愉快』とだけ記してあるが、事故原因が分からぬ段階で、前便の乗客として事情聴取を受けるだろうと覚悟した。」と記してあると述べている。続けて、「事故の原因はどうあろうと、このきしみ音を異常と感じ取り、大阪には飛ばさないという選択があり、事故を防げなかったのかというのが心に残り続け、それが私の拭いきれない関心となった」との心情を吐露し、他の乗客のうち、知人の子供たちも、「ギシギシ音がしよる」と騒いでいた、搭乗者の 中には山下徳夫運輸大臣もいたと記した。後日、小林氏が事故当日366便の機⾧を務めたパイロットに会って話す機会に恵まれ質問したところ、元機⾧も尾翼の異常を感じていたという。2010年小林氏が日航に対し、「この事故は、直前で防げた。事故は理性だけでは防げないが、人の感性によって防げる。」と指摘したとおり、機⾧・副操縦士を除きFEやCAなど乗員の大半が前便と同じだったことから、これらの不具合事象の発生に気付かないはずがない。事故調は、真に隠したかった事故の本質は、キャリーオーバー(遅延整備)による事故原因への影響ではなかったかと考えられる。
(※6) この特殊仕様の機体が誕生した背景には、国内乗客数の急増に対し主要空港が乗入便数を増やせない事情があり、一度に大量の乗客を輸送する所要があった。
(※7) 遺族対応に疲弊した日航男性職員1名が自殺、同女性職員1名が過労死、運輸省航空局検査官が自殺、遺族2名が過労死するなど、こうした人々も事故被害者である。
(※8) 1987年4月27日国際エアライン操縦士協会連合会が、機⾧ら3名の乗員の不屈の努力を讃え、その遺族に(ポラリス)賞を授与することになったが、心ない人から事故を起こした乗員が表彰を受けるとは何事かなどと、抗議の電話や脅迫文が相次ぎ、機⾧夫人は出席を取りやめ、機⾧夫人の代わりに同僚の職員が出席した。
(※9) 国際民間航空条約機構(ICAO)の第13付属書「航空機事故及びインシデント調査」には、「(調査の再開)調査終了後に、新しくかつ重大な証拠を入手した場合には、調査実施国は調査を再開しなくてはならない。」とあり、加盟国の日本は、これを履行する義務がある。ちなみに再調査の例では、1979年11月28日ニュージランド航空901便の南極飛行における墜落事故の際、運輸省による調査結果に対し、国内で議論が沸き起こり、別途王立調査委員会が設置された例がある。
(※10)就航約1 年後の1971(昭和46)年7月30日パンアメリカンのB747 が、サンフランシスコ空港を離陸する際、ギアを地上の進入灯鉄塔に接触させ油圧3系統を破壊したものの、残る1系統で方向舵、昇降舵、補助翼を使い緊急着陸を果たしたことが、ジャンボ機の安全神話のきっかけとなった。
(※11)8月14日午前10時半ごろ日航役員2名による落合さんへの聴取は、前日に130針を縫う大手術を受け、集中治療室で酸素マスクと点滴、心電図をとり骨折した腕を吊った状態で10分間行われた。事故調による聴取は、この前日、調査官と医官によって病院収容の45分後に既に行わ れていた。この中で落合さんは、調査官に対し、「急減圧の場合に直ちに行われる緊急降下はなかった。耳は、それほど痛くなかった。」と語っていたにも関わらず、医官は、「教科書どおりの急減圧が起きたわけですね」と聞き返し、落合さんは何も答えなかった。これらの事実は事故後15年を経て明らかになる。
(※12)機体が横滑り、ローリングとヨーイングといった横の運動を同期的に繰り返す飛行状態のこと。
(※13)後に、航空局は国内の3 つの航空会社、3 つの航空機製造会社を通じ、「目視点検による亀裂の発見について」継続調査を行ったところ、亀裂全体の68%がB747で占めており、亀裂の91%は胴体から発見されたものだった。国外でも機首部(セクション41)に次々と亀裂が発見され、ボ社は無償で修理した。
(※14)1980年の初めには、日本の航空産業はB767の製造分担で、参加企業が30社を超え、ボ社との関係は緊密さを増していた。このため、米側は謝罪により日本側の姿勢変化を促すと同時に、あえて経済紙に記事を掲載することで、企業に現実的対応を求めたものと考えられる。1985年末にはボ社はB747-400で日本企業との生産分担を更に拡大、B777の製造でも、隔壁、尾部及び後部胴体、ドアを分担した三菱重工では、事故調からの調査協力には消極的であったという。
(※15)ボ社が、報道を通じ世界の航空関係者に対し冷静な対応を促し、とりわけ日本側への謝罪で早期に決着する選択した背景に、株価低下の恐れとエアバス社の急速な台頭への焦りがあった。先のニューヨークタイムズ紙の発表には、「B747の設計自体に欠陥はなく、修理ミスがあったのはこの一機だけの問題だ!」と強調するボ社のコメントが付け加えられていたことからも、そうした本音が窺われる。事実ボ社は、最新機B767の販売が振るわず、新型ジャンボ機B747-400により巻き返しを図ろうとしており、ベストセラー(事故当時600 機超が就航)だったB747の安全性の問題に波及することは、是が非でも避けたかったと考えられる。
(※16)1994年9月8日のUS エア427便B737の墜落事故では、FAAがマスコミにリークした管制塔のテープが元で空中衝突したのではないかとの騒ぎになり、正常な調査が阻まれ、方向舵脱落という事故原因の特定が遅れ、同種事故が繰り返されることにつながった。
(※17)日本の場合、警察の捜査も同じで、犯人が特定、動機の解明もされていないにもかかわらず、各省庁の記者クラブ又は番記者に対し、情報がリークされ、マスコミが垂れ流した結果、性急に犯人と決め付けられ、えん罪や報道による人権侵害など新たな被害を生む。近年では松本サリン事件の際の第一通報者だった河野義行 氏が被害に遭ったのがその典型例である。マスコミ各社は謝罪文を掲載しただけ、⾧野県警は公式に謝罪をしなかった。御巣鷹山事故では、補償交渉にまつわる報道が、遺族の苦しみに更なる追い打ちをかけた。
(※18)うち1 名の委員は元日本航空運航部⾧の糸永吉運氏であり、当時週刊誌が委員でいることは、「航空事故の原因に関係があるおそれのある者と密接な関係を有する委員は、その調査に従事させてはならない。」という航空事故調査委員会設置法(13 条)抵触するのではないかと報じたことがきっかけだったかもしれない。残る1名の委員は元運輸相航空局参事官の小一原正氏であり、不満が残る調査結果を前に辞任を申し出た(隔壁の修理ミスという単純な原因で事故が発生したわけではないという無言の抗議だった)としても不思議ではなかった。というのも、かつて前出の全日空羽田沖墜落事故の事故調査では、B727型機の国内線の導入に際し積極的な推薦役を果たしてきた木村秀政調査団⾧が早い段階からボ社の主張と同じ操縦ミス説を主導していることに抗議して、山名正夫委員(当時明治大学教授、元海軍技術中佐で海軍航空技術廠に所属、彗星や銀河を設計)が辞任、運輸省航空局航務課調査官(首席飛行審査官)の楢林一夫氏が調査団、航空局上層部と対立し早期退官したことがあったからである。両名はいずれも機体の不具合ないし設計上の欠陥を指摘しており、調査結果は原因不明となった。
(※19)この事故調査では、垂直尾翼(リア・スパー:後部桁)と胴体をつなぐ胴体側取付金具のボルト穴から生じた金属疲労により発生した亀裂跡があるのが発見されたこと、回収した残骸の破壊状況、具体的には凹みや擦り傷、塗料などの痕から、最初に破壊した垂直尾翼が、胴体付け根部分から「左側に倒れた」ことが推定され、報告書としてまとめられたものの、ボーイング社を気遣ってなのか非公開扱いとした。この際も、海外では一斉点検の結果、垂直尾翼構成品の亀裂、損傷が次々と発見され飛行停止の騒ぎとなった。
(※20)相模湾の海底は、水深200~300m程度である。1996年2月6日、バーゲン航空301便の事故では、事故調査を行ったドミニカ共和国の依頼により、米海軍の深海救助艇CURVⅢが出動し、水深2,200mもの海底からFDRとCVRを回収し、NTSBによる解析の協力を得て、事故原因を特定するに至った。
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