利益と道徳は両立する|渋沢栄一『論語と算盤』が教える経営哲学
渋沢栄一は91年の生涯で500以上の企業を設立し、600以上の社会公共事業に関わった。その渋沢が「自分の人生でもっとも後悔していること」の一つとして挙げたのが、17歳のときの「身の程知らずな立志」だという。日本近代資本主義の父が若き日の自分を戒め、晩年になって「成功も失敗も、誠実に努力した人間の身体に残ったカスに過ぎない」と書き残した。結果ではなく、成すべきことを成し続けることこそが人間の本分だと説くこの書は、いまの時代にこそ刺さる。
今回の輪読会では、「結果か過程か」という現代的なジレンマ、志の立て方と方向修正の関係、良い競争と悪い競争の使い分け、そして道徳教育の限界と可能性について、白熱したディスカッションを行いました。
この本を読むべき人
経営やビジネスに「哲学」を持ちたい人
渋沢栄一の思想に触れたいが原典は難しそうと感じている人
利益追求と社会貢献のバランスに悩んでいる人
著者プロフィール: 渋沢栄一
1840(天保11)~1931(昭和6)年。実業家。約470社もの企業の創立・発展に貢献。また経済団体を組織し、商業学校を創設するなど実業界の社会的向上に努めた。
輪読会で議論したこと
結果か過程か。君子論と論語と算盤の哲学的緊張
今回のディスカッションで最も議論が白熱したのが、この問いでした。渋沢は本書を通じて「道を成すことが重要であり、成功や失敗という結果はその残りかすに過ぎない」と繰り返し説きます。一方で、輪読会で以前取り上げた君子論は「志を遂げるためには、時に道を外れてでも結果を出すことがリーダーの責務」と述べています。さらに言えば、「結果がすべてであり、成功したものが正義」という現代の経営哲学とも相反します。
参加者の間では、「すべての局面において同じ哲学を適用するのは難しく、守らなければならない本当の勝負のときは結果を求める立場を取らざるを得ない」という意見と、「ただしその場合も悪い競争の手法には踏み込まない、正義感を持って戦うというのが渋沢的な在り方ではないか」という視点がすり合わさっていきました。最終的には、目先の勝ち負けではなく積み重ねの中で学び続けることが渋沢の言う「道」であり、君子論的な勝負どころの見極めと矛盾しないという着地に至りました。
志はどうやって立てるのか
渋沢は17歳のときに立てた「武士になる」という志を、後に「身の程知らずであった」と振り返っています。では、自分の能力や地位に相応しい志とはどうやって見極めるのでしょうか。今回の輪読でも「合理的に自分の力量を判断してから志を立てよ」という渋沢のメッセージに、参加者の多くが「そんな簡単に分かるものではない」という違和感を持ちました。
Zoomの創業者エリック・ユアンは渡米前にビザを8回拒否されながらも志を持ち続け、渡米した時点では明確な事業構想もなかったという事例も話題に出ました。そこで浮かび上がってきたのは「小さな志をポンポン立てて、実行しながらアップデートし続けることで、本当の志は後から見えてくる」という考え方です。社会に何かを提供できた瞬間に初めて自分の本分が分かる。渋沢自身もパリ万博でキャピタリズムに出会って以降、志が大きく更新されていったように、志は一度立てて終わりではなく立ち続けるものであるという結論に自然と落ち着きました。
良い競争と悪い競争、そして悪い競争への対処法
渋沢は競争そのものを否定せず、むしろ競争がなければ社会は発展しないと述べています。しかし「相手の真似をして相手を奪い取るような競争はしてはいけない」とも明言しています。ここで参加者から問いが投げかけられました。自分の会社が健全な競争を志向しているとき、競合他社がすべて不正な手段で戦ってきたらどう対処するのか。
この問いに対しては、「正義感を持って対処することが論語の立場であり、悪があるからこそ戦わなければならない局面がある」という方向で意見がまとまっていきました。悪が蔓延することで不幸になる人の数を減らすために、無理してでも正しいやり方で勝ちに行くことが社会全体への責任だという考え方です。それは決して君子論的に「手段を選ばず」ということではなく、正面から誠実に向かっていくことが渋沢の言う「良い競争」の極限形であるという解釈でした。
道徳はだれが教えるのか
「道徳も時代とともに変わる」という渋沢の指摘から、道徳教育の難しさについてのディスカッションに広がりました。道徳の授業でテストを行い採点するというニュースが話題になったこともあり、そもそも道徳は学校が担う領域なのかという疑問が浮かびます。本来は家庭や師弟関係の中で醸成されるものであり、かつての塾や師匠という形のように、敬い慕う関係の中で自然と育まれるものではないかという意見が出ました。
また、道徳が標準的に共有されていない子どもたちのための専門の幼稚園の話も紹介されました。社会の共通認識としての道徳を理解できない子が一定数いるという現実は、道徳がそもそも教えられるものなのかという根本的な問いを突きつけてきます。渋沢が強調する知・情・意という人格の三要素、とりわけ「情」の部分は他者との相互作用の中で育まれるものであり、採点できるものではないというところで議論は収束しました。
知・情・意という人格論と、自分の根底にあるもの
渋沢の人格論の核にある「知・情・意」の三要素について、参加者のひとりが「自分がずっと感覚的に大切にしてきたことと完全に一致していた」と語り、その一致に衝撃を受けたと話しました。愛や尊敬や思いやりを根底に置くからこそ他者の意見に耳を傾けられるようになり、それが知識を広げ、価値観を更新し、進むべき道を照らしていく。渋沢はこれを「地・上・位」という言葉で語っており、まさにその流れが自分の内側にあった考えと重なったというのです。
渋沢はまた「論語を読むことは大事だが、頭でっかちになってはいけない」とも述べています。哲学や道徳に没頭しすぎると現実が見えなくなる、という戒めです。論語を引き合いに出しながらも自ら実業界でゴリゴリと動き続けた渋沢だからこそ、その言葉には説得力があります。
感想
改めて読み直してみると、生き方や精神修養の面など、学ぶことが非常に多かった。
第五水準のリーダーが書かれている。
論語をもう一度読み直さないといけないなと思った。
線を引いたところ、Noteを残したところは、前回とほとんど同じだが、深く理解できているのではないかと思った。
前にこの回で確かKohei君が聞いていたが、志をどうやって立てるかというのが先のことを考える上でキーだなと思った。
また、論語の引用ももちろん多いが、家康の行動や考え方をすごく強く反映していると気づいた。
競争のところ、悪い競争と良い競争の話がやはり引っかかるなと。自分が良い競争をしていても、相手が悪い競争をしていたらなど。
志が間違っていても、表面が良い人を助ける、心が大きい。
道徳の教え方、今は誰が教えているの?学校がそれを担当する場所になって、道徳教育に採点みたいなのを採用しているが、これはおかしいと思う。
お金に関する良識ももっと広まっていて欲しい。
引用
いかに自分が苦労して築いた富だ、といったところで、その富が自分一人のものだと思うのは、大きな間違いなのだ。要するに、人はただ一人では何もできない存在だ。国家社会の助けがあって、初めて自分でも利益が上げられ、安全に生きていくことができる。もし国家社会がなかったなら、誰も満足にこの世の中で生きていくことなど不可能だろう。これを思えば、富を手にすればするほど、社会から助けてもらっていることになる。
道徳の根本に関していうなら、昔の聖人や賢人の説いた道徳というものは、科学の進歩によって物事が変化するようには、おそらく変化しないに違いないと思うのである。
同じ解釈。根本的なものは変わらないと思う。根本的な物事をどのように実行していくかということが変わるだけだと思う。
冒頭にあった、論理の解釈力が上がって道徳を維持できるという点も賛成はできない。どれだけ人間の知能が上がったとしても、論理は欲望や喜怒哀楽などの感情の力に勝てないし、どちらがベースに近い観念なのかを理解する必要がある。
こうして考えてみると、論語などの心を鍛えるみたいな、論理より深いところから人間を教育していくというのはとても理にかなっていると思う。
適材が適所で働き、その結果として、なんらかの成績をあげることは、その人が国家社会に貢献する本当の道である。
「人の一生は、重い荷物を背負って、遠い道のりを歩んでいくようなもの、急いではならない。不自由なのが当たり前だと思っていれば、足りないことなどない。心に欲望が芽ばえたなら、自分が苦しんでいた時を思い出すことだ。耐え忍ぶことこそ、無事に長らえるための基本、怒りは自分にとって敵だと思わなければならない。勝つことばかり知っていて、うまく負けることを知らなければ、そのマイナス面はやがて自分の身に及ぶ。自分を責めて、他人を責めるな。足りない方が、やりすぎよりまだましなのだ」
これが一番響いた。
「一個人の利益になる仕事よりも、多くの人や社会全体の利益になる仕事をすべきだ」という考え方を、事業を行ううえでの見識としてきたのだ。そのうえで、多くの人や社会全体の利益になるためには、その事業が着実に成長し、繁盛していくよう常に心がけなければならない。
「人を治める者は人々から養われる存在」と武士たちは信じ、ここから、「人に食べさせてもらうからには、その人のために命を投げ出す」「人の楽しみをみずからの楽しみにする者は、人の憂いをみずからの憂いにする」といった行動が、彼らの果たすべき義務だと考えてもいた
この考えは非常に大事。人を治めるからだけでなく、地球に生かされているから、食べ物や環境を大事にするというのも付け加えたい。
「天」というのは、これらの宗教家の考えているように、人格や身体を持っていたり、祈禱によって幸福や不幸を人の運命に加えるようなものではないとわたしは考えている。天からくだされる運命は、本人が知りもせず悟りもしない間に自然と行われていくものなのだ。「天」とは手品師のように不可思議な奇蹟などを行うものではもちろんない。
学問の力を知りたければ、こう考えればよい。賢者も愚者も、生まれたては同じようなもの。しかし、学問をしないことによってたどり着く先が異なってしまう。
成功や失敗というのは、結局、心をこめて努力した人の身体に残るカスのようなものなのだ。
こうありたいなと思った。NHKの会長が、「そしてそれをあげましょう」と言っていたのを思い出した。
疑問
適材適所というのはどう判断すべきものか?
上の人が適正をみるのが合理的な判断だと思うが、自分の権勢のために自分を採用している人はどう対処する?
大きな志の立て方とは?前にKohei君が言っていたことでもある。
良い競争はそうだが、相手が悪い競争の時は?自分がそれにどうしても勝たないと負けてしまう場合などについて。
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