愛は技術である|フロム『愛するということ』が教える本当の愛し方
「たくさん持っている人が豊かなのではなくて、たくさん与える人が豊かなのだ。」フロムのこの一言は、現代の恋愛市場で「もっといい人がいるかもしれない」とスワイプし続ける私たちに、真正面から突き刺さります。
1956年に出版された本書は、恋愛テクニックの本ではありません。愛とは何か、なぜ人は愛を求めるのか、そしてどうすれば愛する技術を身につけることができるのかを哲学的に解き明かした一冊です。輪読会では「シャンパンタワーの法則は本当か」「マッチングアプリ時代に成熟した愛は可能か」など、予想以上に白熱した議論になりました。
📖 この本を読むべき人
「愛されたい」と思っているが、なかなかうまくいかない人
恋愛や人間関係を感情論ではなく論理的に考えたい人
自分の人生に対する態度そのものを見つめ直したい人
著者プロフィール: エーリッヒ・フロム
1900年、ドイツ・フランクフルトに生まれる。ハイデルベルク、フランクフルト、ミュンヘンなどの大学で学んだのち、ベルリンで精神分析学を学ぶ。フランクフルト社会研究所を経て、1933年アメリカに渡り、のちに帰化。イェール、ミシガン州立、ニューヨークなどの大学で教鞭をとり、さらにメキシコに移住。1980年没。フロイト理論にマルクスやヴェーバーを接合して精神分析に社会的視点をもたらし、いわゆる「新フロイト派」の代表的存在とされた。また、真に人間的な生活とは何か、それを可能にする社会的条件とは何かを終生にわたって追求したヒューマニストとしても有名である。しだいに、禅や東洋宗教へも関心を深めた。著書多数
輪読会で議論したこと
「与える人が豊かである」というシャンパンタワーの逆転
シャンパンタワーの法則という考え方があります。自分のグラスが満たされるからこそ周りの人にギブすることができ、それが世界中に広がっていくという発想です。しかしフロムはこれとは異なることを言っています。
「物質を世界で与えるということは、その人が裕福だということである。たくさん持っている人が豊かなのではなくて、たくさん与える人が豊かなのだ。」
持っているから与えられるのではなく、与えること自体が豊かであるというこの逆転は、マインドセットの根本を揺さぶります。与えることがインストールされている人は常に裕福でいられます。物質的には豊かでも、与えるマインドセットがなければ常に何かが足りないと感じ続ける。ここが七つの習慣で言われる「Love is a verb(愛は動詞である)」とも通じるところであり、愛を感情ではなく行動として捉えるフロムの思想の核心部分です。
孤独と愛は本当に表裏一体なのか
議論の中で意見が分かれたのがこのテーマです。フロムは人間が孤独な存在であるからこそ、その孤独感を埋めるために愛を求め、他者と融合することを欲するのだと説きます。
しかし参加者の一人は「孤立の反対側に愛があるとしたら、それはまだよくわからない。むしろ満たされる延長に愛があるのではないか」という見方を示しました。友愛からの愛は理解できるが、孤立を埋めるための愛はピンとこないという感覚です。
興味深い具体例も出ました。ある参加者の幼馴染が、好きでもない女の子とずっと付き合い続けているという話です。それはお互いにめちゃくちゃ好きというわけではなく、一時的な孤独を埋めるちょうどいい存在なのではないか。これはフロムが批判する「本質的ではない愛」の典型かもしれません。
また、社会に同調するのが得意な人は表面的には孤独を感じにくいが、同調する中で自分の中に自己矛盾が生まれ、それが別の形の孤独を生んでいるのではないかという分析もありました。認められている自分と本当の自分が違うとき、その乖離こそが深い孤独の源泉になりうるのです。
パッケージ化された社会の中でどうやって愛を実践するのか
フロムは現代社会について「誕生から死まで全ての活動が型にはまっている」「唯一無二の個人であることよりも活動の網に囚われている」と指摘しています。娯楽も型通り、仕事も型通り。この指摘は1956年の本でありながら、現代にそのまま当てはまります。
議論では「この悩みすらもパッケージの一部なんですけどね」という自己言及的な発言もありました。資本主義的にパッケージになってしまった社会の中で、愛というものをどうやって実現していくのか。
結論としては、まず知ることから始めるしかないのではないかという意見にまとまりました。こういう本を読んで知り、挑戦して、内省して、実践していくことでしか殻から抜け出せない。実践しようと試みてできなかったときに、なぜできなかったのかを考えて衛生していくしかないのではないか。
さらに「自分の人生に意味を与える」という「与える」の別の意味も議論されました。与えるとは物質的なものだけでなく、自分の生命に意味を与えるという使い方もある。この「意味を与える」ことができて初めて自分の中に軸ができ、悪なき欲求(もっといい人がいるかもしれない、もっといいものがあるかもしれない)から解放されるのではないかという考察です。
成熟した愛のパラドックス:一つでありながら二つであること
「成熟した愛は自分の全体性と個性を保ったままの結合である」「愛においては2人が一つになり、しかも2人であり続けるというパラドックスが起きる」というフロムの記述について、実際にどうやるのかという問いが出ました。
歩み寄りがないと衝突が発生するし、かといって自分の個性を捨てたら成熟した愛ではなくなる。このパラドックスをどう解くのか。
議論の中で出た一つの解釈は、人類愛の視点から考えるというものです。恋人として体裁的にくっついているように見えても、根底ではそれぞれが全体とつながっている。個としては独立して違うものでも、相手を認めて理解して尊敬していく中で、身体的な意味ではなく精神的な意味で融合することは可能なのではないか。物理的に同じ場所にいるかどうかではなく、いかに理解し尊敬して受け入れていけるか、その運命と責任を引き受けていけるか。そこに成熟した愛の本質があるのかもしれません。
恋愛の商品化とマッチングアプリの時代
フロムが「現代社会では恋愛が商品化されている」「人間自体が商品化されていて、自分の価値によって等価交換のように誰と付き合うかが決まる」と指摘していることは、マッチングアプリの時代にさらに加速しています。
Tinderのスワイプという行為そのものが「もっといい人がいるかもしれない」という悪なき欲求を体現しています。しかもその欲求は見た目だったり条件だったりといった表面的な基準に基づいている。フロムに言わせれば、これは商品交換の中でより良い商品を求めているだけです。
さらに興味深い指摘として、TinderのUI/UXに寄せた商品アプリが登場しているという話がありました。恋愛が商品に寄ってくるのではなく、僕らの恋愛スタイルが商品に寄ってきている。フロムが警告した商品化された愛が、もはや恋愛の枠を超えて社会全体を飲み込んでいるのです。
フロムが言いたいのは、愛とは技術であって、相手とどうやって本質的に交わろうとするか、どうやって深く関わるかが大事だということ。スワイプで次の候補を探し続ける行為とは対極にあるものです。
感想
一番面白かったのは、実は愛の話そのものではなく、西洋宗教と東洋宗教の違いについての部分でした。東洋宗教では神への行為こそが信仰とみなされるのに対し、西洋宗教では神を信じるという意思そのものが信仰の核になります。だからこそ「正しい思考」が真理となり、アリストテレス的な論理の追求や原子核の発見にまでつながった。キリスト教が異端者に厳しいのも、信じる心こそが信仰だからこその帰結です。
結局、愛とは「与えること」であり、人類愛のようなところに行き着くのかなという印象を受けました。フロムが最終的に語っているのは、人類愛とか地球・宇宙全体を愛するということであり、そのスケール感が面白いです。
想像していたタイプの本とは全く違いました。もっと市民的な愛情についての話かと思ったら、初っ端から「みんな商品のように異性を選んで等価交換している」「一番利益が最大のところで付き合う」という、かなり痛いところを突かれる内容でした。言われてみればそうやって世の中は回っているし、自分にもそういう気があったなと思わされました。
母性と父性の役割が明確に分けて書かれていたのも印象的でした。現代においてその壁は変わってきているはずですが、フロムの時代の文脈で読むと興味深いです。女性は出産や母乳など身体的に子供と直結していますが、男性は子供に対して何を考えているのか、という問いは今でも有効だと感じます。
この本で言う「愛」とは、人間の実存に対する人間の答えです。人間にはそもそも孤立から自分以外の人間と融合したいという欲望があり、それこそが人間の最も強い欲望であるというフロムの指摘に深く納得しました。その孤立から解消されるためには成熟した愛を持つ必要があり、それは技術として習得できるものだという主張が、この本の核心です。
「愛は愛を生む力であり、愛せなければ愛を生むことはできない」という一節が最も引っかかりました。自分がエンパワーした人が誰かをエンパワーできるようになったとき、その愛は広がっていく。一つが二つになり、二つが四つになる。この連鎖こそが愛の本質なのかもしれません。
引用
誰でも自己愛は持っている。しかし、心の底から自分のことを愛するにはどうしたらいいか。それは、自分の生き方そのものを好きにならなくてはいけない。自分自身ですら理想の生き方ができていない人に、他人を愛し、他人の生き方と融合しようとする資格などない。
恋愛の商品化
現代社会は、この没個性的な平等こそ理念であると説くが、それは粒のそろった原子のような人間が必要だからである。そのほうが、数多く集めても摩擦なしに円滑に働かせることができるからだ。
全員が同じ命令に従っているのもかかわらず、誰もが、自分は自分の欲求に従っているのだと思いこんでいる。現代の大量生産が商品の標準化を必要としているように、現代社会の仕組みは人間の標準化を必要としている。そしてその標準化が「平等」と呼ばれているのだ。
異性に対する恋愛
二人の人間が自分たちの存在の中心と中心で意志を通じあうとき、すなわちそれぞれが自分の存在の中心において自分自身を経験するとき、はじめて愛が生まれる。この「中心における経験」のなかにしか、人間の現実はない。人間の生はそこにしかなく、したがって愛の基盤もそこにしかない。そうした経験にもとづく愛は、たえまない挑戦である。それは安らぎの場ではなく、活動であり、成長であり、共同作業である。調和があるのか対立があるのか、喜びがあるか悲しみがあるかなどといったことは、根本的な事実に比べたら取るに足らない問題だ。根本的な事実とはすなわち、二人の人間がそれぞれのそん時あの本質において自分自身を経験し、自分自身から逃避するのではなく、自分自身と一体化することによって、相手と一体化するということである。愛があることを証明するものはただ一つ、すなわち二人の結びつきの深さ、それぞれの生命力と強さである。これが実ったところにのみ、愛が生まれる。
人間に対する愛
聖書に表現されている「汝のごとく汝の隣人を愛せ」という考え方の裏にあるのは、自分自身の個性を尊重し、自分自身を愛し、理解することは、他人を尊重し、愛し、理解することとは切り離せないという考えである。
自分自身を愛することと他人を愛することとは、不可分の関係にあるのだ。
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