「もっと良くしたい」のに、その「もっと」が分からない
――俳優思考・第十六回
次回作の脚本を執筆しております。書いては直し、書いては直し。
「もう少し良くなるんじゃないか」
そんなことを考えながらパソコンと向き合っているわけですが、ふと手が止まる瞬間があります。
もっと良くしよう。
うん、それはいい。でも、その「もっと」って、どこまでなんだ?と。
向上心と言えば聞こえはいいんですけどね。
当事者としては、向上しているのか迷走しているのか、だんだん分からなくなってくるんです。
例えば脚本。
昨日より今日の方が良くなった気はする。でも、じゃあ明日は?来週は?半年後に見たら、また直したくなるんじゃないの?
そう考え始めると、完成というものが急に怪しくなってきます。
役者をやっていても似たようなことがあります。
もっと上手くなりたい。もっと自然に。もっと魅力的に。もっと深く。
でも、その「もっと」の先にゴールがあるのかと言われると、正直よく分かりません。
そして、これは創作に限った話でもない気がするんですよね。
仕事でもそうでしょうし、趣味でもそうでしょうし、人によっては子育てや人間関係だってそうかもしれません。
「もっと良くしたい」という気持ちは、案外いろんな場所に顔を出します。
もちろん、だから努力しなくていいという話ではありませんよ。
むしろ逆で、足掻くこと自体はとても大切だと思っています。
ただ、その足掻きがいつの間にか、
「良くすること」ではなく、「正解を探すこと」
になってしまうことがあるんですよね。
ここが厄介なんです。
なぜなら、創作においては正解がどこにも落ちていないからです。脚本にも、演技にも、演出にも、絶対の答えはありません。
だから私は、創作の苦しさというのは、技術的な問題よりも、答えのないものに答えを出そうとするところにあるんじゃないかと思っています。
よく、「正解は何ですか?」という質問があります。
気持ちは分かります。私も聞きたくなります。
でも結局のところ、誰かが持っている正解を教えてもらったとしても、それはその人の正解なんですよね。
もちろん参考にはなるし、勉強にもなる。でも、それをそのまま持ってきたところで、自分の答えにはならない。
だから創作というのは面白い反面、面倒臭いんです。
誰かが採点してくれるわけでもない。模範解答もない。ゴールテープも見えない。なのに、「もっと良くしたい」だけは消えてくれない。なんとも難儀な世界です。
ただ最近思うんです。
もしかしたら答えというのは、探すものではないのかもしれないなと。
探せばどこかにあると思うから苦しくなる。
本当は、足掻いて、迷って、失敗して、それでも作り続けた先で、
「今の自分はこれだと思う」と決める。
それが答えなんじゃないかと。
つまり、答えは見つけるものではなく、決めるもの。
少なくとも私はそう考えています。
だから明日になったら、また脚本を直したくなるでしょうし、来月になったら今の原稿に赤を入れたくなるでしょう。
でも、それでいいんだと思います。
創作をしている限り、「もっと」は消えませんからね。
そして、おそらく人生も似たようなものなんじゃないでしょうか。
だったら、その終わらない「もっと」と上手く付き合いながら、迷った時は、迷った時の自分が答えを出せばいいんです。
昔の答えと今の答えが違ってても間違いではない。
自分で考え続けて歩んできたというれっきとした証拠だ。
そんなことを考えながら、今日もまた原稿とにらめっこしております。
次回はこちら→『人は失敗より、想像に負けている』
前回はこちら→『「自信がついたらやる」は、たぶん逆』
まとめはこちら→【俳優思考】
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